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なぜ「それ」を阿弥陀如来と呼ぶのか3(スリー)
念佛は記号か象徴か。
パース記号論によれば、象徴性とは、ある記号(例: 南無阿彌陀佛)とある記号(例: 如来の智慧と慈悲)の関係が恣意的なもの、あるいは慣習的な規則性に基づいているものを指す。言うなれば、「なぜ、これとそれとは結びついているのか」といった理由が慣習的な規則性以外では説明できないものが象徴性だ。
われわれが「智慧」について念(おも)うとき、どんな光景が浮かぶだろう。
俺は智慧と聞くと、長大な経典とその伝統的解釈をスラスラと誦じる学僧や、由緒正しくも古めかしい儀式の次第を暗記し、厳かに式を進行する役僧などよりもむしろ、すべてを知悉しながら何も識らず、あるいは何も持たないかのように振る舞い、狂ったように短い聖句を繰り返し口遊む痴人に智慧の光を観る。
たとえば室内温度計を見たとき、世間知の者はその部屋の室温を記号によって知るが、如来は温度によって水銀が上下する法則性を智る。
俗世では「知る」ということは、現象のある一要素を恣意的に取り出し(一度「知る」と、二度と知らなかった自分に戻ることはできない)、その場において最善/最適とされる解釈を与える苦しみに満ちた作業とされている。
無信仰者の目の前には、無数の──それ自体は本来的には無意味な──記号が所狭しとポップされており、それらの記号の一つひとつの中から、最もお洒落で格の高い、あるいは論理的に正しい、あるいは人類の幸福に資する組み合わせを選択した者が知者とされる。
それに対して大乗仏教の智慧は、〈現実〉に起きているすべての現象の無限の過去の因果と、そこから導き出される無限の未来の選択肢をすべて内包している。如来の白毫に照らされた〈現実〉からは表意記号の呪術性が取り払われ、ただ記号が記号でしかないことが顕になり、世間の約束ごととしての“意味”は剥がれ落ちる。
点と点を結んでできる星座が織りなす壮大な神話は、如来の六神通のひとつである天眼通の前では、ただ観測距離が異なる恒星が個々に輝いている夜空にしか映らないことだろう。
このように世間知と佛智はまったく異なる(カテゴリーエラー)どころか、傍目には真逆の性質のように映る。
世間知では複数の記号、たとえば言語や図式を組み合わせ、約束ごとと規則性によって解釈を擦り合わせ、意味内容を伝達・集積し、人類繁栄の礎とする。
如来は諸所に乱立する世俗諦を知悉しつつも、それらを含んで超えていく。より大きな法則性、あるいは無限の過去、無限の未来、そして〈現実〉そのものを顕にする。
ゆえにその作用は、光に譬えられてきた。
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次にそのような真の智者、無上菩提を成立させた如来がわれわれに垂れる「慈悲」を念(おも)うとき、どんな光景が浮かぶだろう。
慈悲とは、そもそもが四無量心(慈・悲・喜・捨)のうち、慈 (梵: maitrī)と悲 (梵: karuṇā)からなる観想対象である。念(おも)われることを前提とした人間の心のはたらきである。
如来と俺とを分つものは、個々の要素、記号の集合でしかない。その勝義諦を完全に把持した一切智者が俺を眺めるとき、まるで鏡でも見るように、お前自身を覗き込んでいることだろう。
一切智者とはお前のことであり、あるいは俺を“意味”するこの歩く糞袋こそが如来であったり、お前であったりするのだ。
名付けによる分別知が生じさせた見せかけの差異、あなたとわたしとの間の距離は、無量光の名を持つ如来の智慧と慈悲を介することで、再びゼロに戻すことができる。
なぜなら「それ」は意味の外側にありながらも、われわれにも容易に呼ぶことのできる名を、馴染み深い六文字の記号を持っているではないか。
南無阿彌陀佛