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Nomal Not Nomal -今川焼きで御座候 食卓で考えるやさしいIA

この記事はWorld IA day 2024 TokyoでLTとしてお話しした内容を読み物として再構成したものです。

今川焼きで御座候

こんにちは、今川焼き

今川焼き、それは魅惑のお菓子。丸くて甘くてあったかくてあまりにも美味しい。外で売っていると買ってしまうという人も多いはず。
だけど、このお菓子はインターネットでは諍いの原因となることが多い。
そう、このお菓子は今川焼きという名前以外にもとてつもなくたくさんの名前を持っているのだ。大判焼き、回転焼き、御座候、その他もろもろ……

かくいう私はずっと「今川焼き」という名称を使ってきた。

中央線沿線は武蔵境、イトーヨーカ堂。そこに小学生の頃の私は週末のお買い物の時に車に揺られて連れられてきて、お腹が空いた3時のおやつにそこの地下にあったフードコートの中のポッポというお店の今川焼きを買い与えられていたのだ。今でこそ大人になってから発症したアレルギーによって今川焼きは食べられないしそもそもポッポが閉店してしまっているのだが、今川焼きは幼少期から慣れ親しんだ味であり、鯛焼きとはまた違ったあのつるっとした表面の感じを好んで食べていたのである。私はつぶあん、弟はカスタードを好んでいたことを覚えている。

昔なつかしのポッポ。日本のファストフード、って感じだった。

今川焼きの今川は諸説あるが、一説には神田の今川橋が発祥と言われているので、中央線の民たる私にとってはその名称はごく自然なものとして受け止められるものであった。
大判焼きという名称も見ないことはないがあまり身近ではなく、なんだか遠いものと思っていたことは間違いない。

初めまして、大判焼き

そんな私もご縁があって2年ほど前に結婚をした。相手は千葉県の内房出身。ふとした時に今川焼きの話をしたら、自分は今川焼きと呼ばないと言われた。大判焼きである。
同じ関東圏内なのに、あれ?と思っていたが、よくよく話を聞くと彼の実家の近くのお寺さんでは初詣の時に出店が出て、そこで売っているのが大判焼き、ということらしい。今年たまたまタイミングがあって連れて行ってもらったが、本当に大判焼きだった。

屋台での大判焼き。そもそも正月に屋台出るんだね。

ちなみに彼の実家では生協をとっていてそちらでは冷凍の今川焼きが買えるのだが、今川焼きと大きく書いてある冷凍のパックを見ながら「大判焼き食べる人〜?」と家族に呼びかけているのを見て、見ているものと口に出ているものが違う!と大いにびっくりしたのもこの正月である。え、いいんだそれ。

今川焼き=大判焼き?

一般的に、今川焼き、大判焼き、回転焼き、御座候などと呼ばれるお菓子は同じものを指している。しかし、同じものなのに別の名前で呼称しているため、齟齬を生まないようにするため何らかの手立てが必要不可欠なのだ。

ということで、我が家はこういうルールに落ち着いた。
『今川焼き=大判焼き、名前は好きに呼んで良い。』

大判焼きは今川焼きなのだ。

つまり、我が家ではこのお菓子が一意に定まることを確認した上でそれぞれ違う単語を喋っている状態である。
そして我が家の定義は「この形のお菓子で生地や中身の材質は問わないものをそれぞれ今川焼き、大判焼きと呼ぶ」としている。今川焼きと大判焼きは同一のものを指す、というところが我が家のコンセンサスの肝であり、これがずれていないことがこの呼び方を可能にしている。

これが例えば、どちらかが今川焼きや大判焼きにあんまりにも興味がないとか、実家が代々それを専業で売っているとか、そんなことがあったらこんな悠長な方法は使わないはずだ。何かしらの別のコンセンサスの取り方が必要になってくる。あるいは、どちらかの思っている今川焼き、大判焼きがよりその分類の中の小さいもの、例えばつぶあんのものだけが大判焼きとか、という考え方だったとしたら、それはそれで手当が必要だろう。
ということで、いくつか他のパターンも考えてみた。

それぞれ別のものとして認識する

大判焼きはあんこ、それ以外はなんと呼んでもいいのだ。

根本的にどちらかの定義が何か違う場合、別々のものとして再認識することがありうる。大判焼きの中身が特定のものだったり、どこか特定の場所で売っているものだったり。
東北の方で売っているあじまんは大判焼きだけれど、あじまん本舗で売っている大判焼きがあじまんなのだ。この場合はおそらくだけど、あじまん本舗のものだけがあじまんと呼ばれ、それ以外のものは今川焼きないし大判焼きと呼ばれる可能性がある。
あるいは、大判焼きの餡が特定の餡の場合も同じようなパターンが考えられる。例えば大判焼き=あんこが入ったもの、となっている人であればあんこがはいった今川焼きは存在し得ないものだし、逆にカスタードが入った大判焼きは大判焼きの定義から外れているからそれも存在し得ないものなのだ。

