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障害児への療育は本当に必要なのか?療育とは何なんだろう?

昨日、便利なものにはリスクが潜んでいるという内容の記事を書きました。

子どもにとっての保育や療育についても、本当に大切なものは何なのか?
真理と言うと大げさですが、考えても行きたいという事も書きました。

そこからの続きです。
障害児の療育って最近耳障りのいい文言が多くありませんか?

言葉が出るようとか、理解を伸ばとか。
ようは〇〇出来るようにします的な…

それって悩み多き保護者には殺し文句てある。

だって、言葉さえてればとか理解さえ伸びればこの子どもは大丈夫って特に障害受容期の親は考えちゃう。

それが親ニーズとなり結果できる力を育む児童発達が増えている。

出来ることが増えることが良くないことではない。
大切なことだ。
もちろん私だって、保育や療育を携わっている人間なので子どもの「出来る」が増えると本当に嬉しい。

しかし、ここで言いたいのは子どもの力の切り売りや健常児と比べてその年齢ならば〇〇と要求していませんか?って事です。

保育を知っている方なら理解していると思いますが、出来る力って木で例えると葉っぱや果実の部分になります。

本来ならば地面に根を張らせて幹を育てることで枝葉が付き花を咲かせ実らせることが出来る。

その果実の一つが、表出言語(しゃべる)としよう。

では、重い障害がある子どもが20歳になっても言葉が出ていなければその現状は花も実もないと言うことになるのだろうか?

それは違う。

表出言語を持たずとも豊かなコミュニケーションを取るとができる方はたくさんいる。

勿論、会話のキャッボールは困難だが自分の思いを表情で伝えてくれたり目線で要求を使えてくれる人もいる。

なにはともあれ、言葉の根っこは自分の思いを人に伝えたいって願う気持ちだ。

もっと深く言えば人に伝えたいと思いたい人がそこにいるのか?
人のことがちゃんと好きなのか?
ってことである。

人のことをちゃんと好きになる前に、りんごの絵カードを見せて「指導」とか「訓練」と言うなの大人の押し付けで子どもに無理やり言わせていないか?

「りんご」というものは、赤くて丸いものなのか?
そんなものではないはず。

深い赤い色でお尻に向けて黄色かったりしててツヤツヤ。
甘いけどちょっと酸っぱい。
かじるとカリって音がする奴やシャリって音がするやつもある。
そんな事を経験したり知っていてりんごが大好きだから「りんご」というものをより認識をする。
だから食べたい!欲しい!!って言葉を話す。というより「話してしまう」の方が的確かもしれない。

それに引き換え、絵カードで「りんご」を覚えて、「これはなあに?」と聞かれて「りんご」と答えることの違い。

分かっていただけるだろうか?

別に私は言語指導が悪いとか、絵カードが良くないと言っているわけではない。

事実私も絵カードは使っている場面ある。
どちらかというと、やはり絵カードは必要であるとも思う。

そんなHowToなことを言いたいのでなく

子どもの発達(順番)や成長段階を無視して、出来るのことにスポットをあてて切り売りにしていないのか?
ってことを言いたいのである。

今は昔と違い普通の保育園でもお勉強ごとが増えている。(特色をだしている)

小学校も学習内容がより高度になっている。

それが必要なのかもしれないが、発達がゆっくりの子どもは結果追いやられてしまう。

発達障害が増えているのは確かにそうなんだろうが、もしかしたら健常児と呼ばれる枠が以前よりも狭くかた苦しくなっていないか心配になる。

昭和の時代はもう少し子どもの「できない」に対して寛容だったように思う。

よく言われる、障害児や障害者は社会が作り出す。とはよく言ったものだと感じる。

私たちは保育者や療育者、そして保護者が本気で子ども発達を学び子どもの権利を理解すること。
そして、幼児期に何が大切なのかを考えないと、どんどん生きにくい世の中になるような気がする。

幹を太く地面にしっかりと根を張るような保育療育とは何かを私たち保育士や療育者は考えなければならない。

そして、できる力に振り回されて苦しんでいる保護者に障害や弱さを持っている幼児期の子どもたちに何が大切なのか伝える使命がある事を理解して欲しい。
及ばずながら強く思う。

だから私は今日も子どもたちと笑い合いながら、喧嘩もしながら、泣いたりもしながら真剣に「当たり前の生活」を1番大切にしたい。

当たり前の生活って凄いんですよ!


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