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コクトー「阿片」とは「何か?」

コクトーの「阿片」という作品は、フランスのマルチタレント、ジャン・コクトーが阿片に中毒し、その後の解毒のための入院生活で書いたものである。副題に、「或る解毒治療の日記」とあり、数々の断片、ノート、スケッチからなる。「阿片」は別に薬物をやることについて讃美的な意見を述べた作品ではない。色々と彼は、我々をそのレトリックで騙すのだが、前提として、「阿片中毒を直すために」入院したのだから、阿片肯定の意見が述べられているわけではあるまい。しかし、それより前の大前提として、この本に「意見」などというものはあるのだろうか?

そもそも阿片中毒者に意見なども求めぬのが世の常識であって、だからこの「阿片」はコクトーだから薬物中毒症状の症例以上の意味を持って読まれるはずである。ただ、じゃあこの本の読者はコクトーの文学性に心打たれ、人間性の復活などのテーマを感じて涙するかというと、そういうわけでもないような気がする。なにせ、この本に一括したテーマもなにも無い。あるのは単なる断片だけだ。
じゃあ、もういっそのこと詩集か、ひとつの大きな詩として読むのも悪くないが、コクトーはあきらかにこれを「詩」として書いていない。なにせコクトーは別に詩のためのコーナーをここに設けている。

ではなにかというと、やっぱり記録とか日記とかいう生活が強い。では、それは何の記録なのか?精神的な記録?じゃあ問う。精神的な記録という字面をばちっと見た時、君はその逆説性に気付かないのか?
彼はこの「阿片」にもうしっかりと書いている。

僕の或る断面から生れ、思念(パンセ)が内から外へと急激な通過に際して受ける硬化によって生れる文体(スタイル)がそれだ。

()内はフリガナ。ジャン・コクトー「阿片―或る解毒治療の日記ー」堀口大學訳 p.96 角川文庫.

つまり、精神的なもの、彼の思念(パンセ)は彼の文体(スタイル)によって表現されるのだ。であれば、「精神的な記録」というのは、彼の文体が表現するものの記録ということになる。
しかし、「表現するものの記録」というのは明らかな逆説で、記録の対象がシニフィアン(意味)自体だというのに、実際のところ、記録されているのはシニフィエ(記号=文)である。
この奇妙な意味のねじれが「阿片」を支配している。それを看過せずにコクトーが示した様々な内容の「意味」を探ってもうまくいかないように思う。
コクトーの「阿片」はまず、「精神的なものの記録」という逆説の中に立つ。

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