「発達障害」という言葉がラベル付けのように感じられることがありますが しかし、誰かが「発達障害かも?」と考えることで、その背景に理解を持とうとするならば、それ自体はポジティブな取り組みです 単純に「やめてほしい」と反発するのは、他者の可能性や学びの機会を拒絶することになります
「やっぱり多様性は駄目だった」じゃないんだよ 「多様性」を「見ないように、聞こえないようにする蓋」として雑に扱ってたから 「多様性」を捨てなければならなくなった という話であって、 「尊重されるべきものが尊重される社会」は依然継続されなければならないんだよ
アインシュタインやナポレオンが発達障害だった という話は興味ないですけど それを支えた身近な人の伝記とかがあったらびっくりするほど読みたい
お子さんの行動に介入する際は行動を点ではなく、線でみることが重要なのです
こんな記事も投稿しています お子さんの行動に介入する際は行動を点ではなく、線でみることが重要な話 https://note.com/lucky_ogasan698/n/n01c192288b8a
支援者としては 障害が重度だろうが軽度だろうが、健常児だろうが 「そのお子さんに合わせた、必要な支援」を提供するだけなのです
私は教員にしっかり発達支援の知識、技術、経験はあったほうがいいと思ってるし、それは教育の一部だとも考える
「健常、障害のあるお子さんも育児の大変で差なんてないよ」というのは 元支援者の立場からは 「大変度」の差は確かにあります とても「同じ」、「差がない」と言えないなぁ… それが言えるのは「知らない」ということ 「知らない」ことを自分の評価で軽々に言葉にするものではないのです