【続編】歴史をたどるー小国の宿命(48)
方広寺は、京都市東山区にあり、国家安康(こっかあんこう)の鐘が、今も残されている。
国家安康の鐘は、豊臣家が方広寺の大仏の開眼供養前に、「国家安康」などの字句の記銘を、臨済宗の僧に依頼して鋳造されたものである。
ただ、方広寺の大仏建立の工事は、幕府と豊臣家の共同事業であったので、鐘の記銘文についても、当然のことながら、家康との協議が必要だった。
しかし、共同事業とはいえ、大仏建立にあたっての工事費用は、ほとんど豊臣家が負担した。元はと言えば、秀吉の発願だったのだから当たり前なのかもしれないが、朝鮮出兵から撤退した上に、当初の木造の大仏も地震で大破して、豊臣家の財政上の損害は大きかったはずである。
それでも、1614年に、なんとか開眼供養の段階まできて、後は家康から承認をもらうだけだったのである。
ところが、どういうわけか、家康が記銘文の字句の一部について激怒した。
その字句の一部が、「国家安康」だったのである。
普通に読めば、国家が安泰であることを願う四字熟語なのだが、この熟語の中で「家康」の名前が分断されている。しかも、意図的ではなかったとしても、それなりの要職に就いている人の諱(いみな)を入れるのは、大変失礼なことであった。
また、記銘文の他の箇所には、「君臣豊楽」の四字熟語も見受けられる。
これは、豊臣家を君主として楽しむという解釈ができるので、家康からすれば、徳川家を貶めるような記銘だったのである。
これが、方広寺鐘銘事件として大きな問題になった。
実は、豊臣秀頼の母(=秀吉の妻)であった淀殿(よどどの)の乳母が、駿府城にいる家康のところへ、この記銘内容について事前説明に行っていたのだが、このときは家康は許可していたのである。
なぜこのとき許可していながら、開眼供養前の土壇場で、手のひらを返すように激怒したのか不明であるが、こうしたことから、実は家康は最初から豊臣家の排除を目論んでいたのではないかと言われている。
しかし、大坂冬の陣の開戦へと発展した核心的な理由は、別のところにあったのである。