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昔、女ありけり

1%の女たち
 「昔、男ありけり」で始まる「伊勢物語」は、在原業平を主人公にした歌物語である。「源氏物語」が書かれる前の世紀から日本文化に大きな影響を与えてきた名作中の名作だが、作者は不明である。おそらく女性ではないかと感覚的には思うのだが、それすら知る手立てがない。ところで日本史の教科書に出てくる人物の99%は男性であり、女性は1%ほどではなかろうか。とはいえいつの世でも人口に占める女性の割合は半分ほどであったはずだ。今回は「昔、女ありけり」として日本を、そして日本史を「女の視点」で歩きなおしてみたいと思う。
 
 東日本の土偶たち
 日本史上最初の「女」の姿と思われるのは、発掘された数々の土偶ではなかろうか。現在国宝指定されている土偶は五体ある。山形県最上郡の通称「縄文の女神」、函館の「中空土偶」、青森県八戸市是川遺跡の通称「合掌土偶」、長野県茅野市の通称「縄文のビーナス」および「仮面の女神」がそれである。
 中空土偶だけは性別未詳だが、その他は胸や臀部のふくらみや腰のくびれから女性と考えられ、出産の無事や種族の繁栄、または豊穣を祈ったものと推定される。その時代の女性が集団の中でどのような立場にあったかは想像の域を出ないうえ、そもそも後世のような男女の社会的役割の分化自体があったかも分からない。ただ言えるのは、おそらく縄文人は「生命を産む性」としての「女」を神聖視していたということ、そしてそれらが発掘されるのは圧倒的に東日本から北日本に偏ることだけは確かであろう。
 東北北部が誇るべき栄光の時代があるとすれば、縄文時代ではなかろうか。世界遺産登録されている北海道・北東北の縄文遺跡群のシンボルは三内丸山遺跡の木造高層建造物であろう。諏訪の御柱を思わせる六本の丸太の柱が天を衝くこの建造物は、直感的に祭祀施設ではないかと感じる。とはいえ、これは1997年に想像で推定復元されたもので、実際の形は分かっていない。ただ、考古学とは別に「観光」と「アイデンティティ」には目に見える象徴(アイコン)が必要なのだとすると、これはこれでありだろう。ここは、遺跡である前に考古学系テーマパークであり、県民のアイデンティティを確認し、再創生する場なのかもしれない。

型破りな土偶の胎内巡り
 津軽にはそれよりも面白い県民の「縄文アイデンティティ」の象徴として、あまりにも型破りな駅がある。縄文文化のシンボルともいえる遮光器土偶が発掘されたことで知られる亀ヶ岡遺跡付近の五能線木造(きづくり)駅がそれである。あの土偶を巨大化させたオブジェが駅舎の正面についており、周囲を睥睨しているのだ。1991年に造られたこのオブジェは高さ17メートル、つまり奈良の大仏より一回り大きい。ここまで目立つ駅舎を私は知らない。下手すると俗悪趣味とも取られかねないのだが、型破りな縄文文化を標榜する津軽ではこれもありなのだ。
 寂れた町なかにそれは突如現れた。圧倒的な存在感だ。駅舎にオブジェがついているのではなくオブジェに駅舎がついているように思える。車を駅前に止めて土偶の足元から駅舎に入った。内部はいたって普通の駅舎ではある。しかし私はそこから外に出て、再びあの呪術的であり、異形であり、パワフルな駅舎を見上げると、母親の胎内を巡って「生まれなおした」ような気がしてきた。もしかしたらこれこそ縄文人たちの「女性観」なのかもしれない。
 その後津軽各地を歩きながら、稲作文化導入以前のどろどろしたエネルギーがさく裂したようななにかがあふれていることを実感した。ねぶたもその一つだ。「ドン、ドン、ドン」という天地を揺るがすねぶたのリズムは、いわば縄文のリズムだ。それは現代人の心の中に眠っていた「文明」をそぎ落としたところにある何かに共鳴する。音だけではない。木枠に収まり切らない「型破り」なねぶたの絵も縄文的な美術だ。
 また、青森出身の「板画」家、棟方志功の作品にも、縄文人のDNAをそのまま20世紀に持ってきたような型破りの迫力を感じさせる。そしてそれを「縄文の美」と認識したのが岡本太郎だ。これら縄文的な呪術力溢れる型破りなパワーは、後の中央の権力者によって作られた「日本文化」に対する「日本列島の根源」として見つけた津軽の人々の自らの立ち位置なのだろう
 この国の文化の根源には「生み出す性」としての女の力がみなぎっていることが最もよく確認できるのが、博物館にありがたく収められている小さな土偶などではなく、木造駅であり、ねぶたなのではないかと思いながら、津軽の地を皮切りに「昔、女ありけり」の旅を始めようと思う。

東京国立博物館平成館ー弥生・古墳時代の女たち
 上野の東京国立博物館には訪日客を案内してしばしば足を運ぶが、平成館にある考古学展示物のコーナーまで見学する人は日本人すらあまり多くないようだ。しかし岡本太郎が日本文化のルーツとしての縄文文化を「発見」したのは、戦後間もなくの東京国立博物館だった。そして亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶が常設展で展示されているのが、まさにここである。
 その先に進むと弥生時代・古墳時代のコーナーである。弥生土器以外に目を引くのは、ずらりと並ぶ三角縁神獣鏡である。西暦240年に魏から邪馬台国の女王卑弥呼に贈られたという伝説の銅鏡として知られるが、外国が認めたこの国初めての「政治的リーダー」は女性だった。それまでも男性が王になったこともあったが、争いが絶えなかったので卑弥呼を女王としたらまとまったという。中国側は「会同するに父子男女別なし」、つまり儒教によって家父長制が定着していた中国と異なる邪馬台国の政治体制を特記事項として残している。
 「ひみこ」とは「日巫女」のことであるといわれるが、それにしてもこの国初めてのリーダーがシャーマンという、天の声を人々に伝え、人々の声を天に伝える女性だったということは実に興味深い。
 さらに進むと古墳の副葬品、埴輪がずらりと並ぶ。ここもここで「女ありけり」である。埴輪の女性はワンピース状の「貫頭衣」を身に着け、あるものは踊り、あるものは楽器を奏でている。鎧兜に身を包んだ男子はその下にニッカポッカ―状の袴をはいている。どうやら弥生人から古墳時代の人々は男女を問わずワンピース状の服を着ていたのだろう。そしてそれらは南方の諸民族と共通するが、兵士の袴はおそらく北方系諸民族にみられるものとよく似ている。
 稲作を展開していった彼らの生活は夫婦単位よりもムラ単位だったと考えられる。「村長」らしき人物のもとで原始的な階級はあったのだろうが、男女共同作業で行ったため、「農奴制のもとでの男女平等」はあったのかもしれない。

「武装女子」のギャップ萌えー神功皇后
 埴輪コーナーのすぐ近くに5世紀前後の鉄の甲冑が展示されている。韓国人が見れば、きっと朝鮮半島からもたらされたものだと思うだろう。実際私も同型のものを韓国の博物館で見てきた。朝鮮半島と言えば、日本各地のムラを束ねて南九州の「熊襲(くまそ)」のみならず、後の応神天皇を身に宿しつつ、玄界灘を渡って「三韓征伐」をしたという「日本書紀」中の人物、神功皇后を思い出す。そこには卑弥呼のようなシャーマン的な姿は認められず、戦争という「男性原理」のなかに女性指導者の姿が突如現れたのだ。皇后は古墳時代には似つかわしくない形の鎧兜に身を包み、なぎなたを片手に軍を率いる神功皇后の姿は、戦前の「男装の麗人」川島芳子や宝塚、戦後昭和の「セーラー服と機関銃」、平成の「艦隊これくしょん」「ガールズ&パンツァー」など、日本でしばしば現れる「武装女子」のもたらす「ギャップ萌え」の始まりでもあった。
 逆に言えば、社会における男女別役割分担がそれほど明確でなかった古墳時代においては、仮に女性が軍を率いても「ギャップ萌え」にはならなかったのかもしれない。なにせ神功皇后の絵は男女別役割分担が固定化する江戸時代以降に多いのだから。
 「昔、女ありけり」という視点から見るだけでも、平成館の常設展がこんなにも楽しめることを知ったのは最近のことだ。そして次には古墳時代に続く飛鳥時代に都となった奈良盆地南部の明日香村周辺を訪ねたいと思う。

