見えないリンク、読書という宝探し。
インターネットのコンテンツには、ハイパーリンク(hyperlink)という仕組みがある。この仕組みによって、Webページに埋め込まれたリンクから関連するページへとジャンプできる。
説明するまでもないかもしれないが、たとえばテキストの一部分が下線とともにブルーなどの色になっていて、カーソルを合わせると指などのマークに変わる。その状態でクリックすると、別のWebサイトにページに遷移する。これがハイパーリンクだ。写真など画像にリンクを張ることもできる。
デジタルの世界は、ハイパーリンクによって情報がつながり、無数の網目のようにネットワークが形成されている。
では、紙の本はどうだろう?
当然のことながら、紙の本にリンクを埋め込むことはできない。ハイパーリンクと似ているものがあるとすれば、アスタリスク(*:asterisk)と番号によって場所が指定され、本文より小さめの文字で書かれた「注釈」だ。
注釈は論文などに多く、本文中に引用された参考文献の詳細情報、解説、あるいは見解の補足などを記載する。本文中には記号と番号だけが挿入され、情報や解説は章の後、巻末などにまとめて記載される。もちろんアスタリスクを指で押したところで、ページが自動的にめくられて注釈に飛ぶようことはない。
といっても、実は注釈があろうがなかろうが、テキストはあらゆる情報とつながっている。
記号論ではコンテクスト(context)と呼ばれているが、言葉は見えないリンクでつながっている。コンテクストを日本語に訳せば「文脈」。本の中の言葉だけでなく、時代のトレンドや文化など、本の外側に向けた文脈がリンクとして張り巡らされている。
社会学者でもある古市憲寿さんの『平成くん、さようなら』を読んだとき、紙のページから平成のトレンドに向けて、無数のリンクが伸びているのが見えるような気がした。書物の外部に向かう網目のような世界に眩暈がした。それこそ織物(テクスト)なのかもしれない。時代を遡ると、田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』もコンテクストの濃い小説だったような印象がある。
コンテクスト濃度が高い小説に限らず、ふつうの小説にも特定の言葉が外部に向けてリンクを伸ばしている。分かりやすいのは、小説内に引用されている別の小説、音楽、映画などである。ファッションや飲み物、食べ物もある。
物語自体を楽しむことはもちろん、コンテクストのリンクを辿って、そこから別の小説を読んだり、音楽を聴いてみたり、実際に映画を鑑賞すると楽しい。アニメの聖地巡礼もコンテクストの愉しみといえるかもしれない。
読書によって見えないリンクを探す愉しみは、宝探しに似ている。
どこに宝が隠されているか分からないから、読書は気が抜けない。物語内で主人公が読んでいる小説、カフェに流れている音楽、記憶の中で再生されるような映画をいちいちチェックしてしまう。これは!と思うアイテムがみつかったら、必ず本を脇に置いてスマホで検索している。思いがけない宝がみつかったときには、小説がもっと好きになる。
吉田篤弘さんの『おるもすと』という短い小説を読んだときには、巻末の創作秘話的なエッセイの中に、キース・ジャレットの「マイ・ワイルド・アイリッシュ・ローズ」という曲名をみつけた。ぴん!と宝探しのセンサーが立った。
いつかラジオで聴いた「I Loves You, Porgy」が思い浮かんだので調べてみると、同じアルバムに入っている。その場でAmazonでクリックして購入。いまでは毎日のように聴くお気に入りの一枚である。
当然のことながら、小説を読むときには物語自体を楽しむことが大切だ。しかし、コンテクストのセンサーを働かせて、外部の素晴らしい宝物をみつける読書も愉しい。物語の道筋から外れて宝探しをすることも、本を読む醍醐味のひとつと考えている。
2024.1.21 BW