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北村紗衣の代表的な盟友 : 清水晶子 『フェミニズムってなんですか?』

書評:清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(集英社新書・2022年)

清水 晶子(しみず あきこ、1970年 - )は、日本の表象文化論研究者。東京大学大学院総合文化研究科教授。専門はフェミニズムクィア理論。』

(Wikipedia「清水晶子」

フェミニズムを専門とする、東京大学の生え抜き教授である。
しかし、わたし的に興味深いのは、清水が、我らが北村紗衣武蔵大学教授)と同じく表象文化論研究者」で、学士と修士は「英米文学」で取得しているおり、この点でも「シェイクスピア研究者」である北村紗衣と同様だといった、その「共通点」の多さである。北村紗衣も「東京大学」出身だ。

年齢的には、北村紗衣がひと回り下で、清水の講義を受けたのかどうかまでは知らないが、面識があるというのは、まず間違いない。なにしろ「東大で、フェミニズムで、表象文化論で、英米文学専攻」。しかも今では、大学は違えど、同じ「大学教授」なのだから、知らないはずなどないだろう。

それに、実際二人は、北村紗衣への「陰口」問題で、歴史学者・呉座勇一を名指しにした「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」(2021年)の発起人(2022年1月30日現在の16人)として、共に名を連ねた仲、なのである。

「呉座先生復職記念:「オープンレター」に署名した人達」より)

それだけではない。この二人は、

(1)「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」(2019年5月)

なるものにも名を連ねているのだから、先の「オープンレター」以前からの知り合いだと見て、間違いないだろう。
ちなみに、北村紗衣は東大の教員であったことはないので、「東大出身の教員」という立場で名を連ねている。こちらのメンバーは、次のとおりだ。

(女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会編著
『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』P94より)

この「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」というのは、次のようなものである。

『 2019年5月、webサイト「TOCANA 知的好奇心の扉トカナ」に掲載された東京大学大学院人文社会研究科の三浦俊彦教授による記事「『レズビアンたるもの、相手にペニスあっても女だと思ってヤレ』世界で広がる狂ったLGBT議論を東大教授が斬る!」に対して、東京大学の関係教員が抗議声明を発表しました。そして、翌月の6月に三浦俊彦教授からその抗議声明に対する応答が出されました。』

『LGBT異論』所収、井上恵子「東京大学三浦俊彦教授の記事に対する東京大学関係教員有志声明批判一一その問題点」P77より)

その三浦俊彦による応答文が、同稿で紹介されている、

(2)「三浦俊彦教授による「東京大学関係教員有志声明」への応答」(2019年6月)

である。
上に続けて、井上は、次のようにそのおおまかな内容と経緯を紹介している。

『 (※ 三浦俊彦による)応答では、東京大学関係教員有志声明(以下、有志声明と呼称)が批判している内容全てに返答し、(※ 有志らの)誤読や誤情報を指摘しましたが、(※ それに対し)有志声明は訂正することも答えることもありませんでした。
 有志声明では、三浦俊彦教授の記事について次のように批判しています。

 "トランスジェンダーに関する、そして性的同意に関する不正確な理解を多く含んでおり、トランスジェンダーの人々やレズビアン女性に対する差別や偏見を助長するものです”

 まず、この記事(※ 三浦による元記事)に嫌悪感を抱いた多くの方(※ に対して)は、三浦教授本人も応答(※ 文の中)で謝罪しておりましたが、(※ それは、三浦自身の挑発的な)文体を問題にし(※ 反省し)ていた(※ という趣旨のも)のでは(※ ないか)と考えられます。また、(※ この三浦の記事を)タイトルのみで判断した方(※ 声明参加者)も(※ 少なからず)いたでしょう。(※ 三浦による元記事)タイトルの(※ 二重)鍵カッコ内は、トランス女性レズビアン(※ 問題)が抱える困難を(※ 生物学的女性のレズビアンが)表した(※ 問題)当事者のセリフであるのに、(※ 記事執筆者である)三浦教授自身の言葉だと誤解されたまま記事への批判が広がりました。
 記事の内容は、身体が男性(生物学的に男性)で、性自認(自分が認識している性別)が女性、そして性的指向が女性に向いている「トランス女性レズビアン」を、レズビアン女性(生物学的に女性)が受け入れなければ(※ そうした意識が)差別とみなされるという(※ トランスジェンダリズム=性自認至上主義を称揚する、一部フェミニストによる)風潮を皮肉ったものです。タイトルの『レズビアンたるもの、相手にペニスあっても女だと思ってヤレ(※ セックスしろ)』(※ というの)が、トランス当事者から(※ 生物学的女性のレズビアンに)突きつけられた難題であると指摘しているのが三浦教授です。
 ちょうどこの記事が出た直後の2019年6月、新宿二丁目のレズビアンバー「ゴールドフィンガー」で身体女性限定の日(※ つまり、それまでの常識における「女性限定の日」)に身体男性のトランスジェンダー女性(※  が、自分もそれに参加させろと言ってきた際に、そ)の入場を拒否したことが「差別だ」と(※ のちに、トランスジェンダリズム支持者のフェミニストなどから)糾弾され、謝罪に追い込まれるという事案も発生しています。』

(前同・P77〜78より。“”で括られた引用文の前後に1行空けを加えた。※ は、年間読書人の補足)

上に引用文では省略しているが、この井上文の冒頭は、

これは、ノーディベートの流れの発端とも言える出来事です。

となっている。
つまり、清水晶子北村紗衣など(のちに呉座勇一「キャンセル」した「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」とも、少なからず重複する、三浦俊彦批判声明のメンバーたち)は、自分たちの方から積極的に批判した相手である、三浦俊彦からの「応答としての反論」があったにもかかわらず、これに対して応答することをせず、無責任な「言いっ放し」で誤魔化したままでいる、という点である。

