植草甚一 『映画はどんどん新しくなってゆく』 : 世論もどんどん変わってゆく
書評:植草甚一『映画はどんどん新しくなってゆく』(植草甚一スクラップ・ブック16、晶文社)
植草甚一の本を読むのは、これが初めてだ。もちろん、植草という人は知っていた。なぜなら、彼はもともと「ミステリ(小説)」畑の人であり、私のもともとの守備範囲も「ミステリ」だからである。
植草甚一の代表的著作は、日本推理作家協会賞の受賞作であるエッセイ集『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』であり、文庫化もされている。
私の場合は、「ミステリ」の中でも、いわゆる「本格ミステリ」というコア部分が好きだった。
だが、「ミステリー小説」に与えられる文学賞が、今ほどたくさん存在していなかった頃の、「ミステリー小説」界の二大タイトルと言えば、「江戸川乱歩賞」(公募新人賞)と「日本推理作家協会賞」(年間優秀作品賞)だったから、その受賞作については、「本格ミステリ」ではなくても、つまり「ハードボイルド」や「冒険小説」であっても、タイトルと受賞者名くらいなら、すべて把握していたし、読めれば読みたいと思ってはいた。
それは「小説作品」に限らず、植草が受賞した推理作家協会賞の「評論・研究」部門も同じで、できればそこまで「ぜんぶ読みたかった」のだが、実際にはそうもいかず、まずは目ぼしい人からと思って読んでいるうちに、植草は読まないままで、今に至ってしまったのである。
では、なぜ植草を「後回し」にしたのかというと、この人には「本格ミステリ」の匂いが、あまりしなかったからである。
著作のタイトル瞥見すれば、この人の基本的な守備範囲は、「ミステリ」のほかに「ジャズ」「映画」「漫画」だというのがわかる。だが、そのタイトルをさらに仔細に見ていけば、この人の好きな「ミステリ」というのは、たぶん「本格ミステリ」ではないだろうなと、そう感じられたのだ。
と言うのも、「本格ミステリ」というのは、時に「ミステリの王道」を自称するくらいで、良くも悪くも、ミステリの中でも「古典的かつ中核的な形式」であるという自負が持っているのだが、植草の場合は「ジャズ」が好きというのだから、そうした「権威主義的な重厚性」は、彼の好みではないだろうなと、そんなふうに推察できたからである。
もちろん、「ジャズ」とひとことで言っても色々あるのだろうが、しかし、素人の私でも知っているのは「ジャズは、抑圧された黒人の、反主流・反体制的なマインドから生まれてきた、自由を希求する音楽である」というようなことだ。つまり、伝統と格式ある「クラッシック音楽」の対極にある音楽ジャンルなのである。
だから、しごく大雑把に言えば、ジャズの自由さを愛する人は、クラシカルであると自負する本格ミステリの「形式重視」や「論理性重視」という特性が「合わないだろう」ことは、容易に推測できた。まただからこそ、そんな植草甚一の書くものは「私の趣味には、たぶん合わないだろう」とそうも思ったので、読む必要を感じなかったのである。
私は、反権威だけれども、脱権威ではなかったのである。
私は、「自分の趣味に合うもの」しか読まない人間かと言えば、そうではない。
事実「ミステリ」というジャンルにおいても、好きな「本格ミステリ」だけではなく、趣味ではないだろうなと思いながらも、「ハードボイルド」や「冒険小説」などの有名どころにも、ひととおりは当たってきた。
どうして、楽しめなさそうなものをわざわざ読むのかといえば、ひとつは「読んでみないことには、わからない」ということ。そして、より重要なのは「自分の趣味ではないもの」を知らないかぎり「自分の好きなもの」のことを「客観的に知ることはできない」とも考えるからである。
「好きなもの」だけ読んでいるのでは、「大海」を知らない「井の中の蛙」でしかあり得ず、自身を「相対視」することは「論理的に不可能」だ。
だから、完璧ではあり得ないとしても、それなりに自身の「好きではないもの」を知れば、「自身が好きなもの」を逆照射して、その「輪郭」を客観的に確定することもできると、そう考えるのである。
これを「本格ミステリ」的に喩えて言うなら、自分の主観に従って、「容疑者」の中から「一番くさいと思える人物を、決め打ちする」のではなく、「容疑者の中から、犯行が不可能な者を一人一人排除していけば、最後に残った者こそが、どんなに意外な人物であろうとも、犯人だ」という「シャーロック・ホームズ式の背理法」である。
ことほど左様に、私は本質的に「理屈っぽい」人間なのだ。だからこそ、「好きだから好き。好きだから、これがいちばん素晴らしいに決まっている」といった「願望たれ流し」式の発想には、与することができない。