余談だがこの世にはお好み焼きの中身が入った今川焼きや鯛焼きがあるらしい。甘くなくても成立するとは恐れ入ったものだが、これをあんこが入ったものとイコールとするのは場合によっては難しいかもしれない。鯛焼きは形が名称となっているからそれ以外の呼びようがないため一意に定まる可能性が高いが、それでも一定の人には鯛焼きと受け止められないだろう。
しかしその場合はなんて呼ぶんだろうね。思いつかないあたり、結局諦めて鯛焼きと呼ぶような気がしてならない。

どちらかの呼び方に寄せる

大判焼きなんて言われても反応ができないのだ。

複数の名前があるもの、例えばヴィオラという楽器はドイツ語でブラッチェとも呼ばれるには呼ばれるんだけど、呼ばれ慣れていないものだからパッと聞いた時に反応できないことがある。それで不具合が起きる場合はどちらかの名前に統一することでそれを防ぐことができる。具体的には指揮者に呼ばれたときにワンテンポ遅れて反応して怒られない、とか。
慣れの話はさまざまな人がさまざまな角度から論じているから詳しい人に任せたいけれど、それこそこういう言葉を新しくするということは一定のストレスを人に与えるし、それが様々な理由で難しい人もいる。なので、この方法は比較的採用されることが多い。
特に実際の仕事の話で言えば、何かの呼び方を決めるときに特に不都合が起きる人の方に合わせる、だったり従来の慣れている呼称に合わせる、なんてことはざらにあるはずだ。

他の呼び方に寄せる

A≠B,A=C,B=Cが成り立つのが言葉の不思議なところ。

大判焼きと今川焼きは違うけど、それぞれ御座候ではある、なんて場合がある。数学ではまずもって有り得ない状況だが、言葉だったら成立してしまうことでこの方法が成り立つ。
これはそれぞれの言葉が別のところで使われていて、複数の言葉が自分の中にあるのだけれど、その複数の言葉が相互にないものとあるものがある状況で起こるのだ。ちょうどカードの中にいろんな絵柄が書いてあって、共通項を見つけるようなイメージだろう。
あるいは、相手が言う名前と別のお菓子の名前がたまたま同じ名前をしていて、そちらを先に想起させる場合もあるかもしれない。おやきといったら今川焼きや大判焼きではなく、野沢菜が入ったりあんこが入ったりしている鉄板で焼いたお菓子を想起する場合、今川焼きとおやきは別のお菓子なのだ。そんな状態でかのお菓子をおやきと呼んでいる人と意思疎通を取ろうとしたら、今川焼きと呼ぶか、別の名前を呼ぶしかない。そんな時に双方が「大判焼き」という呼称を認識していて、それらが指すものが同一であれば、それを使わない手はないだろう。

新しい名前をつける

複数人だと呼び名に困って何かしらに命名することってあるよね。

人によって呼称が違う場合、根本的に新しい名前をつけてしまうことも有効だ。何かがあってそれを指す言葉がそれぞれ違う場合、落としどころを探るよりはみんながそれを共通認識として指せる言葉があれば成り立つし、それは命名してしまった方がいい場合が多い。今まで記載してきたように、人にとってそれがどういう呼び方をしていてどういう定義をしている、ということはかなり差があることがあるし、それが人数が増えればさらに難解になっていくのだ。
もちろん何かの呼び方に寄せてもいいが、それの呼び方がそれぞれひとりひとつずつしか持ち合わせていなければ新しい名前を作ってしまった方がいいだろう。あるいは、誰も正確な名前を知らない場合。

もはや呼ばない。

名前を呼んではいけないお菓子。

折り合いがあんまりにもつかない時、名前もつけずに「アレ」と呼んだり、そもそも食卓に出すことをやめてしまったりすることももちろんあるだろう。たかが名前、されど名前。

名前がたくさんで、中身が同じということ

名前の決め方は事程左様に難しい。難しいというか、簡単にこれ。と決めてしまうようなものではないからだ。でもなぜそう思うのか。これは、名前や呼称と呼ばれるものはその人がどう認識するに至ったのか、という文脈がありきで存在するものだからなのじゃないかなと思う。

例えばなんで今川焼きと大判焼きが同じと思っているのか、あるいは違うと思っているのか、そこは大袈裟に言えばその人の人生経験によって分岐するポイントだから、その人がなんでそう認識してるんだろう〜みたいなのが大切で有り、近くのお店では別々の名前で売っていた、それぞれ売っている店が違ってそこでの名前が違った、親がそう呼んでいた、など様々な理由があるだろう。
ちょっとしたポイントだけど、ここを聞く聞かないでその後の人間関係が変わったりするかもしれない。

お味噌汁はあなたのみぞ知る?