「女の都」としての飛鳥
 「昔、女ありけり」の視点を持つと、何回も訪問した明日香村が「女の都」に思えてきて仕方ない。仮に天皇を、実在の可能性が高いとされる5世紀の第二十一代雄略天皇から令和まで百代以上いるとして、そのうち女帝は十代八名という。江戸時代に二人女帝があった以外、推古→皇極゠斉明(重祚)→持統→元明→元正→孝謙゠称徳(重祚) の八代六名はすべて八世紀前後の飛鳥時代に集中している。ただ現在の「天皇」と呼ばれる人々の代と名前が定着したのは1926年ということなので、南朝の天皇をどうカウントするかなどという問題も山積するが、天皇の一割弱が女帝であり、そのうち八割が飛鳥時代に集中すると考えると、この時代の政治史がいかに独特か分かるというものだろう。
 とはいえ女性天皇は男性天皇が出るまでの「中継ぎ」に過ぎないという考えもある。現に推古天皇には聖徳太子、皇極天皇には蘇我氏、斉明天皇時代には中大兄皇子、皇極天皇時代には道鏡など、男性があらゆる形で執政にかかわった。ただ女帝たちの歩いていたであろう道はこの村のそこここに見いだされる。そしてその中心となるのが皇極天皇によって造営された板蓋宮(いたぶきのみや)である。現在は田園のなかの礎石群にその栄華をしのぶのみとはいえ、ここで中大兄皇子や中臣鎌足が女帝の御前の蘇我氏を襲ったと想像するのもスリリングだ。それにしても帝の前で権力者を殺害する、すなわち血で穢すなどというのは、やはり「女」帝を軽んじていたからできたことなのだろうかというのが気になる。

父系社会に潜在的抵抗を示す「双系社会」とは?
 それにしても日本という国ができたばかりの時代に女帝が集中するのか。原因の一つに倭人はもともと漢民族のような父系社会でもアジアの諸民族に時折みられる母系社会でもなく、ケースバイケースでよいという太平洋型の「双系社会」だったことに起因するようだ。だから例えば「通い婚」が基本だった当時は男だけでなく女も複数の男と関係を持つことのできる世の中だった。そして女性の生活は夫ではなく共同体が支えることが多かった。そうなると「他人の集まり」にすぎない夫婦よりも血のつながりのある、特に母を同じくする兄弟姉妹との結びつきが強かったという。 
 下々まで当時までの「伝統」を守っていたとするなら、皇室も父系、母系のいずれにもこだわらぬ、よく言えば「バランスの取れた」相続や継承をしていても不思議はない。また八世紀半ばに制定された班田収授法で国から民に貸与されることになった田畑を「口分田(くぶんでん)」という。モデルとなった唐では男子のみ与えられていたのだが、日本では女子にも男子の三分の二ほど貸与された。さらに税制面でいえば租(コメ)は男女に、庸(労役)は男子に、調(布類)は女子にと、両性に義務付けられていた。実に興味深いのは、当時の「先進国」唐朝では男女の別を明確にするのに対し、日本は唐をモデルにしたにもかかわらず数百年かけて少しずつ明確にしていったかのような感じがするのだ。それだけ縄文時代以来の女子を不当に低めることに対する潜在的抵抗があったのかもしれない。
 なにせ、飛鳥のすぐ北東には大和の人々が神のいますところと拝んだ大神(おおみわ)山が鎮座し、そのすぐ西麓には小国の首長たちに「共立」されて王となった卑弥呼の宮殿と推定される纏向(まきむく)遺跡や彼女の陵墓とされる箸墓古墳がある場所なのだ。しかも彼女の死後、男の王では国が治まらなかったため、「台与(とよ/いよ)」という少女が選ばれたらようやく安定したという。卑弥呼の宮殿に近いこのような土地柄であれば、たとえ先進国とは言え男系の唐朝のシステムをそのまま取り入れることは抵抗があったのではないか

初めての出家者も留学僧も女性
 このほかにも明日香村には女性があらゆる場面で活躍していた跡がいまなおそこここに残る。例えば向原寺という小さな浄土真宗寺院がある。「日本書紀」によると、ここは仏教伝来時に蘇我稲目が仏像を賜り、我が家に置いた場所であることから、見方によっては日本最古の寺院ともいえる。6世紀末、ここに善信尼が「桜井寺」なる尼寺を開いたのだが、実は倭国で初めて出家し、僧として受戒したのは百済系渡来人の女性たちだった。彼女は崇仏派百済人として知られる司馬達人の娘で、飛鳥時代を代表する仏師、鞍作鳥のおばでもあるのだが、遣隋使で小野妹子らが大陸に渡る十年以上も前に百済にわたり、受戒した。つまりこの国で初めての本格的な留学生(るがくしょう)も女性だったのだ。
 背後に崇仏派の巨頭蘇我馬子がいたと考えられるので、崇仏派VS廃仏派の争いの駒として使われたとも考えられるが、それなら男子留学僧であるのが自然だろう。やはりこれも卑弥呼以来の女性をシャーマンとしてあがめたころの影響に思えてくる。そしてこの国初の留学生が飛鳥の渡来系女性だったことは、その後忘れられ、明治初期に岩倉使節団の一員として津田梅子らが派遣されるまで女子留学生はいなかった。

男女を問わぬ「王」の呼称
 また、飛鳥時代の万葉歌人として知られる額田王(ぬかたのおおきみ)は、恋の歌を多く作ったことで知られる。この「王」という表現に注意したい。唐では皇帝の男子のみ「王」で、女子は「公主」であった。しかし倭国では男女ともに称することができた。盲目的に先進国のやり方を踏襲したわけではないのである。
 ところで明日香村の県立万葉文化館では、額田王はもちろん、その他「万葉集」に関する展示とそれをテーマにした日本画がずらりと並び、圧巻だ。また大神山の西には南北に長い「山の辺の道」という遊歩道があるが、そこには彼女をはじめとする万葉歌人たちの歌碑があちこちにある。「昔、女ありけり」という視点で見てみると、男性歌人が大自然の厳かさや国家社会などといった「大きな物語」を歌う傾向が強いのに対し、女性歌人は恋愛や家族といった「小さな物語」を歌うことがはっきりとわかる。もちろん妻をおもう歌で知られる柿本人麻呂などもあるが、総じていえば詩歌の世界で和歌のテーマとしようとする対象物、言い換えれば気になることがジェンダーにより明らかに違うのが興味深い

「飾り物」ではない為政者、持統天皇
 なお、柿本人麻呂が宮廷歌人として仕えたのは持統天皇であった。百人一首にもある「春過ぎて…」のもととなった「春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山」という歌を詠んだ女帝というイメージがあったが、彼女の行ったことを調べていくうちに額田王のような純粋な歌人とは異なる、やり手の政治家というイメージが強くなってきた。
 天智天皇の娘にして大海人皇子(天武天皇)の后である彼女は、壬申の乱に際して大海人皇子とともに乱を画策し実行したと「日本書紀」にはある。しかも乱の後、大津宮から飛鳥浄御原に遷都すると天武天皇を支えるだけでなく、天武の治世の末期には病床の天皇に代わり政務を行った。男性が女帝にかわって政務を執り行う例は多くあるが、持統天皇の場合はその逆である。
 また、后時代の彼女の病を治癒すべく建立した薬師寺も、最終的に完成させたのは病を得た本人であった。さらに飛鳥の北側に位置する藤原京に遷都させ、本邦初の碁盤の目状の都城を作り上げたのも彼女である。その都市構造はのちに妹の元明天皇が遷都した平城京や、桓武天皇が遷都した平安京にも影響を与えた。女帝とはいえ「飾り物」ではなく、まさに為政者だったのだ

伊勢の斎宮
 持統天皇の業績のうち「昔、女ありけり」の目線でいうならば、女神である皇祖天照大御神を祭神とした伊勢神宮の式年遷宮を690年(内宮)および692年(外宮)にて本格的に始めたのも彼女である。さらに神宮に使える皇女として「斎宮(さいくう/いつきのみや)」という制度を定めたのも、天武・持統朝のことである。伊勢市と松阪市の間の明和町に「斎宮歴史博物館」があり、ここでは「オモテの伊勢神宮」を「ウラで支え」て、後醍醐天皇の時代まで六百年以上続いて消滅した斎宮がどのようなものだったのかよくわかる。
 まず、斎宮とはなにかから紹介したい。これは飛鳥時代から南北朝時代にかけて神功に仕える神聖なる役職で、天皇の即位に伴って未婚の内親王(または女王)の中から「卜定(ぼくじょう)」という占いによって選ばれた女性が「斎王」として伊勢神宮に仕えることになっており、平安時代には特に重要な役割を果たしていた。
 斎王に選ばれると、まず宮中で一定期間、次に翌年の秋、都の郊外でさらに身を清めた。さらに翌年、現在の桂川で禊を行うと、天皇から「都の方におもむきたもうな」と告げられる「別れのお櫛」の儀式を経て、神宮の神嘗祭に合わせて都をたった。「群行」と呼ばれる500人以上の聖なる「大名旅行」のおりには、近江や伊勢国に設けられた仮設の宮殿で宿泊し、6日間かけて伊勢へと進んだ。なお、この旅は6月・12月の月次祭と9月の神嘗祭にのみ行われた。
 斎宮歴史博物館の展示によると、斎王の住む「内院」を中心に、中院、外院の三つの区画に分かれ、神事を司る「主神司」のほか、財政や食事、警備を担当する13の役所が存在した。斎王に仕える500名以上の人々はみな清浄であることが求められ、祭りや年中行事が厳格に行われた。今は一面の田園地帯と住宅街であり、古えの面影は想像しがたい。そこで平安時代の斎宮の建造物が三棟ほど再建されており、体験施設となっているが、驚くべきことに古代の斎宮は東西2㎞、南北700mにもおよび、その十分の一スケールの街並みの一部も再現されている