ここ2年ほど前にジャン=リュック・ゴダールの映画を初めて見て以来、映画を研究的に見たり関連書を読んだりし始めたのも、それは、ゴダールの映画に「感動したから」でもなければ、ゴダールを「好きになったから」でもなかった。
その逆で、ゴダールの映画の良さが「わからなかった」からこそ「知りたい」と思ったのだ。その正体を自分の目で確かめないではいられなかったのであり、「わからないもの」の正体を見極めるというのは、とりもなおさず「自分を(客観的に)知る」ということでもあったからである。
だから、『ぼくは散歩と雑学がすき』 という著作を持つ植草甚一という人は、ある意味で私とは真逆だから「私の趣味には合わないだろう」と、そう論理的に推測した。
植草が、理解不能なのではなく、植草の「好み」がわかりやすすぎるので、興味を持てなかったのである。
植草の著書には、ほかにも『いつも夢中になったり飽きてしまったり』というのもあるが、このタイトルが意味しているのは、植草が、「ミステリ」や「ジャズ」や「映画」などを、「好き」という感情において語る人であり、「なぜ、それなのか?」「それ以外ではダメなのか?」ということまで突き詰めて考える人ではない、ということであろう。だから「読む必要はない」と判断した。
「好き」で動く人は、それが「嫌い」になることはあっても、初めから「嫌い」なものにまで、こだわったりはしないものだからだ。
その点、ゴダールであれば、私の「趣味には合わない」としても、「わからない」部分があるからこそ、探究する価値もあったのだ。
言い換えれば、植草甚一には、そうした「謎」や「見透しがたい深み」は感じられない。
「好きなこと」「流行の最先端」「おしゃれなこと」に、真っ先に跳びついて、それの「紹介者」となった人。そのことによって、「教祖」的な人気を博した人なのだろうというくらいのことは容易に窺えたから、むしろ興味が持てなかった。
分かりやす過ぎるものはつまらない。むしろゴダールのような、一筋縄ではいかないヘソ曲がりの方にこそ、私は惹かれるのである。
いずれにしろ、たぶん植草甚一という人は、「本格ミステリ」にも「クラッシック音楽」にも、さしたる興味はなかっただろう。
植草は、「従来の本格ミステリ」から「少しズレた、新しいところ」を紹介する「クライム・クラブ」叢書の編者にはなり得ても、「どうして本格ミステリが好きになれないのか」と突き詰めて考えたり、それを語るような人でもなかったはずだ。彼はただ、「好きなもの」を「素晴らしい」と賛嘆することで、「同好の士」により認められた人だったのではないか。
無論、それが「悪い」と言うのではない。所詮「趣味」とは「好き嫌い」なのだから、「好きなものは好き」と言うこと自体は、何も悪くはない。
ただし、論拠もなく「これが素晴らしい」と言うことは、厳密には、「無責任」という意味において、好ましいことではない。なぜなら「素晴らしい・ダメだ」といった評価は、いつでも、周囲の他のものとの比較においてしか語り得ないことだからである。
まあ、そこまで厳格には問わず、「誉める時」なら「好きだから」というだけでも構わないとしても、しかし、「否定批判する」際には、当然それ相応の「論理的な説明が必要」だというのは、多く人の賛同も得られよう。
だがそれも、「井の中の蛙」同士でうなづきあい、そこが「世界のすべて」だと勘違いしているような場合には、その必要性を忘れてしまう者も少なくないのだ。なぜなら、その狭い世界がすべてであり、その中では「みんなが、そう言っているのだから、そうなんでしょう」と、そう考えがちだからである。
だが、これが間違いだというのは、少しでも歴史を学んだ者には、わかりやすすぎるくらいに明白な事実でしかない。そんな理屈は、「村ウチの論理」でしかないのである。
実際、このレビューを書くために、先ほど「植草甚一」をネット検索してみると、彼が『サブカルチャーの元祖』と呼ばれた人だというのがわかったし、事実そうなのだろう。
もちろん、先ほども書いたとおりで、「サブカルチャー」が「好き」なのは、何も悪くはないし、「サブカルチャーが、メインカルチャーに劣る」とも思わない。
ただし、「サブカルチャー」が、「メインカルチャーに勝る」とか「メインカルチャーと対等である」と主張するのなら、当然のことながら「メインカルチャー」に対する「客観的理解」がなければならない。それが無ければ、そんな判断が下せないことは、論理的に明らかだからだ。
「好き」と「他と比較して優れている」ということの区別がついていないのであれば、それは単なる願望充足的な妄言であり、宗教信者の言う「わが宗派こそが正しい」というのと、何ら選ぶところがないのである。
