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作業療法とは…「受動から能動へ」のみちしるべ、かもしれない

こんにちは。
新年あけましてと思っていたら、もう節分。
前回の投稿で書きましたが、まさに「1月は行(い)く」ですね。

そんなこの頃。職場の作業療法士さんと話をしていて思いついたことを、書き留めておきます。

阪神淡路大震災の時に被災者の心のケアにあたっていた精神科医の方が書かれた本である『心の傷を癒すということ』。

その中に、次のような内容のことが書かれていました。

トラウマとは、きわめて受動的な体験である。
本人の意志とは関係なく災害に見舞われ、大きなストレスを被った。
だから、受動的な状態から能動的な状態に変化する手助けをするのが、心のケアなんだ、と。

この「受動的」という言葉が表現するところについて、発達支援ではたくさん目の当りにします。

それはつまり、「環境」です。

どんな親御さんか、どんなご家庭か、どんな住居に住んでいるか、どんな学校園で過ごしているか、など。

これらはまぎれもなく「環境」です。
そして作業療法では、こうした「環境」からの影響を受けて、その人自身が形成される、という捉え方をします。

「環境」から影響を受けるとは、ある意味で「受動的」なんですね。
だって、子どもは親を選べませんし、(小さいうちは特に)学校園も選べません。
選べないというより、『それが当たり前』という感覚でしょうか。

一方で、子どもは「環境」に対して能動的にはたらきかける存在である、なんて捉え方もできますね。

この丸くて転がっていくものは何だろう?
このおもちゃはどうやって遊ぼうか?
この先生はどんな人だろう?

そうやって、「環境」に対して自分なりにはたらきかける存在でもあります。

この受動と能動のバランスの崩れが、いわゆる「作業機能障害」なのではないか、と。

これは何も問題行動として表面化しているとは限りません。
一見、支障なく過ごせていることが多いと思います。

いや、支障なく過ごせているからそれでいいじゃないか、と言われればそれまでなんですが…本当の意味でその人らしく過ごす、こととは離れている状態かもしれません。

少なくとも、私が日々接する子どもたちとの関わりの中では、こうした視点が必要だと感じるわけです。

セッション中、活動はシェアできるんだけど、いざ一人遊びになった時に、私の視線ばかり気にしている子がいました。
安全を確保できる範囲で、私はその子から視線を外し、いわばそれぞれで”好きに過ごす”時間と空間を作ったわけです。
すると、おもちゃのテントの中で横になったその子は
『は~~。。。』と大きなため息をついてリラックスをし始めました。

えっ。。。そんなに緊張してたの?( ´-`)

私という一人の大人との個別セッションでさえ、ここまで緊張するなら、学校ではどれほどの緊張や戸惑いを感じているだろうか。
ましてやそれは、本人が好んで選んだわけではない「環境」で、文字通り「受動的」な状態なわけです。

。。。そっか。

この子の個別セッションは、そうした「受動的」な状態から、たとえ一時的でも解放される場なのかもしれない

「受動的」な状態からの解放から、「能動的」な状態の経験の積み重ねをするところに、(この子にとって)個別療育としての価値が出てくるのかもしれない。

他にも、

いつも自分を強く見せようとするけど、いざうまくいかなくなると自己保身の発言ばかりする子。

「〇〇くんは、◇◇が上手なんだ」と、クラスメイトのことばかり話し、話した直後は、ほんの一瞬表情が固まる子。

本当はみんな”うまく”やりたい
本当はみんな”よろしく”やりたい
だけど、できない
なぜか、できない
なぜかはわからない

そんな子どもたちの『心の声』をきき、
『なぜか、できない』の『なぜ』を分析し、
受動的な自分から、能動的な自分になる。

そんなお手伝いができるのが、作業療法(occuptional therapy)なのかもしれません。

「受動から能動へ」の支援を行うことが、あの難解で抽象的な概念である「occupation」の「therapy」なのかもしれません。

そして子どもの「occupation」、能動的な状態の積み重ねとは、
つまり「遊び」なんですね。
だからこそ、作業療法では「遊び」を用いるんだなあと。

さて、明日は何をして「遊ぼう」か。。。(^-^)/

追伸

受動と能動の話が出たところで、こんなタイトルの本(積ん読)を思い出しました。

『中動態の世界』(著・國分功一郎)

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