ちなみに、上の井上文が掲載された『LGBT異論』の刊行は、本年「2024年」だから、清水晶子北村紗衣らは、自分たちが公然と三浦を批判したそのわずか1ヶ月後には、三浦から公式に「反論」がなされているのもかかわらず、それへの「反論」も「謝罪」もしないまま、すでに5年が経過してしまっているのだ。
これでは、言論人としての「発言責任」を放棄した「ノーディベート」による「逃げ」だと、そう非難されても、抗弁の余地はない。

したがって、清水晶子北村紗衣らの「沈黙」が意味するのは、内心で自分たちの三浦批判こそが、「誤読」による不適切な勇み足であったことに気づきながら、自身の対面を保つためだけに、すべき謝罪をせずに逃げた、ということにしかならないである。

しかし、さらに問題なのは、この「批判しっぱなし」の3年後には、またもや懲りもせずに、くだんの「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」を公開し、さらにはそれが、呉座の職を奪う結果となったのを、世間から「やりすぎのキャンセルだ」と批判されるようになると、途端に、オープンレターは公開後1年で「その使命を終えた」として、その内容(主張・発起人・署名者などの、タイトル以外のすべて)を「抹消」して、「証拠隠滅」してしまった、という「無反省と、その学習能力の無さ」であろう。

なお、見てのとおり上の「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」のサイトには、

『 オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」は2022年4月4日をもって公開を終了しました。多くの方からのご賛同にあらためて感謝申し上げます。今後については詳細が決まり次第このサイト上でお知らせいたします。

2022年4月4日
差出人一同 』

とあるだけなのだが、しかし、この『今後については詳細が決まり次第このサイト上でお知らせいたします。』という「約束」さえ、果たされていないようなのだ。

つまり、「反論・批判には応じず、賛同者も放置したまま」の「ダンマリ」による「逃げ」だということになるのである。

また、北村紗衣は、「Wikipedia日本語版」の運営に関わるウィキペディアンとしても知られる人物だが、その「Wikipedia」では、この「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の項目については、「オープンレター」では検索に引っかからない「女性差別的な文化を脱するために」というタイトルのみでの登録となっている。
たしかに、本文の中には、イヤでも「オープンレター」と書かれてはいるが、当然、本文中のワードは「表題」とは違い、検索には引っかからないのだ。

しかも、驚くことに、このwiki記事「女性差別的な文化を脱するために」は、「関係者の名前が一切記載されていない」という、じつに奇妙なものとなっている。

なぜ、こんな「奇妙な内容」になったのか?

それはたぶん、この「オープンレター」のことを、北村紗衣らが、自分たちの「黒歴史」として、できれば隠したい、消し去りたいと考えたからだろう。

なぜなら、北村紗衣らは、すでに公式に「謝罪」していた呉座勇一に対し、さらに追い討ちをかける体で、この「オープンレター」を公開し、呉座を晒しものにしたのであり、それは署名者千数百名による、袋叩きの「公開処刑」とも呼ぶべきものであったからだ。
また、その結果、呉座が「職まで奪われた」という事実をして、世間から「死者を鞭打つような、悪質なキャンセル行為」だと非難され始めたから、そうした批判の高まりと否定的な評価の永続化を、北村紗衣たちは怖れたのであろう。

そこで北村紗衣が、この「オープンレター」を「無かった事にする」ために、あれこれ裏で画策したというのは、別方面からの当事者証言によって、裏づけられてもいる事実なのである。

北村紗衣「オープンレターに言及するな」高橋雄一郎弁護士に(2022-01-17)

つまり、Wikipediaの「女性差別的な文化を脱するために」の項目に、関係者の名前がいっさい出てこないのは、ウィキペディアンである北村紗衣が、自身のその地位を濫用して、「記事内容から関係者名を抹消した」あるいは「最初から載せないように画策した」と、そう考えるのが至当であろう。

この「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」事件は、近年、問題視されるようになった、アメリカ発の「キャンセルカルチャー」に関して、今や日本における「代表的な事例」のひとつと呼んで良いものとなっている。
なにしろ、単に一般人(匿名大衆)が大騒ぎしたというのではなく、東大教授をはじめとした、大学教員や出版人が中心となって、その名を連ねた事例だからである。

そのため、この件について「Wikipedia」に記事を立てないというのは、いかにも不自然だ。
だから、嫌でも項目を立てないわけにはいかないのだが、では、どうすれば、なるべく目立たないようにできるのか。
そう思いあぐねた結果、「オープンレター事件」を、できれば無かったことにしたかった北村紗衣は、苦肉の策として「記事は立てるが、検索には引っかかりにくくし、さらに関係者の氏名は、すべて伏せる」という、言うなれば「次善の策」をやむなく選んだ。一一と、そういうことなのではないだろうか。

しかし、私のこうした解釈に対しては、「すでに解決している問題だから、これ以上のトラブルを避けるために、告発者名も被告発者名も、ともに伏せたのだ」と、そのような「言い訳」もありえよう。

しかし、他の「事件もの」の項目を見れば明らかなとおり、すでに解決した事件であっても「主たる関係者名」の記されるのが、「Wikipediaの当たり前」である。
そもそも、関係者名をすべて伏せてしまったら、「辞典」の役目を果たさないではないか。