「伊勢物語」の斎宮
 ところで私が「斎王」と聞いてまず連想するのは「伊勢物語」第六十九段である。「女」はこうまでして神聖さを保たねばならなかった都の元皇女にして斎宮の恬子(やすこ)内親王。「男」は政争に巻き込まれ、不遇ながらも和歌を詠ませれば当代一の在原業平。二人の一夜の秘め事を描いた平安文学上のこの名場面はあまりに名高いが、「昔、男ありけり」から始まる「伊勢物語」を、あえて「昔、女ありけり」として、つまり女性を中心にして読んでいくと、恬子だけでなく最初に結ばれることになった幼馴染や、東国に都落ちするきっかけとなった清和天皇の后、高子(たかいこ)など、数々の個性的な女たちのもつ「磁力」の間を右往左往させられている男の立場が客観視できる。なお、このあたふたした様子を見るにつれ、業平から地位や和歌や楽器などを取り上げ、昭和の時代にタイムスリップさせたら寅さんになるだろうと私は常々思っている。 
 それにしても神宮にせよ斎宮にせよ、「女系」に基づくこの伊勢という国が都である大和の東側にあることに注目したい。東は陰陽でいえば陽である。男の陰に隠れてプライベートな場面でのみ活躍していたかに思えた日本女性史上、例外的な「陽」の時代がまさに七世紀前後の飛鳥であり、伊勢なのだ。

東アジア全体で「女の時代」だった七世紀
 ところで東アジアの視点で考えてみたい。実は7世紀は唐でも朝鮮半島でも女帝や女王が相次いでおり、しかも実権を握るケースが多い。代表的なのは7世紀前期から中期にかけて新羅で政治的実権を握った善徳女王(徳曼)である。百済や高句麗の侵入を受けたので唐に救援を求めた際、唐の太宗に「女王の廃止」との交換条件に軍を送ると返答されたという。ただ唐は善徳女王を新羅王として冊封しているだけでなく、善徳女王の死後は妹の真徳が王位を継いだので定かではない。
 また唐では7世紀半ばに幼い高宗皇帝に代わり女帝武則天が「垂簾(すいれん)政治」と呼ばれる関白政治を行い、663年白村江(白江口)の戦いで倭・百済連合軍を破ったことがある。ちょうど倭国で皇極天皇が政治的主導権を握り、その後の重祚(斉明天皇)に至る間のことである。また武則天は八世紀初期に福祉施設である悲田院や病院である施薬院を造営したというが、それはその後光明皇后に受け継がれたという。アジア規模でいうなら七世紀前後は「女の時代」だったのだろう。

奈良ー遷都マニアの天皇と社会福祉事業者の皇后
 再び大和盆地に戻る。奈良で「昔、女ありけり」の地として挙げたいのが平城宮跡歴史公園の北西に位置する法華寺である。持統天皇のひ孫にあたる聖武天皇のきさき、光明皇后によって建立されたこの寺は、日本女性の行う社会事業の典型としてとどめておきたいからだ。彼女は皇族出身ではない女性として初めて皇后になったのだが、父親は藤原不比等、祖父は藤原鎌足である。
 聖武天皇はただでさえ行政に熱心でなかった彼の政権を支えた長屋王が藤原四兄弟の陰謀で自決してから、厭世的になったのか大仏建立を思い立ったようだ。そのために740年に山背(やましろ)国恭仁(くに)京、742年に近江紫香楽(しがらき)宮、744年に難波京、と、相次いで遷都した。当然、民も国政も顧みない。挙句、745年には平城京に戻ってきた。病的なまでに遷都を繰り返し、国を疲弊させた天皇に対し、国分寺の総本山として東大寺、国分尼寺の総本山として法華寺を建立するように進言したのが光明皇后である
 父親であった不比等邸宅のあったこの地に法華寺を建立したのだが、そこに「からふろ」というサウナを設置し、千人の人々に「施浴」をした。千人目のハンセン病とみられる人物の膿を吸い出すと仏になったという伝説(おそらく実話ではない)が残されているこの寺には、今なお17世紀初期に再建されたからふろが残る。 
 またそれに先立つこと十数年前の730年には、薬草を貧民に配布する施薬院、そして孤児、病人、貧民などを救済する悲田院を造営した。これらはみな仏教に帰依した皇后の社会福祉プロジェクトである。ここでは平安時代に造られた十一面観音の立像のすがたが本堂で期間限定ではあるが拝むことができるが、みなそこに仏教の慈悲を体現した皇后の姿を思い描くことだろう。

社会福祉事業が女性主導で行われたということ
 ところで現在も社会福祉事業に携わる女性は多いが、ここで注目したいのが、皇后がその走りになっているということだ。しかも、伝説であるにしても「現場」で膿を吸い出す、今でいうなら看護師の役割までしているという点だ。看護師、介護士、ソーシャルワーカーなどはいわゆる「感情労働者」の代表であるが、それが「女性向きの仕事」とされがちだとすると、それには奈良時代以来の「性別による役割分担」があるといえるだろう。
 男女の役割が比較的曖昧だった飛鳥時代とは異なり、奈良時代に入ると唐の律令の浸透もあって、父系社会の構築が社会制度の隅々まで行きわたり、飛鳥時代のような男系でも女系でもケースバイケースという社会はこのときに終わりを告げた。こうして一歩「家父長制国家」に近づいていった。
 ある意味で社会福祉事業が女性主導で行われた法華寺は、男女の役割の曖昧だった最後の時代であり、家父長制の最初の時代でもあるシンボル的な場所のように思えてくるのは私だけだろうか。

源氏物語と越前
 「昔、女『たち』ありけり」と複数形で表記した際、最初に思い浮かぶのはやはり「源氏物語」であろう。紫式部によって書かれたこの「大河小説」は、官職名を除き、ほぼやまと言葉のみで当時の風俗から人情の機微までを描き出した。この大作が書かれた大津の石山寺や、光源氏が身を寄せたという明石市の円珠院、作品後半の舞台となり、源氏物語ミュージアムのある宇治市、そして京都御所なども歩いてきたが、むしろこれらよりもあの時代の宮廷文化が再現されていると思ったのが福井県越前市の紫式部公園と、隣接する紫ゆかりの館だった。
 紫式部は24歳のとき父の越前守赴任にともなって越前に滞在し、その地で二年間を過ごしたのだが、人生で唯一京都を離れたのがこの越前だったのだ。それを記念して総檜造りの釣殿(つりどの)を建てるだけでなく、曲がりくねった小川に流れてくる盃が目の前に来るまでに和歌を詠み、返盃がわりに酒を注いで次に回す「曲水の宴」という歌会用の流れまで再現されている。レプリカにしては再現度が高い。平安貴族の趣を体現した浄土式庭園は「紫式部公園」と名付けられており、私が行った時には残暑厳しいときだったからか、全く人がいないところを十分楽しめた。

「名もなき」女たち?
 庭園の片隅に十二単に身を包んだ金色に輝く紫式部の像が建てられている。「紫式部像」と添えられてはいるが、思えば彼女の本名を知らない。いや、彼女だけではない。平安朝の著名な女性たちの名は公表されていない。そもそも「紫式部」の「式部」も、「清少納言」の「少納言」も官職名である。「更級日記」の著者とされる菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)にしても「蜻蛉日記」の著者、藤原道綱母にしても、男子の「むすめ」であり「母」であり、正体はわからない。さらにいうなら全五十四帖からなるこの壮大な恋と怨みの物語にでてくる五十人以上の女たちの本名は明かされない。なぜ本名が明かされないのか。これを女性には名前を認めなかったから、という後の家父長制を原因と考えると本質を見誤るような気がする。
 私は皇居で訪日客にガイドしている途中、「ところでエンペラーの名前はなんだ?」と聞かれたとき、とっさに出なかったことがある。言い訳がましいが、マスコミでは「天皇陛下」としか呼ばないからだ。古代中国の影響もあってか、貴人の本名をみだりに呼ぶべきではないという考えが私の中にもあるようだ。女性の名前が公開されないのは平安朝までは残っていた、女性を神聖視するこの国の慣習があったからかもしれない。ちなみに次の鎌倉時代には北条政子などは実名でも呼ばれている。
 こうした背景のもとで展開される『源氏物語』は、胸の内を吐露する和歌があると思えば軽めの「はやりものネタ」も登場する。政治に翻弄された男女の姿も描かれたかと思えば、物の怪にとりつかれ、それを恐れる人々の様子がありありと見られる怪談的要素も垣間見られる。つまり文学性とロマンスとサブカルと政治とホラーなど、人間が興味を持つあらゆる要素がちりばめられているので誰にでも引っかかる部分があるのが千年以上人気を保ってきた秘訣なのかもしれない

