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私たちは「椅子に座れる子」を育てたいんじゃない。「みんなと一緒にいたい」と思える子に育てたいんだ。


療育や保育、そして子育てにおいて子どもたちと関わってきて、保育者としても保護者としても最近切に感じるのは、

「椅子に座れる子を育てたいんじゃない。みんなと一緒にいたいと思える子に育てたいんだ」

ということです。

私たち大人は「みんなと一緒にする」ことに価値を置きがちです。

特に、朝の会や一斉に活動をする場面で「椅子に座る」ということに焦点があてられます。

保護者からは「みんなと一緒に座れるようになってほしい」というニーズが少なくなく、
保育者も「今はみんなと一緒に座って」と(時には強引にでも)座ることを促します。

「椅子に座る」と言うのは「集まりに参加する」という意味と、ほぼ同意を思っていただきたいです。

療育の現場では、時に「椅子に座る」をゴールに支援を組む場合もあると聞きます。


ちょっと立ち止まって考えてみましょう。


大人たちは、子どもにどうしてそんなに椅子に座ってほしいんでしょう?

☀︎学校に行ったら座れないと困るから?
☀︎それが当たり前だから?普通だから?
☀︎活動が滞るから?
☀︎他の子が真似するから?
☀︎言うことを聞いてほしいから?


あれ??整理していくと、大人側の都合も大きいことが見えてきますね。


じゃあ、椅子に座れる子は、どうして座ってくれるんでしょう?

☀︎当たり前だから?
☀︎特に理由はなく?疑問も抱かず?
☀︎みんながするから?
☀︎座らないと怒られるから?
☀︎我慢して?

子どもの本心はわからないとして、

確実に言えることは、
大人が準備した「活動自体が楽しい」と思えれば、子どもは自然に大人の元に集まってくるということです。

子どもたちがもし特別に活動に惹かれなかったとしても、集まって座れるのは何故か?

1番は「みんなと一緒にいたいから」という動機づけがあるからだと思うんです。

私たち人間は社会的な生き物ですから「人との交流」を求めています。「人との関わり」の中で喜びを感じます。

人との交流に失敗したと感じて、落ち込んだり、命を断つ人がいるほどに、人と人との中に居場所を感じることが、私たちが生きる上で必要なのですよね。



一方で
「椅子に座らない子」の理由を考えてみますね。

☀︎そこに座っている意味がわからない
☀︎活動に興味が持てない
☀︎座らせられている感が嫌
☀︎大人が無理に座らせようとする雰囲気に拒否感を抱いている
☀︎椅子に座るのが苦手

子どもには子どもなりの理由があります。

最後の「椅子に座るのが苦手」について言うと、堅い椅子に座る時に触覚防衛反応が出やすいので、触覚の過敏があるお子さんは、それが理由で椅子に座るのが苦手ということもあります。
椅子には座らないけど、先生のお膝になら座れるっていうのは、そういう背景があります。
(これを知っているのと知らないのでは、子どもの対応にかなり差がでますよね。)


「座らない子」も、自分が本当に興味のあることが始まれば、自分からすっと座りにいくのを何回も見てきました。

大人たちに必要な視点は「座らせる」ことでも、「座れない子」と問題視することでもなくて、
「どうしたら座りに来てくれるかな?」と子どもの側に立って活動を提供することです。


もっと言うと、大人に座らせられることに嫌気がさして「座るもんか」とこじらせてしまった子が思わず「座りたくなる」活動を考えることは、何てやり甲斐のある仕事なんでしょう❗️

意図的に「座らない」ように見える子は、追えば追うほど、逃げていきます。
だから、追わずに待っていてください。

楽しい、わくわくする、興味が向く活動を用意して、「待っている」。
絶対に来てくれると信じて「待っている」。

そこには「人」と「人」との想いの繋がりが生まれていますよね。

「あの先生がしてくれることはいつも楽しい。心地いい」とその子が認識してくれるようになれば、「座る」ことに抵抗がなくなってきます。

周りの子どもたちも心から楽しんでいれば、その雰囲気がその子にとっても「心地いい」になっていきます。
「一緒が楽しい」と思えるようになれば、もう自然にそこにいるんです。


短期的な「座れる練習」なんて要らない。
むしろ、良かれと思ってしたことが、子どもに二次障害を起こさせることもあります。

目指すのは長い目で見て「みんなと一緒にいたい」と思えるようになってもらうこと。


そう、私たちは「椅子に座れる子」を育てたいんじゃない。「みんなと一緒にいたい」と思える子に育てたいんだ。

これが、今の私の想いです。



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