例えば「ユダヤ人虐殺=ホロコースト」を説明するのに「ヒトラーほかナチス関係者」の名をいっさい出さないで、意味のある記事になるのか? 「吉則ちゃん誘拐殺人事件」の項目で、吉則ちゃんの名前を伏せることなどできないだろう、という話である。
要は、「公益に資するもの」として記事を立てる以上は、「いつ、どこで、誰が、誰に、何をした」というくらいの内容は、説明として是非とも必要な要素で、それが無いのは、不自然であり「おかしい(不審だ)」ということになるのである。

閑話休題。

そんなわけで、本書『フェミニズムとはなにか?』の著者である清水晶子は、「フェミニズム運動家」として、北村紗衣の「仲間」であると、そう呼んでも良いだろう。
なにしろ、『「東大で、フェミニズムで、表象文化論で、英米文学専攻」で、今では、大学は違えど、同じ「大学教授」』なのだし、

「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」

「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」

の二つにも、仲良くその名を連ねているのだから、いまさら「知らぬ存ぜぬ」は許されない

で、そんな清水晶子東大教授の書いた本書『フェミニズムってなんですか?』の内容はどうなのかというと、東大教授ではなくても、フェミニズム系のライターさんなら十分に書ける程度の、「フェミニズム」に関する、ごく軽い入門書的なものある。

雑誌連載の短い文章と、短めの3つの対談記事をまとめたもので、現代のフェミニズムに関する項目をひととおり押さえているのだから、個々の内容が薄いのは、まあ仕方がない。
だが、本書が内容が、「薄い」だけではなく「軽い」のは、そうした「情報量」の問題ではなく、そもそも「著者の思考」が「浅い」からなのだ。

どういうことか。
著者の清水晶子は「フェミニズムの学者」である前に、「フェミニズムの運動家」だからである。
そのため、「運動」に役立たないような「深い思考」など、初手から、する気がないのである。

「フェミニズム」という「党派理論(イデオロギー)」については詳しく「研究」して知ってはいるのだろうが、「フェミニズム」を相対視する視点を、そもそも持っていない。
自身の奉ずる「教義」には、学者的に詳しくても、「教義」そのものを批判的に検討するような視点は、いっさい持っていないのである。

喩えばこれは、キリスト教神学者」と同じだと言えば、比較的わかりやすいだろうか。

キリスト教神学者というのも、世間では一応のところ「学者のうち」ということになっている。
けれども、彼らの研究は「神は存在する」というのを大前提とした「学問」であり「研究」でしかなく、「神は存在しないかもしれない」とか「いるかいないかを、ハッキリさせよう」などとは、決して考えないのだ。

彼らは「神は存在し、そして絶対的に正しい」というのを、疑い得ない(疑ってはならない)「自明の前提」として、そんな「無謬の神」なるものを、研究しているのである。
当然、非キリスト教徒からすれば、そんなもの(無謬の神など)「いるわけもない」のだから、「とにかく信じろ」と言われても、迷惑なだけなのだ。

したがって、そんな「研究」でさえ、一般には「学問」と呼ばれてはいても、所詮、その本質は「戯論」でしかないわけなのだが一一、清水晶子の「フェミニズム」も、これとまったく同じこと(信仰的なイデオロギー)なのである。

『はじめに

「フェミニズムってなんですか?」
 この問いに答えるひとつのやり方は、それを「フェミニズムは何をするのか」というかたちに置きなおすことです。なぜならフェミニズムは、何よりもまず、変革を志向し生みだす力だからです。すべてが現状のまま、何もしなくても良いのであれば、フェミニズムは必要ありません。フェミニズムにとって重要な問いは、フェミニズムが「何であるのか」よりもむしろ、フェミニズムが「何をするか」なのです。
 それではフェミニズムは、何をするのか。何を変えるのか。
 フェミニズムは、女性が女性であることによって差別や抑圧を受ける社会、女性たちの尊厳や権利や安全を軽んじる文化を変革し、女性たちの生の可能性を広げようとします。』(P3)

一読一見「もっともらしい」から、説得されてしまった人も、少なくないだろう。「Amazonカスタマーレビュー」に、本書のレビューを寄せているレビュアーの多くも、そのほとんどが(現代フェミニズムの実態に無知なため、あっさりと)説得されてしまったクチだ。

だが、私に言わせれば、そういう人は、「宗教の集会に誘われてついていき、いい話を聞かされて入信してしまった人」や「悪質商法の会場に行って、まんまと羽毛布団なんかを売りつけられた人」と大差のない、ナイーブな人だということになる。
つまり、この「裏も表もある現実社会」に対する、知恵も警戒心も足りない人たちなのだ。

まず、上に引用した部分で、考えなければならないのは、何よりも「行動が第一」とされている点で、著者・清水晶子の「フェミニズム」が、そもそも「学問ではない」という事実である。

もちろん「学問」が、現実社会において「役に立つ」のは好ましいことだが、それは「結果」であって「目的」ではない。
なぜなら、「学問」というのは、世の中のあらゆることについて「学び問う」ことであって、「信じる」ことではないからである。

そう。簡単に「信じる」のではなく、「それは本当に確かな事実なのか。根拠のある話なのか?」と疑い、その「対象」に関しての事実関係を「学び(情報収集)」、それを「問う(検証する)」のが「学問」なのだ。

そして、その結果として「これは、信じるに値する話だ」とか「この話は鵜呑みにできないものだ」というふうにして、その「研究成果」を世間に還元し、役立ててもらうというのが、「学問」の役目なのである。
言い換えれば、「信じるべき、自明の理想」から話を始めるようなものは、「学問」の名には値しない、良くて「イデオロギー」、悪くすれば「ペテン」なのである。

例えば、『フェミニズムは、何よりもまず、変革を志向し生みだす力』だと清水晶子は言うが、「何を、どのように変革する、どのような力なのか?」ということが、先に「問われなければならない」だろう。
そうでなければ、「変革の必要がないものを、無理やりにでも変革しようとしてしまう」かもしれないし、「振るうべきではない力を、正義の鉄槌のつもりで振るってしまう」かもしれない。

