パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワインと思いましたが、体を悪くして、あんまり飲めなくなりました。自分が亡くなったあと、子どもたちが私を思い出しながら読んでほしい内容を書きます。秋ピリカグランプリ2024「豆千賞」をいただきました。Ph.D.

パッパルデッレ

50歳の太ったおじさん。ゴミ屋敷を片付けたい。料理やワインと思いましたが、体を悪くして、あんまり飲めなくなりました。自分が亡くなったあと、子どもたちが私を思い出しながら読んでほしい内容を書きます。秋ピリカグランプリ2024「豆千賞」をいただきました。Ph.D.

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誰に向けて、なぜ書いているか

冒頭にアンカーする記事を書いてみよう、ということで、わざわざ時間を使って、何を誰に向けてなぜ書いているのか、について書いてみようと思う。 まず、誰に向けてなぜ書いているかというのは簡単だ。自分の子どもたちに向けて、子どもたちが大人になって、自分が亡くなっていて、父のことが知りたければ読んでほしいと思って書いている。要するに遺言や遺書の類というわけだ。 私の父はすでに80を超えていて、昔から自分の父母(私にとっての祖母)のことを書くといっていながら、まったく書くそぶりをみせ

    • ブックオフ行脚

      はてさて、オースターの『空腹の技法』の文庫本を探して、今日は浦安近辺を彷徨っている。 とある注文原稿を仕上げ、編集者に送って、一段落した午後、子どもたちは妻とDに行っているので、出てくるまでに浦安近辺のブックオフを探した。福武も。 南行徳。 南行徳、のんびりしていていいね。 特になく。 福武もなく、でもこんなもんだろうと、思う。 次に、葛西店へ。 全く、期待していなかった。文庫棚にはオースターもなく。というか外国人作家棚、なくね? 福武も吉本ばななの有名なやつ

      • 長い遺書のようなものとして書いていることを忘れてました。初心に戻ります。というわけで、みなさん、さようなら。

        • スタエフの方で述べたように、こちらのアカウントは本来の方向性に戻していこうと思います。薄汚いおじさんは薄汚いままで。恥ずかしい。

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        誰に向けて、なぜ書いているか

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        • 「感想」
          7本
          ¥100

        記事

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』13 第二編「七 出世主義者の神学生」

          ここは、ぐったり疲れて休んでいる長老の傍にいたアリョーシャが、促されて家族のいる場所に向かう途中に、「出世主義者の神学生」であるラキーチンにあれやこれやと言われて、辟易していると、ひと悶着あった家族が出て来て、ありゃりゃー、となる節である。 ラキーチンのことを私はあんまり好きではないのは詮索好きで介入好きのように感じられるからである。ほっとけよ、と思うけど、この人は、おせっかいというかいっちょかみしたいのか、あれやこれやとアリョーシャに言って来る。こういう人がちょっと苦手だ

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』13 第二編「七 出世主義者の神学生」

          ウチの露文

          整理のためにウチの露文を集めてみたけれど、こんなもんだったか。 プーシキンはこんなもんだけど、ゴーゴリはもうちょっとあったし、ツルゲーネフも新潮の古いやつで何か持ってた気がする。猟人日記は下巻もどっかにあるはず。 レールモントフはこんなもんとして、レスコーフは文学全集の中の何かがどっかにあった。アルツィバーシェフ『サーニン』なんかは、レアものかしら。読めてないけど。 ドストエフスキーは新潮の文庫全部持ってたはずだし、トルストイも同様。チェーホフはなんだかんだと薄いから引

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』12第二編「六 こんな男がなぜ生きているんだ!」

          PTAで揉めている。 私は、別のグループなので、その揉め事に介入することはないけれど、みんなで決めているので、最終的な判断ができず、いつまでも決まらないということのようだ。 リーダーの役割は、そんなときに片方に遺恨が残らないように説得しつつ、丸く収めて決断することであろう。 そりゃあ、やりたいとは思わないよね。 リーダーは暴君でもダメで、グループに入りすぎてもダメ、微妙な立ち位置を維持する必要がある。微妙な立ち位置の維持こそ、一つの技術であると思う。 カラマーゾフ家も揉めて

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』12第二編「六 こんな男がなぜ生きているんだ!」

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』11第二編「五 アーメン、アーメン」

          タイトルの付け方がちょっと不思議で、これはロシア語で読まないと感覚的には変わりづらいものなんだろう。 最初のテンションはどこへやら、なんだかおとなしい日記に成り下がってしまったけれど、それも全て会社でドストエフスキーもびっくりのおしゃべりに満ちて、それでいて先に全く進まないという小田原評定かウィーン会議かという出来事に参加したことによる疲労のせいだ。 そもそも司会が権限を持っている人なのに、個人のビジョンを持っていないから、矛盾した意見が出た時にどっちを取るかを決断できな