名前がひとつで、中身が違うということ

今までは名前がたくさんで、中身が同じということについて論じてきた。
それでは考えることはひとつ。逆は?
名前がひとつで中身が違うものは思いつくだけでお雑煮、プリン、お味噌汁なんかもそうかもしれない。お雑煮は地域によってかなりの差があるし、プリンは硬いとか柔らかいとかだけではなくフルーツが入っていたり抹茶が入っていたりと様々なパターンがある。

お雑煮も名前が一緒だけど中身が違うね

でも、ご家庭でよく問題になるのはきっとお味噌汁だろう。
お雑煮は家庭の味がお正月に出てくるひとつかふたつになるだろうし、プリンはそこまで毎日レパートリーを持って食べるものではない(食べてる人がいたらごめんなさい)。けれど、お味噌汁は多くの場合ご家庭でよく作られるし、様々な具材だったりお味噌だったりと中身に多様性があるし、それがひとつの家庭で起こるメニューなのだ。

お味噌汁と呼ばれるものはある程度のコンセンサスはあるものの人によって詳細な定義が違う。これも齟齬が起きないようにしている、あるいは自分の解釈している内容と違う中身に許容をしているのではないか。
ということで、まずは我が家の定義を見てみたい。

味噌汁が愛されすぎている

まずは我が家の定義だ。これはこの資料を作るにあたって改めて家庭でどうだっけねえと改めて話したものだが、あっさり結論が出た。

お味噌汁の定義=「味噌が主体で出汁引いてればなんでもお味噌汁」

である。
味噌の種類、出汁の種類は和食で使うものであれば問わないが、ブイヨンとか鶏がらスープだとラーメンスープ?となるのでちょっと考えてしまうだろう。また、具材は何でもOKで最近美味しかったのは鮭とじゃがいもと玉ねぎ。もちろん豚汁もお味噌汁。
余談だがこの話をするにあたってけんちん汁は味噌を入れるのかという内容で激論が交わされたが、これは片方の実家で豚汁≒けんちん汁だったというちょっと不思議な事象が起きていたからであり、調べたらけんちん汁ってすまし汁では?という話になり、そのまま流れで豚汁とけんちん汁の違いを聞いたらごま油の有無になり、とりあえずこの辺にしておこうということになって放置されている。けんちん汁は醤油で味付けしたすまし汁だと思うんだけどなあ。どっちにもごま油入ってると思うんだけどなあ。

閑話休題、これの定義を友人たちに見せてみて意見をもらった。その結果、
「赤味噌しか認めない!」
「味噌と出汁と2種類以下の具材を入れたものがお味噌汁。」
「定義は同じだけど豚汁は味噌汁じゃないんだけど」
「土井善晴先生リスペクトなので味噌入ってたら味噌汁」
「さっきおいしかったって言ってたやつ石狩汁では?」
とほぼ全員にあれこれ言われる結果となった。

お味噌汁、愛されすぎでは?と思いつつ、これらの意見も分類ができそうである。まずはお味噌汁の具材の範囲問題だ。具材や種類の問題であり、より狭い範囲をお味噌汁としていたり、あるいは限りなく広い範囲をお味噌汁としている。次にお味噌汁自体の範囲問題。石狩汁や豚汁といった独立した名前があるものをお味噌汁に包含するかという視点になるだろう。

ベン図を元に考えてみよう、お味噌汁。

懐の深いお味噌汁

各人のお味噌汁がベン図で表されるとして、集合全体や部分集合をとる、つまり土井先生リスペクトの「味噌が入った汁なら全部お味噌汁」だったり、相手がいうなら私が違うなと思ってもお味噌汁、みたいなパターンがひとつ考えられる。
我が家はこれに近くて、お互いに料理をするので思ってもない具材が入ってくることがある。私は結婚してから初めてちくわの入ったお味噌汁を食べてそのおいしさにびっくりしたし、相手はほうれん草とベーコンがお味噌汁に入るの?とびっくりしていた。意外と美味しいんですよ、ベーコンのお味噌汁。コストコで売ってる大きなハムでもいいかもしれない。新しいお味噌汁を知ることができるという点では広がるお味噌汁とも言えるだろう。

頑固なお味噌汁

上とは反対に、片方の集合や共通集合しかとらないパターン、つまり「私が考えるお味噌汁がお味噌汁」「あなたと私がお味噌汁と認めるお味噌汁がお味噌汁」というパターンもあるだろう。
冒険はしないが堅実で、安心感がある。お味噌汁がいつもそっと寄り添っているタイプの献立を組むのだったらきっと理想だろう。毎日永谷園のあさげ、とかいうのでもいいのだ。それでももちろんいいのだ。
あるいは片方しか料理をしないとなると自ずとそうなっていくという側面もあるような気がする。自分が出すお味噌汁しかないのであれば、相手のお味噌汁を知ることはないし、そこでもしこれはちょっと、というのがあれば自然と食卓に上がらなくなる。