具体例を挙げれば、「安倍晋三元総理殺害事件」の犯人も、当人としては「変革を求めて、止むに止まれず、暴力を行使した」のであり、それは彼にとっては「正義」だったのである。
そして、こうした「正義」は、「反体制的なイデオロギー」として、世界中に無限に存在しているのだ。
だから、それを、自分の「好み」に合わせて選び、あとはそれを盲信して実践すれば、それで良い、というようなものではないのである。

また、清水は『すべてが現状のまま、何もしなくても良いのであれば、フェミニズムは必要ありません。』と言う。
無論、この世の中は『すべてが現状のまま、何もしなくても良い』わけではないのは当然なのだが、それを変える「力」や「思想」は、何も「フェミニズム」である必要はない、とも言えるし、「フェミニズム」がベストだという保証もない。
世の中には、様々なイデオロギーがあり、方法論があるのだから、そのどれを選択するのが適切なのか、まずはそれを考えるのが先決なのだ。

だが、清水晶子の「フェミニズム」は、「行動第一」で、「フェミニズムとは何なのか?」と考え、その実態を見定めるのは後回しだと、そう言うのだから、危なっかしくてしょうがない。
「ひとまず、自分なりの理想を目指して、猪突猛進しましたが、結果としては間違ってました。でも、謝罪はしません」では、困るのである。

では、そんな「フェミニズム」が、具体的に何をしようとしているのかというと、清水によると『フェミニズムは、女性が女性であることによって差別や抑圧を受ける社会、女性たちの尊厳や権利や安全を軽んじる文化を変革し、女性たちの生の可能性を広げようとします。』とのこと。

これも、いかにももっともらしくはあるのだが、しかし『差別や抑圧』を受けているのは、何も『女性』だけとは限らないのに、どうして、女性に対するそれだけに「限定」するのだろうか?
女性に関する問題を、偏重し重視する「根拠」は、一体どこにあるのだろうか?
「フェミニズムを奉じるフェミニストになれば、女性のことだけを問題にしておれば、それでいい」というような「特権」でも与えられると、そう思っているのだろうか?
それとも「自分たちが女性だから、自分たちの取り分を拡大したい」だけなのか?

そうではないとしたら、「女性差別」という世界規模に壮大で根源的で、そのために、いささか「抽象的」な問題を語る前に、日本人の一人として、どうして「部落差別問題」「在日差別問題」「沖縄米軍基地問題」といった、自身の無作為による「加害者性」が問われることになる問題には、関わろうとしないのか?

やっぱりそれは、自分が「被害者の立場」で関われる問題でないと、「損だから」ということなのだろうか?

こう言うと、清水なら「交差性(インターセクショナリティ)」という言葉を持ち出して、「いいえ。私たちは、女性の権利だけではなく、人種・ジェンダー・階級などにおいて、周縁化された各種のアイデンティティについて、交差的に同時に配慮しています」とでも言うのかもしれないが、「フェミニズム」における「交差性」というのは、どうしてそういう全世界通有の「アイデンティティ」の話ばかりが前面に出て、日本ではずっと以前から問題になっているし、日本人として決して「他人事」ではない、「部落差別問題」や「在日差別問題」や「沖縄米軍基地問題」といった、生々しい話の方は、いっこうに出てこないのだろうか?

それは「フェミニズム」が「輸入学問」であり、その「権威」に忠実であることが「専門家としての権威」を保証するものだとでも思っているため、その「専門」から離れたくないと、そう思っているから、なのだろうか?
だとしたら、それこそが、よほど「現実を見ない、権威主義的で差別的な態度」であり、所詮は「輸入思想」を崇める「その代理人司祭」でしかない、ということにはならないのか?

しかし、それ以上に、結局は、自分の利得しか考えていないし、運動のヘゲモニーを握るためには、フェミニズムの言葉で語ることが是非とも必要だから、そればかりを強調してありがたがり、もっぱらその「功徳効用」を説く、ということでしかないのではないのか?

しかし、このように問うたところで、清水晶子からの「応答はない」に「決まっている」。そう、ここで断じても良い。
お仲間の北村紗衣にも、何度となく同様に問うたのだが、問えば問うほど黙ってしまうのが、彼女らの常なのだ。

それに、清水晶子は、東大の同僚である三浦俊彦の反論」を5年間黙殺したままにし、「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」問題についても、北村紗衣らと口裏を合わせて沈黙を守り、「ノーディベート」によって「無かったことにしよう」とするような「政治的」な人なんだから、今更、こんな「痛いところを突く」質問になど、馬鹿正直に応じたりするはずがない。

自分の方から批判した相手である三浦俊彦から反論されてさえ、無視黙殺の「ノーディベート」を貫く清水晶子が、私のような無名の人間からの批判を、相手にするわけがない。

まして、お仲間の北村紗衣が、私にちょっかいを出したばっかりに、コテンパンに批判されているという現状を少しでも知っていたなら、「触らぬ神に祟りなし」だと考えるのは、むしろ当然のことなのだ。

そんなわけで、清水晶子は本書で語っているのは、所詮、「いまどきのフェミニズム」の現実をみずから無視した、自己賛美的な「党派イデオロギー」に過ぎない。

「限られた社会的リソース」を、さも無限のものであるかのように偽ったうえで「もっと自分たちに寄越せ」と、そう言っているに過ぎない。
自分たちが分捕っても、それで取り分の減る人などどこにも出ないかのような、嘘っぱちの綺麗事を並べて、頭の悪い人たちを扇動しているだけなのだ。