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』11第二編「五 アーメン、アーメン」

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』10 〜第二編「四 信仰のうすい貴婦人」

          この人、なんでこんなにフォーカスされているんだろうと思ったら、ホフラコーワ夫人は娘のリーズ(リザヴェータ)と一緒になって、アリョーシャを「翻弄」する、ということらしい。亀山郁夫さんが書いてた。でも、亀山さん、後でアリョーシャに余計なことを言って戸惑わせる、ラキーチンのこととか紹介もないんだよね。ラキーチン、結構やな奴で、すごい嫌いなんだけど。 ここの節、アリョーシャのターンだといっていいんだけど、いつも思うのはアリョーシャのターンが一番わかりにくい、そして、そのせいかあんま

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』10 〜第二編「四 信仰のうすい貴婦人」

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』9 〜第二編「三 信者の農婦たち」〜

          この節はゾシマ長老が、いろんな女性の訴えを聞くシーンが描かれる。こういうシーンは物語に必要かどうか、尺やページ数の浪費だろう、という意見もあると思う。 現代的な見方をすれば、ここは心因性の病を得た女性たちが、長老に話しそして癒されることで、快癒するといういくつかの小ストーリーを見ることができる。 このエピソードは、マルク・ブロックの書く『王の奇蹟』という大著の中で知ることができる。王権を継ぐものが、人々の病を治す儀式を慣例として行い、聖なる力を誇示し、教会権力と世俗権力と

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』9 〜第二編「三 信者の農婦たち」〜

          小さな旅 〜マリア地蔵へ、あとブックオフ〜

          私の探している文庫は主に1980年代から90年代にかかるもので、思えば今から20〜30年ほど前に出版されたものである。そう考えると、私が文庫を買い集めていた90年代後半には、それらは1960年代〜1970年代にあたり、確かにそれらの時代の若干古い文庫が投げ売りのように置かれていたものだった。 私は、当然ちゃんとした本屋に行くのが好きだし、ちゃんとした古本屋に行くのも好きだけれど、ブックオフのような新古書店も嫌いじゃない。ここで、キラリと光る過去の作品を救出するのが好きだ。救

          小さな旅 〜マリア地蔵へ、あとブックオフ〜

          福武の造本

          この写真を見てください。 この背表紙を見て何かお気づきになりますでしょうか。 そう福武マークが、ある時期を境に、背表紙から消えているんです。 (⭐︎マークも消えてますが、これはまだ考えていない) 実は、『カイウスはバカだ』は1990年10月刊行、『笑いの方法』は1990年11月刊行なんです。 ここで、背表紙からマークを外す決断をした、というわけです。理由は分かりません。 そして、これはレアな印刷ミスなのかどうか分かりませんが『夏目漱石論』の背表紙は、マークと「福武

          【創作】マリア観音をめぐる記憶

          これは割と気に入ってます。

          【創作】マリア観音をめぐる記憶

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』8 ~第2編 場違いな会合 「二 年とった道化」~

          ええっと、この節は、えらいゾシマ長老の前で、オヤジやらかすんじゃないかどうかと心配していたアリョーシャの予想が的中して、フョードルがグダグダと余計なことを言っちゃう、そしてそれをみんなでヒヤヒヤしながら見つめている、そんな内容です。 ウチのオヤジも、妹の授業参観で、子どもたちが手をあげないから、「ハイ!」とか手を上げちゃってみんなを笑かそうとして、妹に「もう来ないで」と泣かれる、といった振る舞いに及んでいたので、フョードルの「道化」はわからないでもない。私も、そういうことを

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』8 ~第2編 場違いな会合 「二 年とった道化」~

          第6回配信

          よろしくお願いします。

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』7 〜第二編 場違いな会合 「一 修道院に到着」〜

          感想文では第二章に入りました。現実にはもう第二章を読み終わりつつあるのですが、長老にあれこれと告白したり、相談したり、アプローチをかける人たちの話が煩わしいです。いや、本当にそうは思っていません。小説のありようとして、いろいろな声が混合して、一つの印象をなす、ことの心地よさを多少なりとも知っているからなのかもしれません。ただ、敢えて言えば、この小説を家族の揉め事の問題解決として読んでいった場合、早く問題の解決編に至れよ、という思いが浮かんでくることも否定できないと思うのです。

          ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』7 〜第二編 場違いな会合 「一 修道院に到着」〜