 名古屋・徳川美術館の「源氏物語絵巻」
 越前の地に再現された平安朝の空間を体感したあとには、名古屋の徳川美術館であの空間の「設計図」ともいえる「源氏物語絵巻」を見てみたい。これは特に屋敷の斜め上から透視したかのような独自のアングルで平安朝の男女の物語を描いた大和絵の代表作である。尾張徳川家に伝わった絵15面・詞28面が徳川美術館に保存展示されており、それとは別に世田谷の五島美術館にも絵4面・詞9面が保存展示されている。
 これらを見ながら「源氏物語」の奥底に流れているといわれるものを三点探してみたところ、思い浮かんだのが次の三つである。
①男の女に対する「罪」の意識
②光源氏を中心に据えるが実態は空虚であり、彼をとりまく女たちの個性のほうが光る点
③國學者本居宣長が提唱した、自然や人間の儚さにこころ動かされる「もののあはれ」

藤壺と父に対する「罪」
 まず、男の女に対する『罪』の意識というの例は、光源氏が最初に密通したのが三歳の時に死に別れたため顔を覚えていない母親、桐壺更衣にそっくりという藤壺だったということである。彼女は14歳の時、つまり源氏が8歳か9歳のときに彼の父の桐壺帝のもとに入内(じゅだい)したが、源氏との禁断の恋に悩み、18歳の源氏との二度目の密通で彼にそっくりの子を産み、帝を喜ばせた。東洋では儒教道徳が「グローバルスタンダード」だった当時、それは決して許されないことであった。しかし彼女の存在は源氏のこころに常に影を落とすこととなった。これは源氏が背負った最初の「罪」である。それは父親に対する不義の罪であると同時に、女にわが子に出生の秘密を一生背負わせる罪でもある。
 源氏の家族に対する罪はそれだけにとどまらない。腹違いの兄、朱雀帝がいたが、彼は24歳で即位する前に、葵の上を入内させようとした。だが彼女の父親である左大臣に断られ、右大臣の娘、朧月夜がのちに入内することになっていたが、源氏は彼女と密通してしまった。つまり源氏は父の妻とも兄の妻とも密通したということになるのだ。「罪の上塗り」である。これにより彼は「禊」として都を離れ、明石の地に身を寄せることになったのだ。

紫の上と明石の君
 次に藤壺の姪、紫の上である。尼寺で過ごしていた幼少期に誘拐同然で源氏に連れられ、彼が自分の理想の女性に育てるために教養を仕込んだあげく、14歳の時にそれまで信頼していた源氏に突然男女の関係を持たれ、朝になっても起きてこられないほど精神的ショックを受けた。
 また男が妻の家に不定期に寄って過ごす「妻問い婚」が一般的だった当時にしては、源氏との結婚生活は長く続いたが、源氏が出奔先で明石の君に産ませた姫を、なんと紫の上が養育することになった。源氏が手を出した、どこの馬の骨だか分からぬ女との娘を育てるこのやるせなさをおもうと、ただ源氏の無責任さだけが強く残る。しかし心労のため倒れた紫の上の最期をみとったのは源氏ではなく血のつながらぬこの娘、明石の姫君だった。女心を全く考えない男の罪はここに極まる。

葵の上と六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)
 
とはいえ紫の上は源氏の正妻ではない。最初の正妻は四歳年上の葵の上だったが、その結婚生活は冷たいものだった。そのようなおり、平安京で「祭」といえばこれしかないといわれた賀茂祭で鴨神社に仕える聖職の女子「斎院」が禊をするのに源氏が赴くというので、それを見物することになったが、当時の源氏の愛人だった六条御息所と牛車で場所争いをした。結果は六条御息所の牛車が破壊され、屈辱を受けた形にはなるが、葵の上は病に倒れ、亡くなってしまった。それは生霊となって葵の上に取り憑いた六条御息所の仕業だった。
 自身の意志とは無関係に魂が抜け出したとえはいえ、そのため自分を愛していた源氏との愛も遠のきつつあった。後に源氏との和解の兆しが見えた矢先に亡くなり、源氏は葵の上、六条御息所両方に対し、罪の意識に苦しむ。ちなみに源氏はこのような場合、悩みはするがほぼ何もしない
女三宮
 
葵の上の没後に源氏の正妻となったのが兄朱雀院の娘、女三宮である。四十歳の源氏のもとに十四歳で嫁いだ過保護な幼妻であったゆえに、また実は藤壺の姪でもあったにもかかわらず容貌はさほど似ていなかったゆえもあってか、源氏の愛を十分に受けられなかった。そのうち源氏の親友、頭中将(とうのちゅうじょう)の息子、柏木が彼女を蹴鞠の時に御簾越しに垣間見て一目ぼれした。そして女三宮は祭の前に密通したあげく懐妊し、「不義の子」薫を産む。源氏との関係は冷ややかになり、結局は出家することになった。
 そこに光源氏は因果応報を知ることとなる。亡くなった桐壺院も自分と藤壺の密通を心の中では知っていても知らぬ顔をしていたのではと思ったりするようになった。いわば柏木こそ昔の自分そのものだったことに気づいたのだ。そして恐れおののいた柏木は病で亡くなってしまう。残された薫の顔に柏木の面影を見る源氏。源氏は女を追いかけるときは積極的であるが、問題が生じたときには極めて消極的で、因果応報を知ったとはいっても、やはり何もしないのだ

曼荼羅を見ながら源氏と女たちをおもう
 徳川美術館にたまたま平安時代に貴族たちの間で流行した密教の曼陀羅が展示してあったのを見ているうちにふと気づいた。「胎蔵界曼荼羅」の中心には大日如来が座っており、その周りを八体の諸仏が囲んでいる。その姿が源氏と女たちのように思えてきた。つまり真ん中の大日如来は燃え盛る炎であるが、炎のように燃えても自ら昇華することはできない。そしてその周りを桐壺更衣、藤壺、紫の上、明石の君、葵の上、六条御息所、女三宮といった女たちが囲む。源氏は中心にあるだけで空虚な軸にすら思えてくる。むしろそれを取り巻く一人ひとりの女たちの個性が光り、源氏の人生に深い影響を与え、彼の心にさまざまな葛藤と感情を呼び起こしているように思えてならない。
 そしてそれこそ「色即是空、空即是色」、すなわち表面化するものはころころ変わっていくが、その本質がみな空虚であることに気づけば、その儚さに固執せず受け止め、名残惜しみつつもそれを手放すことができる、という仏教的諦念ではないかと思えてくる
 ところで女たちの名前には実に植物に関する名前が多い。桐、藤(=紫)、葵などがそれである。源氏を取り巻く数ある女たちの中でも独特な位置を占めているのが朝顔である。どんな花よりも儚い、わずか数時間の命しかない花ではあるが、それとは逆に源氏にどんなに言い寄られてもなびかない。それは彼を嫌っているからではなく、彼の周りの女たちに幸せな人がいないことを知っているからだろう。そして賀茂神社の斎院としての身分を理由に、源氏を避け続けた。「男」の「女」に対する罪を被らないためには避けるほうが最上の策なのだろう。そういえば「竹取物語」のかぐや姫も言い寄ってくる皇子たちに無理難題を押し付けてあきらめさせたではないか。

 しかしこれが平安朝の日常であったかというと大いに疑問である。なぜなら「源氏物語」の登場人物たちのほとんどが后候補となる藤原氏など、一部にすぎず、それから漏れる大多数の貴族女たちは女官としてある程度の独立性を保っていたが、その貴族制度自体が寄食階級であったことも忘れてはならない。つまり「平安時代の女性」というと華やかな貴族しか思い浮かばず「万葉時代の女性」といえばそれに加えて東国の農民や防人の妻といった庶民まで幅広い女性像が思い浮かぶのとは対照的だ。こんな暮らしをしていたのは当時の日本の1万人に1人もいない。「平安時代の女性は」と一般化するのは危険だ。それに続く鎌倉時代の女たちはどうだろうか。それを知るためにもまず京都大原を歩いてみたい。

大原の女たち
 平安時代の結婚の形態が、妻の家に男が通うという通い婚であったなら、武家の時代、鎌倉期に入ると男の家に「嫁」をもらうが、妻にも相続権はあるという、20世紀のスタイルになってきた。つまり家父長制的な男系社会が本格的に定着しはじめたとはいえ、女性にも諸権利があったそれ以前の時代の影響が垣間見られるのだ。ちなみにこれは服装にも表れる。平安時代までは男女とも袴を着用していたが、武家の女子は袴を着用しない打掛のみになった。男女の別が服装で分かるようになったのだ。
 その過渡期にあったのが源平合戦のころである。平清盛の娘、徳子は高倉天皇に嫁いだが、壇ノ浦の戦いで平氏が敗れ、息子である安徳天皇を入水させておきながら自分は敵に助け上げられたことを苦におもい、一門の菩提を弔うため京都大原にて出家し、建礼門院徳子と名乗って寂光院に庵を結んだ。寂光院には沙羅双樹の木がある。諸行無常、盛者必衰という「平家物語」の冒頭の名句を思い出した。大原そんな彼女の人生の最期にふさわしく、京都とはいえいつ訪れてもしんとした山陰の山村を思わせる山里である。
 