その良い例が、敵対する「反トランスジェンダリズム派」に対する、次のような「自覚的なデマ(嘘)」である。

『まずそもそも、トランス女性を集団として、最初から性暴力の加害者(あるいは加害候補者)とみなすこと、トランス女性への正しい認識がないまま、偏見に基づいて議論が進むこと、それ自体に大きな問題があります。』(P 236)

ここで清水晶子は、肉体は男性のままである「トランス女性」が、女風呂や女子トイレに入ってくることの恐怖を訴える「反トランス派」が、さも、トランス女性が全員、そういう「加害者」であるかのように言っている、かのように語っているが、さすがに「反トランス派」だって、そんな無茶は言っていない。

彼らが言っているのは、外国での先例が示すとおり、トランス女性が法的な女性だとされ、そうした女性専用スペースへの立ち入りを認められれば、100人1000人に1人の不心得者の「自覚的な犯罪者」も、おのずと出ることになると、そう言って怖れているだけなのだ。その1人が恐ろしいし、1人だからと仕方ないとは考えられないのだと。

つまり、清水晶子はここで、故意に「嘘」をついて、「反トランス派」を「無知で偏見に凝り固まった輩」に見せようと、印象操作しているのである。

こんな具合だから、建前として語られる「差別のない世の中を目指すべきだ」という御託宣は、一見なるほどごもっともではあれ、清水晶子の言うことは、そもそも信用ならない。

しかも、「差別のない世界を目指す」こと自体に異論はないが、問題はそれを実現する「具体的な方法」の選別なのだ。

それなのに、その「方法」の検討選別をすっ飛ばして、「われわれのフェミニズムが、もっとも適切なものだ」と決めつけてかかり、それを採用させるためなら、清水晶子のように、「嘘」をついて他者(競争相手)を貶め、事情に詳しくない人々をそれでを騙すことだって、かまいはしないと、そういう態度なのである。

つまり、清水晶子らの「いまどきのフェミニスト」は、自らは考えることを放棄して、その「信仰」に邁進しているだけであり、他者に対しても、「盲信」を求めているだけなのである。

つまり本書は、「フェミニズム入門書」という名の、「宗教的なイデオロギーの布教書」でしかないのである。

清水晶子の場合、北村紗衣とは違って、言葉は柔らかいし、聞こえの良いことしか言わない。
「人の意見にも耳を傾けなければならない」とか「議論が必要だ」とか「真理は一つではない」とかいった、一見「謙虚そう」なことを、たびたび口にする。

(最近は影を潜めた「北村紗衣」節。どうしたんだ、さえぼう!)

だが、よく読めば、いつでも結論は「だからこそフェミニズムが重要だ」という「党派的な自己賛美」のみで、「どうして、それ以外の考え方ではいけないのか」といった肝心の部分については、何も具体的には語っていない。要は、そもそも「議論する気など無い」のである。

ちなみに、本書に収録された3つの対談のうち、巻末に収録された、芥川賞作家・李琴峰との対談が、なかなか面白い
というのも、李琴峰が、トランシジェンダー問題」にかかわる「フェミニズム内部での、対話不能の対立(内ゲバ)」問題について、清水晶子をも含む「トランスジェンダリズム推進派」の立場からも、決して無視し得ない問題提起をしているからだ。

だが、清水の方は、極めて老獪に「そうですね、そうですね。難しい問題です」と、謙虚そうに、李琴峰の問題提起を、体良くイナすばかり。
つまりこのあたりが、「いまどきのフェミニズム」の「したたかな実態」を知るうえで、かなり興味深いものなので、少し長くはなるが、中略は無しで、3つに区切って引用し、それに注釈(ツッコミ)を加えておこう。

SNSを変貌させた「共感で繋がる集団」の危うさ。
  SNSでは自分と似た意見を持つ人が集まり、その中でお互いに共感が共感を呼び、異なる見解を持つ人をいっさい受け付けない集団がいくつもできているように思います。共感でつながる集団の中にいると、とても居心地が良いのだけれど、ときとして集団の外にいる人たちを暴力的に排除したり攻撃したりすることがあります。
『生を祝う』(※ 「人工妊娠中絶」問題を扱った、李のSF的な長編小説)の中で、お腹にいる子ども(※ 胎児)から、生まれることを拒否される(※ ことで、法的にも出産を認めらなかった)という経験をした人たちが、(※ 物語の中での、胎児と親との)合意出生制度に反対する天愛会という集団に入ってテロを行うという話を書きました。(※  こうした出産や人工妊娠中絶の問題に限らず)同じ経験といっても状況や身体感覚はみんな少しずつ違っているし、他人の経験にまるごと共感できるわけではない。でもその(※ 特定の立場に立つ)集団の中に入ると、自分の経験とはそこがちょっと違う、あなたの言っていることに私は全面的に共感できないというようなことは言えなくなってしまう。
 自分に共感してくれる人たちの中にうまく溶け込んでいければとても居心地が良いんですけれど、一方で人々を結びつけているのは(※ 意見の相違を無視した)共感だけという集団は危ういと私は思います。SNSの弱点はそこにあると私は見ています。
 清水 共感を呼びやすい意見というのは、よく言えば抽象化されていて、悪く言えば単純化されていることが多いと思うんですね。「だいたいこういう方向で考えるとして、でもこの部分はちょっと悩むなあ」というような逡巡や違和感を削ぎ落として、一番明快で強いところだけを出していくと、SNSでは共感が得やすい。微妙なニュアンスを落として単純化された意見や感覚の周辺に、なんとなく居心地の良い共感が醸成されるんですよね。でも私、居心地の良さっていうのは、結構ダメじゃないかと思うんです。
  居心地の良いのはダメですか?(笑)
 清水 いや、私自身、居心地が悪いと逃げ出したりしがちではあるのですが。でも、例えば李さんの『彼岸花が咲く島』『生を祝う』も、どちらの結末も明快な解決が提示されて気持ちよく終わるわけではないですよね。むしろ、ある意味すっきりと全部が片付くのではない居心地の悪さを残している。答えがきれいに出たりはしないけど、とりあえず今はその答えの出なさみたいなものを抱えて生きていくしかない、というところで終わっていると思うんです。
 李さんのお話をうかがっていて、そういう居心地の悪さを性急に切り捨ててはいけないということなのかな、と思いました。色々と単純化して切り捨てて同質的な存在同士でまとまる居心地の良さを求めるのではなく、雑音や違和感や異分子が多くて居心地が悪いかもしれない、というところで踏みとどまることが必要なのではないか。私もつい居心地のよい方へと流れてしまいがちなので、どうやったら踏みとどまれるのか、踏みとどまるためにはどんな要素が必要なのかなと考えているのですが、まだよくわからない。』(P238〜240)