しかし、そのように考えていくと、植草甚一が、やはり「教祖」的に評価された人だったというのが、見えても来るだろう。
彼は「好みを同じくする人」たちにはありがたい存在だが、そうでない人には「あまり説得力が無い」から「物足りない」とか「つまらない(詰め切れていない)」ということになってしまうのだ。一一まただからこそ、私にとっては、植草甚一という人は「興味の対象外」だったのである。
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ならばどうして、今回、植草の本を読むことにしたのか言えば、それは植草本人に興味があったのではなく、「映画」を語る有識者として、淀川長治・蓮實重彦・山田宏一といった人たちとは筋の違うところにいた、見る角度の違う人の意見をチェックしたかったからである。「映画」というものに対する「別角度からの照明」として、参考になるかもしれないと考えたのだ。
で、じっさい本書『映画はどんどん新しくなってゆく』は、その価値のあるものであった。
まず第一に、本書には「ヌーヴェル・ヴァーグ」の発生に立ちあった、同時代の文章が収められている点だ。つまり、評価の定まった後に、そうした世評を、後から無難に追認したようなものでない、と一応はそう考えられる。「後で、文章に手を加えた可能性」までは否定できないとしてもである。
また、「ヌーヴェル・ヴァーグ」のほかに、同じ頃アメリカで勃興していた「前衛映画」の潮流や、それ以外の諸外国での目立った「新しい動き」を、主に「英米の資料を紹介する」かたちで紹介している。
つまり、今となっては、忘れられたに等しい、もう語られなくなった同時代的な現象がそこでは語られており、その点でも、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を同時代の中で相対的に位置づけることができるのだ。
そして、本叢書が「スクラップブック」となっているのは、要は、植草本人の意見よりも、他のいろんな人の意見を収集して、これを紹介したものだからである。
そのため、本書に収められた植草の文章の主眼は、英米での「映画に関する議論」の紹介であり、植草自身の意見は、言うなれば「おまけ」みたいなものなのである。
しかしながら、だからこそ、植草の「意見」には興味が無くても、本書は「面白い」。
今では読めない等しい、「ヌーヴェル・ヴァーグ」をめぐる「当時の海外の言説」を読むことができるのだ。
そんな当時の論者たちにとっての「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、まだ「海のものとも山のものともつかない、若者たちによる新しい潮流」だったのだから、それを擁護するにしろ否定するにしろ、彼らは、忌憚なく率直に、その評価を語り得たし、語っていたからである。一一だから、そこからは、今では窺い知れないような「当時の空気」を、リアルに感じることが出来たのだ。
例えば、本書の前半に置かれた「ヌーヴェル・ヴァーグ」関連の文章を、巻末の「初出一覧」から抜き出してみると、こんなふうになる(文頭の数字は、始まりのページ)。
これを見て気づくのは、ほとんどの文章が「1960年」に書かれているけれど、いくつかの例外がある、ということだ。すなわち、
これらを読むと、植草が、アラン・レネ、ゴダールの2人関しては「後で、高評価を補足している」し、フランソワ・トリュフォーに関しては「後で、若干の下方修正を加えている」と解することも可能なのだ。
レネに関しては、「Wikipedia」にもあるとおりで、1948年の短編「ヴァン・ゴッホ」以来、実験的な短編を継続的に制作しており、こうした作品については、後の「ヌーヴェル・ヴァーグ」を主導した映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』(1951年創刊)の初代編集長であるアンドレ・バザンが、そうした作品の価値を同誌で擁護している。
つまり、今でこそレネは「ヌーヴェル・ヴァーグ」の一員とされているけれども、彼は、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどとは違って、『カイエ・デュ・シネマ』の批評家あがり映画作家ではなく、早くから『カイエ』誌で好意的に評価されてきた「新しい作家」の一人であり、のちに「カイエ」派が「ヌーヴェル・ヴァーグの右岸派」と呼ばれるのに対して、レネは「ヌーヴェル・ヴァーグの左岸派」と呼ばれる人なのだ。