 ところで大原と言えば大原女(おはらめ)である。中山間地であるから薪となる木々はいくらでもあるため、燃料としてそれを京都にもっていき行商するのだが、それは原則女の仕事とされた。姉さんかぶりの頭に薪や柴の束をのせて歩くその姿は建礼門院に仕えた女性の様子がモデルとなっているという。戦後は市内もガス普及率が高まったため大原女は姿を消したが、今なお10月22日の時代祭にはその姿も再現される。

鎌倉
 源平合戦につづく鎌倉時代には、武家社会において鎧兜に身を包んだ男が戦にでて、家を守るのは女の役割であるとする「女の道」という概念が出てきた。それを体現したのは夫源頼朝が亡くなるまで、陰で支え続けた北条政子だった。武家でありながら頼朝は北条政子の家に「婿入り」して北条家のサポートを得たうえで兵士を破っている。頼朝は流人同然の扱いだったとはいえ、この婚姻のあり方は平安貴族のそれによく似ている。すべてが過渡期だったのだろう。
 一方、弟の義経は舞の名手だった静御前を連れて兄から逃避行しようとしたが、吉野山でそれが不可能であることに気づき、互いに別れた。後に鎌倉幕府で捕らえられた彼女は、幕府方から舞を舞うように言われるが、身重であることを理由に断る。再三にわたる要求のため、彼女は鶴岡八幡宮の舞台で一曲舞うことにした。そこで彼女が舞ったのが、憎しみあう兄弟の仲が昔のようによりを戻すようにという
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
であり、雪の吉野山で別れた義経を慕う
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
であった。「吾妻鏡」によれば「静態絶妙、衆みな感騒」とある。みな水を打ったようにシーンとしたという意味だが、それもそのはず、その場にいた武士たちの多くが義経とともに一ノ谷で、屋島で、 壇ノ浦で戦ってきた仲間たちだったからだ。しかも、いわば芸人風情の、しかも女による最高権力者の批判である。その度胸に驚いたのだろう。
 頼朝は激怒したが、彼をなだめたのが北条政子だった。彼女も夫に何かあるたびに、どんなに夫のことを心配し、思い続けたかということを切々と説いたのだ。坂東武士の男性原理とは違う、女同士の思いが通じた人情噺の一つでもあろう。
 訪日客を案内して時々鶴岡八幡宮を訪れるが、本殿下の舞殿(まいでん)は1624年に再建されたものだが、それでもこの時の静御前と北条政子という二人の鎌倉の女を思い出す。

政子と帝王学
  ところで一般的に北条政子は「強い」「怖い」と思われがちかもしれない。それは承久の乱の際に「坂東武者の軍団を率いて後鳥羽上皇の軍を蹴散らした」という「益荒男(ますらお)」振りによるものだろう。日本史上、シャーマン的に男たちを従えさせた卑弥呼や七世紀から八世紀にかけての女帝たちはいた。しかし演説によって故頼朝の恩に報いることを説き、男たちを動かしたのは彼女が初めてであろう
 そんな彼女の愛読書が唐の時代の帝王学の名著「貞観政要」だったという。そして縁故主義よりも能力主義を説く同著のやり方を取り入れたためか、長男頼家が二代将軍になっても実力が発揮できなければ修善寺温泉に蟄居させたりなど扱いが冷たかった。大将とはいえいつ寝首をかかれるか分からぬ武家のリアリティがそこにはあった。能力主義に傾くのも彼女なりの帝王学だったのかもしれない。しかしその後の鎌倉時代において、女が実際に政権を動かすようになることはなかった。考えようによっては古代の女帝の最後の「生き残り」が彼女だったのかもしれない。
 また、事実上東国は鎌倉が、西国は京都が支配していた鎌倉時代において、東西の文化習慣の形態には大きな違いがあったろう。意外と上方では平安時代の名残りで男子偏重のあおりは薄かったのかもしれない。しかし鎌倉幕府が滅亡すると、坂東にルーツを持つ足利尊氏が京都所司代を滅ぼし、以降室町幕府を通して「京都の東国化」が進行するに至って、家父長的な社会となり、相続は男子のみとなっていった。

応仁の乱を起こしたわびさびマニアの優柔不断さ
 京都御所は平安時代に造営されたが、現在地に移ったのは1331年、鎌倉時代末期である。そののち足利義満が修築したかと思うと、15世紀半ばにある女性の蓄財によってさらに建造された。彼女の名は日野富子である。室町幕府第8代将軍足利義政の妻で、政治的にも財政的にも大きな影響力を持つこととなった。
 男子が長らく生まれなかったため、義政は僧侶だった弟の義視(よしみ)を後継者とすることに決め、還俗させ、中国地方最大の守護山名宗全を後見人とさせた直後、富子は男子を出産したのだ。それが後の足利義尚(よしひさ)である。富子はその息子を九代将軍に立てるため、山名宗全に対抗して管領細川勝元を後見人とするなど、義視との対立を明確にした。それが応仁の乱の始まりである。
 それに対して将軍義政はどう対処したか。なんと現実逃避をして当時流行しつつあった茶の湯や生け花(立花)、造園などに興じ、「わびさび」に基づく自分の文芸世界を体現すべく慈照寺を建立させようとしたのだ。政治に関心のないわびさびマニアが戦国の世の引き金となったいっても過言ではない。

経済力で御所を建て直した女
 一方の富子は非常に頭が切れ、現実的な問題を処理する能力に長けていた。特に貨幣経済の到来をいち早く察知し、高利貸しや米の買い占めを積極的に行うことで莫大な財産を築いた。そしてその金を夫の道楽である慈照寺建立には捻出せず、応仁の乱で荒れはてた御所の修繕に使ったのだ。そのほかにも『源氏物語』の講釈を文学者の一条兼良に頼み、文芸を奨励した。金を集めるだけでなく、文芸面の発展にも寄与したのだ。
 さらに重要なのは、夫の優柔不断が原因で収拾がつかなくなった応仁の乱を何とか解決させたのも、彼女の経済力だったということ。彼は味方である細川氏はもちろん、敵方の山名方にも金を貸していたのだ。金が返せなくなればそれ以上先立つものもなくなり、軍事費もじり貧になっていった。そしてうやむやになったまま内乱の舞台は京都から全国各地に飛び火した。厳密にいえば彼女が応仁の乱という内乱を解決してはいない。しかし彼女が金を貸さないので京都の内乱は先細りになっていったのだ。
 カネを貸して戦をさせることができるのならば、カネを貸さないことで戦を止めることもできる。これはそれまでの武家社会には珍しい戦略ではなかったろうか。そしてそれを意図してかどうかはわからないが、初めてやったのも日野富子という女だった。一方、夫義政の体たらくときたら、政治が嫌になって大仏建立の詔を出し、都合四度も遷都をさせた聖武天皇によく似ている。違いはと言えば、光明皇后は聖武天皇をして国分寺、国分尼寺、東大寺大仏殿を造らせたが、日野富子は夫には全く関係なくビジネスで得た利益の献金により御所再建をしたことだろうか。まったく夫から自由な女性というのも珍しい例である。
 ただ、彼女の献金で建てた建造物は今は何一つ残ってはいない。現在みられる御所の建造物はみな19世紀以降のものなのが惜しまれる。
 
大坂城と女たち
 応仁の乱から始まる戦国時代が終わりを告げるのは信長、秀吉、家康の出現からであるが、なかでも秀吉の没後から家康が没するまでの大坂城ほど「昔、女ありけり」のテーマになりそうな城郭はあるまい。中でも、豊臣家の女たちの動き、特に淀殿と北政所の対比は、この日本一の城郭内部の空気を理解するために欠かせない要素である。
 北政所ことねねは平民の身分で秀吉と苦楽を共にしてきた糟糠(そうこう)の妻である。一方淀殿は、父親は近江小谷城主の浅井長政、母親は信長の妹、お市の方で、北政所より20歳若い秀吉の側室である。京都に聚楽第ができると秀吉は諸大名の妻たちを大名屋敷をその周辺に固めた。そして彼女らを取り締まる総元締めが北政所となった。つまり天下人の妻が諸大名の妻を管理するという、女による女の管理がここに始まったのだ。それと前後して大坂城にも移ったが、秀吉の死後1599年、淀殿とその子秀頼を残して北政所は京都御所内にできた新城に公家の一員として移転した。そして入れ替わりに大坂に入城したのが秀頼の後見人としての家康だった。その後に起こるべくして起きたのが関ケ原の戦いであったことは言うまでもない。
 
