【続編】歴史をたどるー小国の宿命(53)

真田幸村は、徳川家康が率いる幕府軍と戦いながら、何度か秀頼に出陣の進言をしていたようである。

ところが、秀頼の母親である淀殿がそれを認めなかったので、結果的に、秀頼と淀殿は大坂城に居座ったまま、追い詰められることになる。

大野治長は、いよいよ淀殿と秀頼に危険が差し迫ろうというときに、秀頼の妻であった千姫を救い出し、千姫を使者として家康のもとへ派遣した。千姫の助命と引き換えに、淀殿と秀頼の助命嘆願を願い出たのである。

孫娘の伝言に家康はためらったが、最終的な判断を息子の秀忠に委ねた。

自分の孫娘であっても、千姫の親は秀忠だからである。

しかし、秀忠は、千姫の無事に胸をなでおろすどころか激怒した。秀頼とともに自害するものだと思っていたのである。

なんて非情なことだろうと憤る人もいるかもしれないが、現代の私たちには分からない、武家社会のけじめというものがあったのだろう。

こうして治長の願いは聞き入れられず、とうとう大坂城は落城の寸前という状況になった。5月7日の夕方、豊臣方の家臣の裏切りもあって、大坂城に火が放たれ、城はあっという間に灰燼と化したのである。

そして、翌日の正午には、徳川秀忠の命により、大野治長とその母親、秀頼と淀殿は、そろって自害した。

千姫は、その後も生き延びて、1666年、4代将軍である徳川家綱の治世下で亡くなった。死因は肺炎であり、享年70才、最期は江戸で迎えたのである。

家康は、1616年、大坂夏の陣の翌年に亡くなった。

こうして、江戸幕府が本格的に大名統制へと動き出したのは、家康の亡き後であり、秀忠の晩年からであった。

大名統制だけでなく、朝廷への圧力も必要とされた。

これまでの歴史を振り返っても、後醍醐天皇や後鳥羽上皇のように、天皇や上皇が実権を握った例があるわけだから、秀忠にとって、家康の亡き後に真っ先に取りかかる必要があった。

家康は、1615年に『禁中並公家諸法度』を制定しており、第1条には、天皇の主務として学問や和歌に専念するように規定されている。

つまり、政治に口を挟むなということを暗示している。

秀忠は、この法律を盾に幕府に従わせるだけでなく、自分の娘を入内させる計画も立てた。

まさしく、あの藤原道長と同じやり方だったのである。





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