【ソシュールの言語学と構造主義のつながり】1/4 人はなぜ恣意的であることを嫌うのか?
「恣意」についての辞書的な解釈
言語学者のソシュールが指摘した「言語の恣意性」と「構造主義」の関連性について、自分なりにまとめたnoteの記事を書こうとしている。
このふたつの思想用語の関連をまとめていくうえで、「恣意的である」ということがひとつの鍵になるので、少し考察をしてみることにするが、「恣意的」という言葉はあまり使い慣れない言葉なので、まずは辞書的な解釈をしておきたいと思う。
「恣意」は「しい」と読む(中国語では「zì yì」)。恣意性の反対語は規則性。
「恣」一文字であれば「ほしいまま」と読むこともでき、”権力を恣(ほしいまま)にする”とはよく聞く言い方だ。
ちなみに「ほしいまま」は「縦」とも書き、”権力を縦(ほしいまま)にする”としてもいい。これはもともとは、権力を「盾」に自分勝手で横暴な言動をすることから「盾」を「縦」にして一本やりな様子を皮肉った表現(私の自分勝手な想像です)のように思える。
このように「恣意」は「ほしいままの意」を意味していて、「恣意的」とは気ままで自分勝手なさまとか、論理的な必然性もなく思うままにふるまうさまというように解釈できる。
恣意的であることは嫌われる
さて、一般に恣意的であることは嫌われる傾向にある。「社長の恣意的な言動に振り回されて、さんざんなことになった」とか、自分勝手な振る舞いに対して恣意的だという言い方をする。
他にも学術の世界では、論文に恣意性が見いだされると、学者としての信頼は担保できない。例えば、自分の研究にお金を出してくれた人に都合のいいように論文を書けば「御用学者」のレッテルを貼られ揶揄されることになるだろう。さらに自分自身の都合のいいように論理展開をして客観性を欠けば、たちまち論文としての価値も失ってしまう。
このように恣意的であることには、マイナスのイメージがつきまとう。
逆に、恣意的でなく客観的に思慮深く考えて振る舞っていることがわかれば、その社長は耳目を集めるだろう。
または、恣意性を排し、規則に則って客観的に論文を書けば読むに値するものと認められる。さらに、その論文の価値が高ければ、他の論文に引用されることにもなり、未来の学問に貢献できるかもしれない。
なぜ人は恣意的であることを嫌うのか?
恣意的であることについて、「一般的に人はどうして自分勝手な人を好きになれないのか?」ということも視野に入れて、もう少し考えてみたい思う。
突発的にわけのわからない行動に遭遇すると人は理解に苦しむ。例えば、会議中にいきなり鼻歌を歌われたり、電車で車掌のアナウンスに反応して踊りだす人を目の当たりにしたりすれば、理解に困るだろう。
なぜこうした「自分勝手な行動」に対して、理解に苦しむのかというと、行動に規則性も必然性もないからだと思う。突発的な行動をとった本人にはその行動に独自の規則性や必然性があるかもしれないことは否定できないが、はたから見ていてはなぜそういう行動をとったのか原因がわからない限り、規則性も必然性も見えてこない。
人は原因と結果がはっきりしないことにはモヤモヤすることもあるし、規則性や必然性がともなわない行動を嫌ったり警戒したりする心をもっている。
また、規則性や必然性のない行動というものは、その行動に普遍性をもたせることも一般化することも難しい。人間の理性の働きは、混乱より秩序を求めるし、独りよがりな意見よりも普遍性のある言動を信じる傾向にある。また人に対しても、コミュニティから外れるような異端の人より、「普通であることから外れない」行動がとれる「一般的な人」と関わっていたいと思う。
恣意的な行動というものは、一般化されることが難しく普遍性がないし、規則性や必然性が感じられない行動でもある。恣意的な行動が嫌われる理由は、普遍性、一般性、そして規則性や必然性が見えないことによる心の戸惑いや不安にあるのではないかと思う。
もう少し深堀りして考えてみると、人は自分の心の平穏を乱す恣意的な行動を嫌うと同時にその行動者も好きになれない。恣意的な行動は嫌だったが、その人を好きになってしまったということには恐らくならないだろう。逆に、一度嫌いになってしまった人の恣意的な行動がますます嫌いになることは誰にでも少なからずある経験だろう。
こう見てくると「恣意的に〇〇する」ということについて、嫌いになる矛先は、恣意的な行動にも、その行動者自身にも向けらている。一般に「恣意的」という言い方をするのは、負の感情をともなう感情論的な表現である。
それに対して、ソシュールが言う「言語の恣意性」は感情論ではない。(つづく)