男社会に挑んだ淀殿VS女の世界で生き延びた北政所
 淀殿と北政所の対比は、以下の点で興味深い。まず淀殿は家康と対立し、豊臣家の再興を図った。一方の北政所は、1603年家康が征夷大将軍となり、秀頼が千姫(秀忠の娘にして淀殿の妹、お江の娘)と結婚すると、後陽成天皇から「高台院」の院号を得て出家した。北政所は手紙や使いを方々に送り、コミュニケーションを維持するだけでなく、数多くの侍女たちが彼女の目となり耳となった。そうして得た情報を分析した結果、北政所は徳川家との和睦を図る道を選び、豊臣家の存続に尽力した。
 また淀殿は政治に関心を持ち、女王アリのように自ら男たちを指揮するなど、北条政子的な積極姿勢を見せた。そこには戦国時代真っただ中、織田家の血をひく「サラブレッド」として男たちの中をもまれて生き残った彼女の自負があったのかもしれない。一方、北政所はあくまで後見人の立場に徹し、女のネットワークを使って家康との交渉に当たった。そこには自ら男の世界と女の世界を分け、亡き夫の権力を利用しつつも男の世界とぶつからないよう気を付けていたかのようにも思える。
 この対照的な二人の観察は、豊臣家の興亡という壮大な歴史の舞台裏を、女たちの視点から描き出すものである。男社会に挑んで男の論理で男たちをリードしようとして失敗した淀殿と、女の世界の頂点に立つことで生きのこった北政所の対比を、人間ドラマを通じて垣間見ることができる。
 ただ、現在の巨大な石垣に囲まれた大坂城は、大坂の陣の後に徳川秀忠がすべて再建したものだ。だから男性原理が確立した徳川時代の所産であることに留意しつつも、当時の「女房どもの夢のあと」が感じとるのは難しいかもしれない。


縁切寺ー鎌倉東慶寺から上州徳満寺へ

 古代において時間をかけながら少しずつ家父長制社会になりつつあった日本がそれを完成させたのが江戸時代である。幕藩体制のもと、保守的な重農主義の儒学を曲解して庶民レベルにまで伝えた結果、女の生活は男に比べて大きく制限されることになった。福岡の儒学者、貝原益軒の「女大学」という女子教育の書物は、女は結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従うのを美徳とし、女が社会で活躍する機会を頭の片隅にも入れていなかった。
 また人生最大の出来事ともいえる婚姻も、その目的は夫の家系を継ぐ男子を産むこととされていた。女性が夫の家に嫁ぐ際には、夫の両親に仕え、家事をこなし、子孫を産むことが求められたのだ。そしてそれは江戸時代が終わっても百年以上続いた。また、離縁は男から女には三行半(みくだりはん)を出すだけでよかったが、女から男には極めて困難だった。ただし日本に二か所だけ、北鎌倉の東慶寺と、群馬県太田市徳川町の利根川沿いにある徳満寺では、「縁切寺」と呼ばれる家庭裁判所機能を持った尼寺が存在したことをしるしておこう。これらは問題ある亭主から逃れたい女たちにとっての文字通りの駆け込み寺だった。これらの寺に駆け込めば、男のほうは少なくとも寺院側からの調停を待たねばならなかったからだ。原則としてここは離婚調停の特権を与えられた寺であり、縁切りに特化したわけではない。
 妻のほうから離縁の申し出があると、夫は日本のどこに住んでいてもこれらの寺院で調停を受けねばならなかった。どうしても円満にいかない場合のみ、寺院の手伝いをして、二年以上経てば公式的に離縁となったという。明治時代に入ると檀家のいない徳満寺は廃寺となったが、跡地は公民館として使用され、今は日本唯一の「縁切寺資料館」となっている。特に面白いのが、トイレに白い便器と黒い便器があり、縁を切りたいときには特定のトイレットペーパーを白い便器に、縁結びを求めるときには黒い便器に流すことで「白黒つける」という面白いアトラクションがある。
 今はこのようなものもご愛敬だが、配偶者と縁を切りたくても切れなかった、もっというならば夫から妻に対しては三行半を突きつけられるのに妻のほうからはできなかった当時のこと、この場所がいかに救いの場だったかということがわかる。

かかあ天下と空っ風
 群馬県、というより「上州名物」といえば「かかあ天下に空っ風」である。裾野は長し赤城山だが、冬には「赤城おろし」なる空っ風が吹きすさぶ。この山のふもとは、江戸時代から「県都前橋生糸(いと)の町」「繭と生糸は日本一」というほどの養蚕県である。それに伴い「桐生は日本の機どころ」「銘仙織り出す伊勢崎市」というぐらい織物が盛んな地域だった。群馬県が誇る世界遺産は富岡製糸場だが、そのほかの構成資産として、幕末に通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平の旧宅も徳満寺から坂東一の利根川を越えた対岸の西側にある。
 養蚕も機織りも当時は家内制手工業の代表だった。そしていずれも女性の社会参加を必要としていた。おそらく家内制手工業が育児や家事の大部分を担わされた女性に合うのは、知識や技術があれば家にいてもできるからだろう。今でいえば翻訳や通訳がそれにあたるかもしれない。
 「かかあ天下」との真意は「亭主関白」の時代にもかかわらず、妻のほうが威張っていた、というわけではない。妻の稼ぎのほうが夫より多ければ、夫は「うちのかかあは天下一!」と喜んでいたということなのだ。ちなみに上州で「男の中の男」といえば、子分たちを連れ赤城山を拠点に荒稼ぎした博徒、国定忠治である。博徒でありながら人々に今なお愛されるのは、天保の大飢饉に際しては稼いだ金をみな貧民に分け与えたり、農業用水の磯沼をさらったりしたからだ。

忠治を支える女たち
 群馬県民みなが学校で習い、口ずさむことができる郷土自慢の「上毛かるた」というものがある。「雷(らい)と空風(からっかぜ)義理人情」という、上毛かるたのなかでも二枚しかない赤札があり、絵札は雷神様である。しかし県民の多くは知っている。「義理人情」とは博徒ということで表立って名前を載せることはできないが、国定忠治を指すことを。
 上州男児のシンボルが義理人情の博徒ならば、それを支えていたのが実直に蚕を育て、糸を繰ってきた女たちだった。なにやら今回は政務を放棄した遷都マニア聖武天皇に対して福祉事業を展開した光明皇后、政務を放棄したわびさびマニア足利義政に対してビジネスパーソン日野富子など、男に分が悪すぎることに今さらながら気づいた。
 ここらで東京に戻り、多くの方々が気になるけれど実態がよくわからない対照的な女性たちの跡を二か所歩きつつ、「昔、女ありけり」の旅を締めくくろうと思う。

江戸城本丸「大奥」とは
 まずは江戸城本丸、通称「皇居東御苑」である。ここは訪日客のご案内でいつも行く。パレスホテル前から堀を渡って大手門をくぐり、巨大な石垣の下を何度も曲がりながら、番所を横目に本丸にたどり着くと、東京のど真ん中なのにだだっ広い「公園」が広がっている。いつ行っても外国人がほとんどだ。しかし江戸時代にはこの本丸の手前には「表」といって今でいうなら江戸幕府版「国会」兼「霞が関」である。天主台に向かって右手に休憩所があり、在りし日の天守の模型も展示されているが、そこから西側一帯は将軍版「首相官邸」である「中奥」である。そしてそこから北側、つまり本丸の半分以上が「大奥」といい、将軍や医師、特別許可を得た男以外は入れない「男子禁制」の場であった。時代劇などで好奇の目で見られるこの「女の園」ではあるが、現在は広々とした芝生になっている。
 いったいこの「女の園」にどれだけの女たちが暮らしていたのか。少ない時でも五百人、多ければ千人と推定されているが、二世紀半にもわたってこの女しかいない愛憎や嫉妬が入り混じった御殿群のなかでの出来事の多くが、記録されているのが興味深い。もちろん何百名という女たちがみな側室だったわけではない。記録によると最も側室を多く持ったのは、数え方にもよるが十一代将軍家斉の数十名とのこと。
 そんなにまでしないと子宝に恵まれないのかと思えてくるのだが、実際初代家康を除く14代の将軍のうち、正室の嫡子は崇源院の子、秀忠のみである。政治家としての資質や軍を統帥する能力は他人に任せられるが、DNAだけは将軍でなければならない。目の前にいる将軍が「家康公の血」をひいているという「正統性」が、それだけ大事な時代だったのだ