清水晶子は本書で、「2010年」ごろに始まると考えられている「フェミニズム第4波」の特徴のひとつを、「インターネット利用による連帯の拡大」と説明をしているのだが、李琴峰のここでの問題提起は、まさにそのあたりでの問題点を指摘したものだと言えるだろう(北村紗衣の取り巻きミーハーファンなどもこの類で、北村の本でフェミニズムを知った気でいるのだ)。

平たく言えば、「ツイフェミ」と呼ばれて批判されることのある「フェミニズム第4波」の運動には、「党派における居心地の良さ」と、その難点としての「思考停止」と「ノーディベート」という「独善」への傾きがあると、ここでは、そう指摘されているのだ。

そして、言うまでもなくこれは、先の、

「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」

「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」

などとも関わってくる話なのだが、李の指摘に対して、清水晶子は、まるで「他人事」のように、

『共感を呼びやすい意見というのは、よく言えば抽象化されていて、悪く言えば単純化されていることが多いと思うんですね。「だいたいこういう方向で考えるとして、でもこの部分はちょっと悩むなあ」というような逡巡や違和感を削ぎ落として、一番明快で強いところだけを出していくと、SNSでは共感が得やすい。微妙なニュアンスを落として単純化された意見や感覚の周辺に、なんとなく居心地の良い共感が醸成されるんですよね。でも私、居心地の良さっていうのは、結構ダメじゃないかと思うんです。』

と、自分たちのそんな「ダメ」さは完全に棚上げにして、臆面もなく、ご立派な「分析」を宣うのである。

しかし、ここからわかるのは、こう「他人事」のように分析している清水自身が、実は『共感を呼びやすい意見というのは、よく言えば抽象化されていて、悪く言えば単純化されていることが多い』という認識を持ち、そのうえで『「だいたいこういう方向で考えるとして、でもこの部分はちょっと悩むなあ」というような逡巡や違和感を削ぎ落として、一番明快で強いところだけを出していくと、SNSでは共感が得やすい。微妙なニュアンスを落として単純化された意見』を、自覚的に製造し、駆使している「運動家」なのだろう、ということである。

また、それでいて、臆面もなく『私、居心地の良さっていうのは、結構ダメじゃないかと思うんです。』とか『居心地の悪さを性急に切り捨ててはいけないということなのかな、と思いました。』などと、反省する気もないくせをして、こんなふうに「殊勝そう」に言うのだから、清水晶子は、とんでもない「タヌキ」なのである。

「居心地の悪い場に踏みとどまる」
  居心地が悪いところに踏みとどまれるのは、その場を受け入れる余裕があるということで、それはとてもむずかしいと思います。踏みとどまるための要素として私が考えるのは、複数の視点を持って、物事を一歩引いた視点から眺める能力が必要なのではないか、ということです。いろいろな考え方、感じ方をする人がいることを受け入れて、多様な意見があることを認めることで、居心地の悪い場にも踏みとどまれるのかもしれない。でもそれはとてもむずかしいことです。
 清水 マイノリティ一一女性であることも含め、セクシュアルマイノリティ、人種マイノリティなど一一は、ある意味では最初から居心地の悪い場にいて、居心地の悪さを調整しながら生きていかなくてはならないわけですよね。だからこそ居心地の良いところにいたい、という気持ちになることもあると思います。
 それに、常に一人でがんばって身体を張って居心地の悪いところに踏みとどまる必要があるかというと、そういうことでもない。とりわけマイノリティにとっては、居心地の悪さに負けないことも力だけれども、居心地の悪さから逃げ出して生き延びるのが重要なことも多いわけです。
  踏みとどまるためにはすごくいろいろな条件が整っていなければならないですね。
 清水 はい。ただ、比較的恵まれている人たち、居心地の悪さが自分の生を危うくするわけではない人たちは、その居心地の悪さに踏みとどまろうとすべきだと思いますし、同時に、私たちはどうやって居心地の悪さに踏みとどまれるのか、その条件について考えるべきだと思うんですよね。
 どういう社会的な背景や支えがあれば踏みとどまれるのか。それは経済的保障なのかもしれないし、社会的安定なのかもしれない。それ以外の何かなのかもしれないし。私も答えを持っているわけではないのですが、そこを考えていかないと、居心地の良さを邪魔する分子とみなされるマイノリティの生きる幅はどんどん狭くされかねない。』(P241〜242)

ここで李琴峰が言っているのは、「党派に回収されることなく、独り立つための精神的な強さの重要性」ということであるし、当然それは「誰にでも可能なほど、簡単なものではない」という話だ。

