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関白きのこ餡かけ温豆腐

関白という役職は天皇を補佐して政治を行う者。日本史上、その役職は殆ど藤原氏が独占。
しかし藤原氏以外の氏族、どころか氏素性も定かとは言えない関白が二人。
その内の一人を妄想しながら、絹豆腐を料理した記録。


材料

絹豆腐   1丁
シメジ   1株
塩麹    大匙2
胡麻油   大匙2
片栗粉   大匙2
水     50㎖
黒摺り胡麻 たっぷり
生姜    お好みで

永禄十一年(1568)尾張に誕生した萬丸が後の関白、豊臣秀次。
秀吉の姉の子、つまり秀吉の甥。
叔父である秀吉は信長に仕えて出世街道を邁進。
成り上がり者である故に譜代の家臣とか一門衆などいない秀吉は親戚をかき集めて羽柴という家中を形成していく。
萬丸も四歳にして秀吉に使われることになる。
浅井家を攻略していた秀吉は浅井家の家臣、宮部継潤の元へ萬丸を養子に出した。体のいい人質。
その後、浅井家が滅んで宮部が秀吉の臣下になると人質に出している意味がないので萬丸改め宮部吉継と名乗っていた甥も羽柴家に戻された。


胡麻油でシメジを炒める。

その後、三好家の養子に出されて三好孫七郎となる。
本能寺の変後、秀吉が三好家と連携している意味がなくなると、再び戻される。
煩雑なので以後は秀次で通します。
叔父の都合で彼方此方に体のいい人質としてたらい回しにされたと言える。
徳川家康、織田信雄連合軍と秀吉が対決した小牧長久手の戦いでは、秀次は別動隊を率いて徳川家の本拠、三河を襲撃する中入れ軍を率いた。
ところが德川方の待ち伏せに会って壊滅的な被害。
このため、戰下手なイメージが付いてしまいましたが、その後は発奮したのか紀州征伐や小田原征伐では活躍。
秀吉が天下人となると養子となって、豊臣家関白の二代目を襲名。
叔父に振り回されもしたが、この辺りが豊臣秀次の人生のピーク。


シメジの上に半分に切った豆腐を乗せて、蓋をして3分、蒸し焼き。

偉大な叔父から関白職を引き継いだということから、それに相応しい人物になるべく努力。剣術や弓術といった武芸だけではなく、茶の湯や連歌にも励む。領地だった近江八幡では善政を布いた。
人生が暗転するきっかけとなったのが、秀吉に秀頼という子が産まれたこと。
もはや実子は望めないということから秀吉は秀次を二代目関白に据えたのですが、やはり自分の子に跡を継がせたいと思うのは人情。
秀次自身も自分の立場が危うくなっていくのをひしひしと感じる。
このことから精神的に追い詰められていったとよく言われる。


塩麹投入。次いで片栗粉を混ぜた水を入れて絡み合わせていく。

俄かに秀次に謀反の疑いが浮上。伏見城に居る秀吉の下へ弁明に訪れるものの、面会は許されずに高野山へ。
その五日後、切腹して二十八年の短い人生を終えた。
秀吉の怒りは収まらず、秀次の妻妾や子供、総勢三十九名が斬首となった。
というのが豊臣秀次切腹事件。
従来、実子の秀頼に跡目を継がせたい秀吉が邪魔になった秀次に罪を着せて自害させたとか、秀次という人物は殺生関白と呼ばれる残虐な人物なので粛清されたとか言われることがあった。
ただ、秀吉の命令で高野山へ行き、切腹を命じられたと思われているようですが、最近の研究ではそうではないようです。
寺院というのは公権力が及ばない場所とされていて、其処に行った時点で秀次は現世とは無縁になった。そこで切腹せよとはいくら秀吉でも命令し辛いのではないか。
つまり切腹は秀次自身の意志。
切腹とは刑罰という意味だけではなく、身の潔白や本心を示すという意味があります。
本当の心は腹にあると武士は考えていた。切腹というのは腹を裂いて本心を見せるという意味合いもあった。


関白きのこ餡かけ温豆腐

冷奴ではなく温豆腐。
温めた豆腐は程よく水分が抜けてしっかり食感。塩麹の甘くしょっぱい味がよく合う。シメジにはB2やDと言ったビタミン豊富。食物繊維も頂けます。
いい出汁も出ている。
摺り胡麻が香ばしさを加えて、抗酸化物質も摂取出来る。
擦り下ろした生姜を乗せてもいい味変。

秀次が腹を裂いてまで見せたかった本心というのは、誰が真に豊臣家を考えているかということ。
秀頼は秀吉の実子ではない。
秀次はそれを確信していた。
現代では『家』という概念が薄れているので、なかなか想像し難いが、当時の人々、特に上流階級ともなると血統とか家は守り伝えねばならない。
秀吉の血縁を継いでいるのは自分やその子供達だということを、自らの血で示そうとしたのでしょう。

秀頼の母親、淀殿も同じく血統に拘っていた。それは織田家の血統。
淀殿からすれば、秀吉とは使用人の分際で世話になった織田家を凌いで天下人になった。そればかりか母親、お市の嫁ぎ先、浅井家と柴田家のどちらも滅ぼした仇。
仇に身を任せて産んだ子が秀頼ではなく、恐らく父親は別人で秀吉以外の誰でもよかった。豊臣家を織田家の血筋で乗っ取る。それが淀殿の野望。
秀次はそれに気付いてしまった。
ところが秀吉は甥よりも淀殿を信じた。或いは薄々おかしいと感じていても頭を押さえられていた。

淀殿こと茶々が拘ったのは織田家の血統。それを濃く継いでいるのは自分だと自覺。
織田信長は『うつけ』とよく言われました。うつけというのは古語で近親相姦を示すことがある。
つまり妹の市と通じていて、その間に生まれたのが茶々。
正に織田家の純血種。
秀次死後、その妻妾や子供が全員、処刑されたのも万が一にも秀次の胤を宿している女性がいては禍根となる故、秀吉に処刑を唆した。
淀殿に骨抜きにされていた或いは実家を滅ぼしてしまったという負い目からか、秀吉はその言いなり。

秀次が最初に養子に行ったのは浅井家臣の宮部家。そこで淀殿に関する何かを見聞して、危機感を募らせた。
淀殿も秀次の疑念に気付いた。そういう暗闘があった。
そんな妄想をしながら、関白きのこ餡かけ温豆腐をご馳走様でした。

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