側室と玉の輿
  ここで実に興味深いことがある。将軍は将軍の子か、御三家・御三卿からでなければなることができない絶対的な身分社会であり、正室も公家や大名などの出身でなければならない。しかし側室だと身分にそれほど関係なかったということだ。例えば三代将軍家光の側室、お楽の方は町人である。しかも父親は禁猟だった鶴を撃ち、処刑されている。しかし春日局からスカウトを受け、大奥に入ると懐妊し、後の四代将軍家綱を生んで将軍の母となったのだ。
 家光のもう一人の側室、おたまこと桂昌院は京都の八百屋の娘だったが、彼女も大奥に入ると懐妊し、後の五代将軍綱吉を生んで将軍の母となった。男は血筋か相当の手柄でしか出世できないのに対し、女はそれとは関係なく玉の輿に乗れたのが大奥の世界なのだ。ちなみに八百屋の娘、おたまが輿にのって側室入りしたので、これが「玉の輿」の語源となったといわれている。
 なお、五代将軍綱吉のころまでは縁故主義が普通だった。綱吉の名を悪名高いものにした「生類憐みの令」も、生母桂昌院が宗教的理由で殺生をことのほか嫌ったため、大奥の実権を握って民の暮らしに悪影響を与えるまでの極端な動物愛護令を出させたものといわれているし、戦国時代以来焼けたままの東大寺大仏殿復興を進言したのも彼女だといわれる。ただその後は公正を期して、あるいは大奥からの影響をそぐべく、縁故主義はそれほどでもなくなったという。

ベビーシッターが決めさせた最高指導者
 大奥は日本の政治史上極めて特殊な場所である。なぜなら女が男のリーダーに限定的だが口をはさむことができるという特権を持っていたからだ。そこは世継ぎを産むという「生殖の場」であったからなのだろうが、将軍の後継者問題という、ある意味幕藩体制においてもっとも要となる問題を左右するだけの権力を持っていた。女だからと言って決して将軍や老中などのなすがままになっていたわけではない。その代表が三代将軍家光の乳母、お福こと春日局である。もちろん彼女は政治家ではなく、ただのベビーシッターであったに過ぎない。しかし二代将軍秀忠の長男の竹千代(後の家光)よりも弟の国千代のほうが利発で聡明なため、将軍にふさわしいというような風潮を察知すると、伊勢参りに行くと言って江戸を去り、駿府の大御所家康のもとに「長幼の順序を守るべく」直訴を行った。それを受けた家康が自ら江戸に赴き、国千代ではなく竹千代を跡継ぎに据えるよう宣言したのだ。ベビーシッターが国家の最高指導者を決めさせた例が古今東西あっただろうか
 ちなみに彼女は丹波の小領主の娘であるが、大奥を構成するヒエラルキーの中で最上層にあるのは年齢に関係なく「老女」といい、多くは公家の娘である。いわば大企業の専務が貴族階級だったようなものだ。その下の「部長」クラスは「御目見え以上」といい、多くが旗本の娘だった。さらにその下の「課長」クラスの「御目見え以下」は将軍に謁見する機会は与えられなかった。ヒエラルキーの上に行けば上に行くほど「役得」があったのは言うまでもない。例えば役人や商人、あるいは参勤交代の折に参府した諸大名からは金銀財宝などが贈られたのだが、それに合わせて大奥も様々な形で幕閣を「指導」するのである。

「暴れん坊将軍」を袖にした女
 なお、大奥に入ってもみなが将軍と同衾するわけではない。特に側室を選ぶ時には「御庭御目見(おにわおめみえ)」なる「最終面接」がある。これは外部の幕閣などが、自分の身内や目をかけている女に着飾らせ、大奥内の庭を歩かせ、将軍にちらりと見させるのだ。そこで「あの者の名は何と申す」などと問われればその女に万全の装いをさせて同衾させるのである。このことを知ると、往年の志村けんの「バカ殿」がまんざら嘘ではなかったことに驚いた。
 ちなみに正室以外のものが将軍と同衾(どうきん)する場合はふすま越しに「記録係」が寝たふりをし、業務として公然と盗聴をするようになった。それは女側にだれかがお願い事をし、それを女から将軍に伝えにくくするためであった。また何月何日にだれと同衾したかという記録をつけることにより、誰かが懐妊した際に逆算し、本当に将軍の子であるかどうかを判定するためという。それにしてもプライバシーなどという概念はそもそもない時代のことであるにせよ、ある意味倒錯した世界である。
 なお、女として大奥に努める以上、将軍からの「お手付き」を断るわけにはいかない、と思いきや、例外があったのに驚いた。ある側室の女中、お妙を見初めた八代将軍吉宗だが、お妙は許嫁のもとに嫁ぐ資金を稼ぐためにここにいるのであり、操を立てて断った。お手打ち覚悟の、まさに前代未聞の「お断り」である。しかし「暴れん坊将軍」は男女の機微がわかる粋な計らいをした。「あっぱれなおなご」として褒美を取らせて暇を出したという。逆に言えば将軍を袖にする「おなご」が江戸時代に存在したということは、単なる厳しい封建君主制度の江戸時代観を覆してくれる。

大奥とCA
 ちなみにこのようなケースは極めて例外中の例外で、多くの女たちは自ら「花嫁修業」または「婚活」の一環として大奥に奉公に来ていたという。なぜなら大奥で働いていれば言葉遣いはもちろんのこと、お茶に生け花、お箏に三味線など、良家の奥方として身に着けるべきものが一通り備わり、それなりの格の家と縁組が期待できるからだ。一方でそれを期待してはみたものの、「女の世界」で生きてきた者が家父長制の「家」に縛られるのは向かないこともあり、「ブランド」嫁を迎えることで対外的な面目は立つものの、炊事洗濯に家の切り盛りなど一般家庭で求められる別のタイプの「技能」に欠ける者もあり、逆に「うちのような家にはもったいない」という口実で敬遠されることもあったという。おおむね三十代になれば「お手付き」の対象から外れ、大奥における出世レースに参加しない場合は「元奥女中」の肩書を使って生け花や茶の湯を教授する者も少なくなかったという。
 この話を聞いて思い出したのが、ビジネスマナーや外国語能力、危機管理能力などを身につけ、「婚活」に励む人も多いCAである。確かに私の周りの通訳案内士や外国語講師などで「元CA」の方も少なくないが、さしずめ昔の江戸城本丸というのは現在の航空会社、大奥というのは現在のCA業界に近いのだろうか。
 とはいえ、たとえ「お手付き」があっても出産するまでは奥女中のままである。奥医師の検診を受ける際、医師は男でも下座、女のほうが上座である。厳密にいえば女が上座なのではない。女は時期将軍候補なので、それを宿す者だから「ついでに」上座に座るのにすぎない。こうした考え自体は厳密なる家父長制に基づいている。さらに言うならば産後の肥立ちが悪く、乳母が世継ぎに乳を与える場合も御目見え以下の身分の低い乳母は目隠しをして授乳し、泣いても抱いてあやすことはできない。赤子とはいえ、授乳やだっことはいえ、将軍に「謁見」できない身分の者だからだ。この考えは厳密な身分制度に基づいている。このように「家父長制」と「身分制度」に縛られた世界というのはなにやら滑稽ですらあり、哀しくもある。
 ちなみに三十代を過ぎて「お手付き」もなく、あったとしても子どもを授からなかった場合は、大奥内での出世レースが待っている。ただ当時の女の職場としてここほど恵まれた場所はなかったようで、将軍が没するまで奉公でき、三十年以上勤務すれば一定の収入が確約された比丘尼として余生を過ごすこともできた。いわば退職金と年金が保証されるという特権階級である。

 このような外の世界とは隔絶された女の園、大奥は1868年に解体した。その直前までの十五代将軍慶喜は、実は将軍就任の66年より上方で将軍の任務に就いていたため、結局江戸城には住んでいない。留守役を務めた大奥の中の最高実力者が二人いた。孝明天皇の妹で、公武合体の「駒」として江戸に下り、十四代将軍家茂に降嫁した静寛院和宮と、薩摩藩島津家出身の天璋院篤姫である。
 江戸城総攻撃が始まりそうだという情報を得た篤姫は、68年3月11日、西郷隆盛宛に寛大な処置を願う趣旨の書状をしたためた。それに基づき13日と14日に勝海舟と会談した結果、15日に予定されていた江戸城総攻撃を回避し、無血開城の運びとなったのだ。江戸の町をかつての淀殿の時代の大坂城のようにしなかったのは、篤姫の功績によるものと言われるゆえんがここにある。結局その後、4月9日に和宮が、翌10日篤姫が大奥から出て、11日には江戸城は官軍に無血占領された。残された山ほどのお宝は官軍大村益次郎に率いられた官軍のものにされたという。
 それにしても江戸時代初期に大坂の町を灰にする決断をしたのも、江戸時代末期に江戸の町が灰になるのを防ぐよう「大奥」の力で官軍に交渉したのもともに武家の女たちであったことは強調しておきたい。そうでなければ江戸時代は「女にとって家父長制の暗黒の時代」という認識しか残らないからだ。
 とはいえ、大奥とは対照的な女の世界があった。そこは家父長制の論理では収まり切れないほどに暗黒の、あだ花を絵に描いたような世界であった。
 