そして、これに対する応答には、清水晶子の「本音」が、比較的よく現れている。
要は、「強い精神性を持つことは容易ではないから、社会的弱者である女性は、やはり連帯する(徒党を組む)ことが必要だ。いずれ独り立つにしても、まずは社会の方で、物理的な条件を整えてもらわないと無理」という話である。

つまり、結局は「精神的な弱さは仕方ないから、それを社会の側で、物理的に補完しろ」という話であり、結局は「居心地の良い場」にどっぷり浸かって「群れ」てしまうことを、たぶん「政治的な方法論」から、擁護肯定しているのである。

だが、これでは「他者の意見に耳を傾けられなくても、仕方ないでしょ」と言っているも同然なのだ。

つまりここでも、李琴峰の問題意識は、体よく「はぐらかされている」のである。

表現の自由をフェミニズムはどう捉えるか。
  最後にもう一つお聞きしたいことがあって。これもまたSNSで論争されていることですが、ネット上のポルノにおける女性の表象と、それを規制することの是非についてです。
 私も表現者の一人として表現の自由を大事にしたいと考える一方、固定観念化された女性の表象が、大量生産されて出回ることによって社会に与える影響があり、その影響は必ずしもポジティブではないと思うのです。その二つのせめぎあいで私はいつもとても悩むので、清水先生の見解を伺えればと思います。
 清水 基本的に、SNSでのこの問題に関する議論は有益な議論にならないと思っています(※ だから、そんなのは無視して、専門家だけで、議論と実務的な対応を粛々と進めるべき)。そもそも、表現に対する批判と、表現の自由を脅かす法的・政治的な規制とは異なるものなのに、その両者をほとんど同一視する見解がいつまでも出回っていたりする。
 表現を評価するにあたっても、例えば製作側の意図はどうなのか、特定の表現がどう使用/利用されるのか、あるいはより広い文化的な背景においてどのようなメッセージを発し、どのような効果を持つのか、など、色々な観点があるはずで、それらを踏まえて、特定のイメージ群に大きな問題がある場合に社会としてそれにどのように対応すべきか、の議論がされなくてはならない。
 それなのに、(※ ネット上の議論などでは)例えば「ポルノだから悪い」「いや、ポルノは悪くない」という形で「用途」だけを取り上げられ(※ いかにも素人っぽく、雑に)論じられてしまう。その結果、用途が悪いから全面的に法的規制すべきだ、いや用途に問題はないから一切規制すべきではない、みたいな対立が作られて、表現をめぐる他の多くの論点が隠されてしまう、という事態が多い気がします。
  確かに、「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは全く違うことなのに、SNSでは両者を同一視する泥仕合をよく見かけます。
結局、SNSは建設的な議論に向いていない、という話になりますよね(※ 専門家、有識者の議論とは違って)……。(※ 「表象文化論」の有識者である)清水先生ご自身は表現の自由そのものについてはどのようにお考えですか?
 清水 私は、表現の自由は守られるべきだと考えています。それは重要な基本です。ただ、特定の人々の生存を脅かしかねない表現一一ポルノの一部やヘイトスピーチも含めて一一を、「表現の自由」を盾にして、無批判に流通させるべきではない、とも考えます。とはいえ、ある特定の集団が差別的であると批判してきた表現が、後になって同じ集団から再評価されることもあることは、覚えておく必要があります。
 ポルノもそうですが、映画などでの女性の表象についても、女性たち、フェミニストたちが女性嫌悪的、差別的だとして批判してきた表現に別の女性たちはエンパワーされてきたとか、後の世代のフェミニストたちが別のポジティブな意味を読み取ったとか、そういう例はいくらでもありますよね。そういう話を私はすごくおもしろいと思うし、固定観念化された差別的な表を批判するのもとても重要だけれど、個別の表現作品にそのような決まりきった差別的なものとは異なるメッセージを読み取れるなら、それを見出していくことも同じように重要だと思っています。
  逆もまた然りで、ある時代において持てはやされる表現でも、後の時代になって振り返ると「遅れている」「差別的」に感じられることがままあります(※ つまり、同時代なはもっともらしい見解も、必ずしも信用はならない)。そこが難しいところですね。また、特定の属性を背負っているある人からは「差別的」に見える表現でも、同じ属性を背負っている他の人から見て必ずしもそうではない、ということもよくあります(※ つまり、真理は多面的である)。
 だからこそ対話が必要なのではないかと思います。「ここのこんな表現はこんな差別を助長しかねないと思う」「そうかな、でも例えばこんな見方もあるんじゃないかな」みたいな対話を積み重ねていくと、表現自体も磨かれていくのではないでしょうか。』(P242〜245)

ここでも清水の言い方は、多分にペテンなのだが、李琴峰は、まんまとそれに乗せられてしまっている。
どの部分かというと、

『「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは全く違うこと』

というところだ。

たしかに、「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは「別問題」なのだが、しかし現実には、決して「批判して終わり(後は当人の自覚に任せる)」という話では終わらず、結局は「法的に規制するかしないか」という話になるのだ。しかもそれは、政府御用達の「有識者」の意見だけが、せいぜい参考にされて。

それに、なにしろ清水自身、最初から認めているとおりで、そもそも「フェミニズム」は「社会変革のため」に存在するものなのだから、「議論のための議論」になど、三文の価値も置いてはいないのだ。

したがって、「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは「別問題」ではあっても、必然的に繋がってくるものなのである。

また「それは、良いことか悪いことか」の議論が、そのまま「それは、法規制すべきことかすべきではないことか」という、現実的な結果に帰結するのだから、その前提で話をしないわけにはいかない、ということになる。
「悪い」と認めた瞬間、「では法規制しますね。ご依存はないでしょ、当然」ということになってしまう(されてしまう)ということである。

