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大河ドラマ「どうする家康」が挑戦したこと

先日投稿した記事で、大河ドラマ「どうする家康」が挑戦的だったと感じたことが2つあると書き、その1つ目について書いたのですが、2点目についてです。それは、徳川家康と織田信長の妹、お市との関係、そして淀殿の徳川家康に対する葛藤です。
 
ドラマの中では家康とお市との関係が幼馴染の恋仲であったものの、そこに応えなかった家康に対してお市の娘、淀殿が複雑な感情を抱ていたように描かれていました。
この点について「なんて史実に基づかない、荒唐無稽な内容なんだ」と思われた方も多かったかもしれませんが、私は歴史的史実を下敷きにしつつ、大胆な仮説で描かれたと考えます。
 
実は、武田家滅亡後、徳川家康が安土城に織田信長を訪問したとき、徳川家康とお市の方が婚姻するという話しはでており、相当程度まで話しが進んでいたと言われます。築山殿が殺害されたのちは家康は独身であり、織田家と徳川家との関係強化のために婚姻の話しがあがっても不思議ではりません。
 
しかし、この家康の訪問の直後、信長は本能寺の変で亡くなり、この話は流れてしまいました。そして、清須会議によりお市の方は柴田勝家は嫁ぎますが、豊臣秀吉との戦いに敗れた柴田勝家は、お市の方ともども自害してしまいます。
 
もちろん、お市の娘であった淀殿は、家康とお市との婚姻話は知っていたはずです。
そんな淀殿が、
「もしあのまま家康と母が結婚していたならば、母は死ぬことはなく、自分も秀吉の側室になることもなかった。一方、家康は自分の子である秀頼から天下を奪い、天下人になろうとしている。母の死も自分が側室になったのも家康のせいでないものの、なにかやるせない。」
という想いにとらわれたとしても、不思議ではありません。家康にもその辺の機微に対しての気遣いはあったのではないでしょうか。その辺の想い、機微、気遣いなどを今回の大河ドラマではよく描かれていたと思います。
 
歴史のなかで表面的にあらわれるものの奥底には、想像してもし尽せないような人間の複雑な感情があります。そして、表面的な事象が繰り返されることはなくても、そうした人間の複雑な感情というのは時代を超えて繰り返されるものです。そう考えるならば、人間の感情まで想像してこそ、歴史からの学びは意味あるものかもしれません。

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