吉原の廓
 「昔、女ありけり」最後の訪問地は東京の下町、浅草の北約二キロに位置する日本最大の色街、吉原にしたい。鉄道の最寄り駅からは、少なくとも1㎞以上はある、陸の孤島のようなところだ。東に位置する都営バスの吉原大門バス停近くにはガソリンスタンドがあり、その角に見返り柳がある。その昔吉原で遊んでから帰る客が、名残惜しそうに柳を見返したことに由来するという。この辺りはかつて幕府公認の「悪所」として日本橋にあった吉原が、明暦の大火後ここに移されたのがここ、新吉原の誕生だ。当時は湿地帯で、日本堤という堤防を歩いてくるか、粋に舟で通う通人もいたという。
 町の構成は江戸時代から変わっていないのだが、そこから南西に行く道路は緩やかにカーブしており、50m先も見えない。昔はこうした「悪所」に出入りするのはやはり憚られるので、外から見られにくくするために道をくねらせたという。カーブは上り坂で高低差がある。かつてここにお歯黒どぶという堀と壁があった。昔から花街は「廓(くるわ)」と言われたが、これは元来城郭を意味する。「よし原大門」というポールが道路の両脇に立っている。かつて男は自由にここの門内に出入りできたのに対し、女は「切手」という通行証が必要だったという。城郭マニアの視点で見ると、なるほど、ここが城門か、と思えてくるが、普通の城郭と異なるのは、これらは城外からの敵から内部を守るための堀と壁ではなく、内部の遊女たちを外に逃がさないためのものということだ。
 ポールのあたりから「プチ平安京」のような碁盤の目状の整然とした街並みが現れてくるが、そこからは四方八方に百数十ものの風俗店が並び、圧巻だ。中央の道を仲之道通りという。やたら「喫茶店」が多いが、そこはコーヒーや紅茶を飲む場所というより、有料の案内所である。江戸時代には「引手茶屋」というお茶屋があり、そこを通さなければ大見世(おおみせ)とよばれる最上級の見世の遊女とは会えなかった。ちなみに大見世の下には中見世、そして小見世(格安店)と続いたが、大見世の女たちは書道、生け花、茶道といった伝統文化から、和歌、俳句、琴、三味線といった芸術まで、様々な分野の高い教養を身につけていた者も少なくなかった。特に花魁は、古典文学にまで精通し、教養人としての素養も備えていた。

そもそも売買春とは…
 売買春は世界最古の商売と言われる。なんとゴリラやチンパンジーですら、食べ物などをメスに与えて行為をすることがあるというほどだ。しかしどうやら日本において明らかな形でこれが「商業化」されたのは9世紀後半の平安時代らしい。それまでは男も女も不特定多数の相手としており、金銭や物品の仲立ちは必要なかったが、律令制の普及で一夫一妻制が進みつつあったこのころに商業の一環としてのセックスワーカーが生まれ始めたというのだ。それが中世になると「今様(いまよう)」という流行歌や踊りを披露するエンターテイナーを兼ねたりして、また宿泊施設について春をひさぐ者も現れ始めた。いわば「兼業売春」である。
 そうした流れを汲んで江戸時代になると、性産業が江戸の一大産業となった。それは巨大都市江戸の街づくりには、東日本中の男たちが労働者として雇われ、18世紀前半には男女の人口比率が2:1だった期間もあったからだ。その結果、1868年の東京府の税収のうち、8パーセントが吉原から、14パーセントが深川の遊女屋の上納金であったという。こうして吉原のような公認の遊郭は上納金を求められるようになっただけでなく、安宿の旅籠(はたご)でも飯盛女が春をひさぐのが普通であったという。
 そうした店に送られる女たちの体は「資本」であり「商品」であるとみなされた。例えば金貸しの担保に女たちの体が使われたのはこれが「資本」であるとみなされたことを表している。また「吉原細見(さいけん)」なる、ミシュランの三ツ星、二ツ星のようなランク付けを行う書物も発刊され、よく売れたが、それは女の体が「商品」とみなされたことを示している。ただ江戸時代のこととはいえ人身売買は禁止だったのだが、遊女として売られるには「遊女奉公証文」で雇われる形になったのだ。平成の日本で「技能実習生」という名の人身売買に近いことが行われていたことにも似ている。
 ちなみに客層は、江戸の大店(おおだな)である両替商や木綿問屋、または参勤交代の武士たちだったという。この体制は1872年に出された芸娼妓解放令まで続いた。

籠の中の鳥
 この町ではクリニックをよく見かける。性病予防や検査などの専門医院などもある。昔から華やかな舞台の裏側で、遊女たちは病に倒れてもめったに休めず、十分な治療を受けることは困難であった。休みと言えば遊女には年にわずか二日しかなく、自由に外出することもできなかった。そのため自分の稼ぎで休みを買う「身揚り」をして、情人と会うことを粋と考えた。
 仲之町通りの西はずれに吉原神社がある。江戸時代には廓内に五か所稲荷神社があったが、今残っているのはここだけである。一時はその数三千人ともいわれた「籠の中の鳥」たちがここで何を祈ったのかは知る由もない。壁に江戸時代から平成までの街並みの変遷が描かれてあった。基本的に江戸時代と今が同じことが分かるが、この町は何度も全焼している。全焼しても別の指定された場所で営業を再開して復旧を待ったという。逆に言えば、ここは全焼してもすぐに必要とされる、なくてはならない「性的なインフラ」だったのだろう。
 神社からさらに南西にすすめば、区立台東病院のところでまたもや下り坂のカーブとなる。ここもお歯黒どぶだったところだ。カーブのわきには小さな公園がある。昔はここに大きな弁天池があったのだが、明治時代には形式上「解放」されたとはいえ諸事情により脱走もできなかった「籠の中の鳥」たちがここに大勢いた。そして1923年の関東大震災の折には五百人もの人々が火災から逃れて池の中に入り、折り重なるようにして死んだという。もちろんすべてがそうした人々だったというわけではないのだが、女郎屋に飛ばされた人々のことを想起させる芸事の女神、弁財天がまつられ、参拝者が後を絶たない。

生まれては苦界、死しては浄閑寺
 吉原から国際通りに出てから北に向かうと、裏通りに三ノ輪の浄閑寺がある。ここはかつて「投込寺」と呼ばれた。性病に苦しみ、食事も与えられず栄養失調で亡くなった者、足抜け(逃亡)した結果つかまり、店側からの拷問の挙句に亡くなった者、情人と心中して亡くなった者など、単なる「商品」としてしか扱われなかった彼女らは、死んでも墓が作ってもらえなかった。そこで亡くなるとたもとに二百文、つまり数千円ほど入れられてここの門前におかれた。特に1855年の吉原の大火では数百人もの遊女たちがここに投げ込まれたという。
 本堂の裏には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という句碑とともに、どこかでさまよっているかもしれない遊女たちの霊を弔う新吉原総霊塔がひっそりと建っている。だれが備えたか、化粧品や髪飾りなどがただただ哀しい。
 とはいえ吉原の遊女たちは「助六」など、歌舞伎の題材になったり、歌麿らの錦絵に描かれたりして化政文化の中心としても扱われた。華やかな舞台の裏側で繰り広げられた一夜一夜の出来事を紐解くことは、単に遊郭の歴史を辿るだけでなく、当時の社会や女と男の思いを深く理解し、感じることにつながるだろう。

「女の視点」の大切さ
 明治時代に遊女たちは解放されたが、江戸時代から続く男尊女卑に基づく価値観は今なお続く。ただ、日本史の教科書の1%にも満たない「女の視点」でこの国の歴史を見返していると、レコードのA面とB面を同時に聞いているかのような重層的な面白さと哀しさを覚える。「ジェンダー」という舶来の普遍的な思想でこれらを批判するのは簡単だが、この国が実は縄文時代には男女の役割という観念もなく、むしろ「子を産む性」である女を神聖視する時代が一万年以上続き、その後は大陸の影響を受けながらもゆっくりと家父長制に近づき、江戸時代にそれを完成させたという流れに気づくことの大切さに気付いたのだ
 そうした中でも女帝として、尼将軍として、太閤の側室、総大将の母親として男たちを束ねた女たち。文学者としてこの国の文化を作り上げた女たち。経済人として内乱を休戦に持ち込んだ女。労働で経済を支えた女たち。「子を産む性」として大奥を支配した女たち。その陰で慰み者にされ、見殺しにされ、投げ捨てられた女たち。こうした女たちの跡を歩きながら、見ながら見えてきた「日本」は、私のこれまで見てきた日本とは異なる
 思えば近代になっても江戸時代に完成した家父長制の影響から抜けきれず、この国で最も長かった縄文時代の男女のあり方に戻れない私たちに、「女の視点」の旅は何かの示唆を与えてくれるに違いない。次の機会には「昔、女ありけり」の近現代編を歩いてみたい。(了)


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