慶長4年(1599)1月10日は豊臣秀頼が秀吉の遺言に従い母・淀殿とともに大坂城へ移った日。5日前に秀吉の死が公表されていた。この移動により豊臣政権は秀吉の遺言で伏見城に残り政務を執る家康と大坂城に移った秀頼と傅役・前田利家の2つに分かれた。これまで政治の中心は伏見城だった。
慶長20年(1615)5月8日は大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣秀頼と淀殿が自害した日。前日までに後藤又兵衛や真田信繫らが討死し豊臣軍は壊滅状態となっていた。大坂城で焼け残った山里曲輪で最後までしたがった大野治長ら30人前後の者たちとともに自害したという。こうして豊臣家は滅亡した。
慶長3年(1598)3月15日は秀吉が醍醐寺三宝院で花見の宴を催した日。北政所や淀殿など身内や諸大名の女房衆1300人を参加させた。朝鮮での戦線膠着や秀頼の将来不安への憂さ晴らしか。11年前の北野大茶会と異なり厳重な警固で民衆と隔絶したもの。この対比が最晩年の秀吉を表していそう。
慶長20年(1615)3月12日は京都所司代の板倉勝重が豊臣再挙の計画を江戸に通報した日。ここから僅か2か月で秀頼と淀殿が自害へ至る大坂夏の陣。前年12月冬の陣の和議が成立していたが互いに戦準備をしていた。もうすぐ次が来る空気感だったのでしょうね。いよいよ戦国の終わりがはじまる。
天正17年(1589)3月9日は聚楽第の壁に落書があり秀吉が関係者を六条河原で磔刑にした日。落書の正確な記録はないが政権や秀吉個人を揶揄したものとされる。警備担当者、容疑者だけでなく、その家族、家があった町民など60名以上が処刑された。今でも独裁国家では当たり前なのかもですが…。