したがって、そんなレネがフランス国内で広く認められるようになったのは、1950年代後半からであり、世界的に認められるようになったのは、すでにトリュフォーなどの「カイエ派」が、続々と映画作家デビューして評判を取り始めたのと同じ時期に制作された長編『二十四時間の情事』(1959年)や『去年マリエンバートで』(1961年)からなのだ。
つまり、植草のレネ評価は、レネの世界的な評判を受けての評価だったということであり、バザンらとは違い、それ以前にはほとんど注目していなかった、ということなのである。
そして、ゴダールの場合だと、こうしたことは、もっと鮮明である。
1960年の『勝手にしやがれ』については、その「即興演出」という点が、「ジャズの即興演奏」との類似において、好意的に評価している。
しかし、同年に書かれた他の「ヌーヴェル・ヴァーグ」関連の文章では、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表選手の名前としては、トリュフォーは必ず出ても、ゴダールの名前は出てこない。
つまり、『勝手にしやがれ』については「それなりに」評価したけれども、実際のところ「ヌーヴェル・ヴァーグの代表選手」になる作家だとまでは、この段階では評価していなかったし、その後もさして興味はなかったのだろう。だが、徐々に高まっていく評価を受けて、1969年になって、初めてゴダールへの高い評価を表明した、ということなのだと推察できるのである。
なぜなら、それ以前にそうした決定的な好意的評価を語っていたのであれば、それを本書に収録していた蓋然性が、極めて高いからだ。
したがって、1968年になってからの「高評価」表明におけるタイトルが「「ウィークンエンド」の破壊的な意志』」であるという事実から窺えるのは、植草はたぶん、ゴダールの「映画破壊的な意志」を、当初は否定的に見ていたのであろう、ということだ。
例えば、後年の蓮實重彦との対談で語っていたように、淀川長治は当初、ゴダールを「悪魔」呼ばわりして、否定的に語っていた、というのと同じことである。
つまり、淀川がそうであったように、植草甚一また、ゴダールへの評価を、ほとんど180度変えたのではなかったか。
ただし、淀川の場合は、公然と「悪魔」呼ばわりまでしていたから、後で、評価変更についての説明をしなければならなかったが、植草の場合は、もともと「好きなものしか語らない」人だったから、評価が変わったということの説明をする必要はなく、ただの「もともと評価していたのだ」というかたちで、後になって「補足した」というかたちになったのではないだろうか。
一方、トリュフォーに関しては、植草も、トリュフォーのデビュー作『大人は判ってくれない』を極めて高く評価しており、他の文章では、トリュフォーを「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表選手として扱っていたからこそ、次作の『ピアニストを撃て』には若干の不満を覚えたようで、同作についての「トリュフォーは何かを隠している」では、トリュフォー自身の言葉を引いて「臆病になっている」という点を指摘したのであろう。
以上は、もちろんすべて、植草の「内心の問題」であり確証のあることではないし、例えば、もっとよく調べれば「植草はゴダールを、終始一般して肯定的に評価していた」という証拠が出てくるのかもしれない。
だが、出てこない蓋然性が高いというのも、何より本書から窺えたのである。
そして、こうしたことからわかるのは、植草甚一個人がどうのではなく、「後世の一般的な評価」というのは、このようにして出来上がっていくものなのだ、ということである。
当時の淀川長治に代表されるような、ゴダールへの否定的評価は、たぶん山ほど存在していたはずだ。なにしろ今でも、マイナーな場所ではそうした意見もまだまだ生きているのだから、評価の定まっていない当時においては、そうした否定的な評価も公然と語られていたはずなのだ。
それに、ゴダールの作風が、植草の言うとおり「映画破壊的」なものであるのなら、むしろそれは当然のことだったはずなのである。
だが、その当然が、すでに今では当然ではなくなって、不可視化されているところに、現在のゴダール評価の「不健全性」があると、そう考えるべきではないだろうか。
「全員賛成」というのは、そもそも怪しいし、ある意味で危険な兆候ですらあろう。
これを日本流に言うなら、ゴダールであれ誰であれ、「天皇」に祀りあげてはならない、誰にも貶せない存在にしてはならない、ということである。
今や、天皇でさえ「不可侵」ではあり得ず、謗られることもある時代だというのに。
(2024年7月23日)
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