もはや、汁。

あんまりにも折り合いがつかない場合があるのかもしれない。あんまり思いつかないが、赤味噌でしじみしか味噌汁と認めない人と、合わせ味噌で豆腐、わかめ、ねぎしか認めない人が一緒に暮らすこともあるだろう。そんな時はきっと味噌汁ではなくて汁物としてまとめてしまうことが多いのではないだろうか。もっともっと広い世界でまとめる、という考え方。シチューもポタージュもお味噌汁もトムヤムクンも分類を奪われて全部「汁物」。

折り合わなければ意外と「汁物」でまとめちゃうかも。

でもちょっと待って。
こうやって言葉をすり合わせるときってどんな時か、それはきっとこんな会話をした時ではないだろうか。
「ご飯できたよ~今日のお味噌汁はじゃがいもとわかめ」
「え、これってお味噌汁なの?」
「え?」
そこですぐさま「じゃあ汁物ね!」で片付けていいものなのか、自分としてはこういうものがお味噌汁だとすり合わせを行うのか、はたまた相手のお味噌汁観を聞いてみるのか。おそらく多くの場合は「じゃあ汁物ね!」って言われたら、あれ?と思うはず。だって相手がお味噌汁と思っていないことをあっさりと流されている状態だから。コミュニケーションてそれでいいんだっけ?

あなたのみぞ知るお味噌汁。

お味噌汁は地域や家庭によってかなり異なるから、いろんな定義がある。つまり文化の違い、背景の違いで言葉の定義が変わってしまう。背景を知ることで初めてそういう定義をしていたの?ということがわかることがたくさんある。
あなたのお味噌汁はあなたの中のお味噌汁でしかなく、他の人から見たらそれはお味噌汁じゃないかもしれない。定義が内的なものなのだ。そして、言葉にして説明ができる部分とできない部分がある。ある程度言語化はできるから、それですり合わせをする。それで初めて名前と中身の一致が相手と行われる。何か違うパターンが出てきたら聞いてみる。そうやって他人との言葉の一致を試みることができるのだ。
これは仕事をしていて意外と起こることで、あれ、そんな意味でその言葉を使っていたの?だったり、私が思ってた使い方をしていない、なんてことはざらにあるし、そういうことは何かことが起きてからしか表面化しない。でも、あらかじめきちんと言葉とその中身をこう!というふうに決めておくことができれば……って思う。思うんだが。

おしなべて鍋

今回この話をまとめるにあたって、我が家のお味噌汁の定義について「味噌が主体で出汁引いてればなんでもお味噌汁」としたが、水分については定義をしていなかった。豆乳を入れた場合、おそらく豆乳スープになるだろうと思っていたが、試してみようと豆乳ベース味噌で味付け、昆布出汁でネギと豆腐が入った汁物を作ってみたら「鍋の味」がした。

鍋?

鍋とは何か。鍋で作ったら鍋か、そしたら大体の食べ物は鍋になる。寄せ鍋とチーズフォンデュはともかく、パエリアが同じ枠に入るのは流石にちょっとわからない。でもパエリアを作るのはパエリア鍋だ。
そして鍋でスープで何かを煮るというのを一旦の定義としたとして、鍋の中身は何をもって鍋となるのだろう?あと名前、〇〇鍋なら鍋だなってわかるけどじゃあ水炊きって鍋なの?いや多分鍋なんだけど本当に?そして、鍋の味とは。正直未だに自分でもわかっていない。でも、鍋なのだ。

これらを鍋というには無理があるけど器具としては鍋で作ってるんだよな

事程左様に鍋=中身、言葉共に曖昧。とりあえず夫に鍋の味しない?といってみた。
鍋の味がしたらしい。
感覚は一致したが、定義が二人とも出てこない。何を持って「鍋の味」としたのかが不明確なのにコミュニケーションが成立してしまったのである。
このような定義や意味を置いておいて納得感だけで言葉を定義していることの方がきっと生きている中では多いのではないだろうか。鍋だなあと思ったら鍋だし、スープだなあと思ったらスープなのだ。
おしなべて、みたいな感じで白黒つけられない言葉の方が生きていく中では多くて、きっとそれがいろんなサービスやプロダクトを作るとき、お仕事をするとき、お家でお話をするとき、さまざまな局面で我々に寄り添ってくれたり、前に立ちはだかるのかもしれない。
言葉と定義の探究は続く。


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