そしてこれが、清水晶子北村紗衣らに典型される、「今どきのフェミニズム」の「本性」であり「やり方」なのだ。
だから、それを甘く見て、安易に「遠慮」や「妥協」などすれば、そこにつけ込まれるだけなのである。

ちなみに、この対談が行われた「2022年」の段階では「党派対立の泥試合ではなく、対話を」と求め「作家として言葉に賭けたい」と言っていた李琴峰も、その後は清水晶子らの「フェミニズム」に感化されたのか、今では、「言葉」ではなく「行動」を、「対話」ではなく「実力行使」をという感じに、残念ながら変わってしまったようだ。

ちなみに、先の「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の「Wikipedia」では「関係者の氏名等が、すべて伏せられている」と紹介したが、「Wikipedia」の「李琴峰」の項目では、李自身に関わるトラブル関係者の名前が、ズラリと列挙されている。

誹謗中傷被害
芥川賞受賞後、SNSで苛烈な誹謗中傷被害を受け、何人かの加害者に対して提訴した。2023年、台湾・台北市在住の40代男性が懲役4か月の有罪判決を受けた。2024年7月、埼玉県川越市在住の60代女性・伊東麻紀(本名:小泉知子)に16万5千円の賠償命令が下りた。

アウティング被害
2024年11月20日「トランスジェンダー追悼の日」に声明を発表し、台湾や日本のトランスヘイターによる度重なるアウティング被害を受けたため、トランスジェンダーであることをカミングアウトせざるを得ない状況に追い込まれたと表明した。声明では複数の加害者を名指し、「アウティングをされ、爪剥ぎの拷問のように選択肢が目の前から一つひとつ奪い去られ、精神的にも肉体的にもじわじわ追い詰められ、気づけば、カミングアウトという選択肢しか残されていない、そんな状況です」「カミングアウトは私の自由意志ではありません。加害者の憎悪犯罪の結果です」などと綴った。

朝日新聞の取材では、「私は女性でありレズビアン。トランスジェンダーという属性は、私にとって自分の本質ではない。本当は公表などしたくなかったが、アウティングは当事者を死に追いやることもある深刻な人権侵害だと知ってほしい」「性的マイノリティーとして抑圧や差別を受けてきた私が、小説家になるという夢をかなえ、生き延びている。アウティング被害の末のカミングアウトとはいえ、私の存在が誰かの希望になれたら」と語っている。

前述の声明で告発された「加害者」は、以下の通りである。

江祥綾 - 台湾・桃園市亀山区在住、30代。女性かつノンバイナリーを自称。「翔翔、Shawl、孤行雪」など多数のハンドルネームを使用。最初に日本語圏でアウティング加害を行った人物と見られ、李琴峰を二年半にわたり人身攻撃を続けた。
伊東麻紀 - 元SFライター。本名は小泉知子。前述の通り誹謗中傷で提訴され、賠償命令が下りた。
滝本太郎 - 神奈川県弁護士会所属の弁護士。
森奈津子 - 小説家。
斉藤佳苗 - 医者。ただし、これは偽名と見られる。
栗原裕一郎 - 文芸評論家。
Jaclynn Joyce - ハワイ出身の反トランス活動家。台湾の銘伝大学で英語教師を務める。中国語名は「賈桂琳」。
Genevieve Gluck - アメリカ出身の反トランス活動家。』

(Wikipedia「李琴峰」

見ての通り、この「Wiki記事」では、李琴峰が提訴した誹謗中傷裁判で敗訴した被告の名前だけではなく、李の「声明」の中で「加害者」だとされているだけの人物についても、名前がズラッと並んでいる。

ちなみに、ここに挙げられた名前には、下で紹介した本の著者や寄稿者が少なくない。

・斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』(鹿砦社)

・女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会編『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』(鹿砦社)

ともあれ、「Wikipedia」が、ここまでやれるのならば、なぜ、同じことが「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の項目でもやらなかったのか?
「オープンレター」の方は、どうして、ああも腰の引けたものになったのかと、その「不自然」が、おのずと問われざるを得ないのである。

(Wikipedia「李琴峰」の項目編集に、北村紗衣は関わっている)

当然、こうした「不自然で矛盾した対応」には、裏で、北村紗衣が、ウィキペディアンとして立場と権利を濫用して、「Wikipedia」を私的目的において操作してたのではないかと、そう疑う方が、むしろ自然なのである。
なにしろ北村紗衣は、Twitter(現「X」)上での私的な論争において、「ファンネル・オフェンス」を助勢として使役することを恥じない、「手段を選ばない人間」だからだ。

「北村紗衣vs須藤にわか」のTwitter上での論争において、北村紗衣側から湧いて出た「フェンネル・オフェンス」。北村紗衣は、これを黙認して利用した)

ともあれ、北村紗衣にしろ、清水晶子にしろ、彼女ら「いまどきのフェミニズム運動家」は、臆面もなく、心にもない「タテマエ」としての「嘘」を平気で行使している、というくらいの「現実」は、心したうえで、その話に耳を傾けるべきなのだ。それが「大人の知恵」というものなのである。

彼女たちは、彼女らなりの「理想」を実現するための「社会変革」を目指す、運動家なのだ。
だから、「目的は手段を正当化する」で、「嘘」をつくくらいのことは、その「大義」の前には「ゆるされて(容認され正当化されて)当然のもの」としか考えない。

「確信犯」たちの「信念における犯行」を甘く見るのは、もはや「世間知らず」の証拠でしかないのである。


(2024年12月18日)


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