本能寺の変1582 重要 ◎第32話 光秀の人物像 出来る男 信長の人物像 リアリスト 行動力 実行力 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第32話
光秀の人物像 出来る男
信長の人物像 リアリスト 行動力 実行力
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*以下は、第32話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
上杉一辺倒の状況下。
藤孝は、表立っての活動が出来なかった。
その藤孝に代わって、光秀が動いていたのではなかろうか。
先述した、「フロイスの証言」も、「多聞院英俊の証言」も、そのことを
裏付けている。
時間的にも、ピタリと一致する。
【参照】6信長との出会い 1使者光秀 小
第30話
フロイスの証言。
多聞院英俊の証言。
◎光秀は、出来る男(切れ者)。
光秀は、美濃・越前、両方の事情に精通していた。
時流に敏感で、頭脳明晰。
実行力もあり、交渉力もあった。
切れ者である。
気力・体力、ともに充実。
正に、適材。
「使者」
光秀に、打って付けの役目だった。
◎信長は、軍事力強化を最優先に考えていた。
◎信長は、伊勢を狙った。
当時の信長は、軍事力強化を最優先に考えていた。
それさえあれば。
「上洛はいつ=でもできる」
そう、思っていたのではないか。
美濃・尾張・伊勢。
この三ヶ国は、ともに、石高の多い豊かな国である。
「次は、伊勢」
そこに、有力な戦国大名はいない。
◎正に、マキャベリ。
◎徹底的な、リアリストである。
マキャベリは、ルネサンス期に生きたイタリアの人。
フィレンツェ共和国の外交官という。
1469年生~1527年没(応仁元年~大永七年)。
その著書、「君主論」は、あまりにも有名である。
政治的に混乱した時代。
それを、乗り切るために、権謀術数を用いることを良しとし、
現実主義に徹すべきことを説いた。
後世の政治・外交に大きな影響を与えた。
◎信長の先見性・着眼点や、恐るべし。
◎信長は、卓越した行動力と実行力を兼ね備えていた。
◎軍事力の背景には、経済力があった。
石高=経済力=軍事力。
◎すなわち、領国拡大。
軍事力強化=領国拡大。
信長の領国は、美濃と尾張。
いずれも、穀倉地帯。
きわめて生産性の高い国々だった。
当時の経済基盤は、「米」。
石高の多いところに、「人」が集まり、「銭」が集まった。
また、三本もの、大河があり、伊勢湾へ通じていた。
東西南北、縦横無尽に繋がる交通の要衝でもあった。
したがって、昔から商工業も盛んな地域だった。
となれば、なおさらである。
信長は、軍事力を強化した。
すなわち、兵と武器。
それを可能にしたのが、「米」・「人」・「銭」だったのである。
◎藤孝は、光秀を信長の使者に起用した。
「上洛」について、信長は、自分の方から働きかけるという考えはなかっ
たのではないか。
その逆である。
義昭の要請により動く、というスタンスだったように思う。
その意味で、藤孝が、光秀を「使者」として起用したことは、実にグット
タイミングだった。
◎光秀の貢献度は、きわめて大きい。
このような状況の中で、交渉は行われた。
となれば、「使者」の役割はきわめて重要となる。
「光秀ならばこそ」
これを成し遂げることが出来た。
そう、思う。
◎光秀は、褒美として、幕府の足軽に用いられる。
そのことを、誰よりも、よく知っているのが、細川藤孝と信長だった。
光秀は、程なく、幕臣(足軽)となる。
この時の褒美として、である。
吝嗇家の義昭の決めること。
また、出自・境遇等のことも、あったのかもしれない。
藤孝としては、これが精一杯だったのだろう。
◎信長は、光秀を高く評価していた。
だが、信長は、これを見ていた。
間もなく、光秀を京都奉行に抜擢する。
そして、さらに重要な役職へと重用していく。
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく