北村紗衣の代表的な盟友 : 清水晶子 『フェミニズムってなんですか?』
書評:清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(集英社新書・2022年)
フェミニズムを専門とする、東京大学の生え抜き教授である。
しかし、わたし的に興味深いのは、清水が、我らが北村紗衣(武蔵大学教授)と同じく「表象文化論研究者」で、学士と修士は「英米文学」で取得しているおり、この点でも「シェイクスピア研究者」である北村紗衣と同様だといった、その「共通点」の多さである。北村紗衣も「東京大学」出身だ。
年齢的には、北村紗衣がひと回り下で、清水の講義を受けたのかどうかまでは知らないが、面識があるというのは、まず間違いない。なにしろ「東大で、フェミニズムで、表象文化論で、英米文学専攻」。しかも今では、大学は違えど、同じ「大学教授」なのだから、知らないはずなどないだろう。
それに、実際二人は、北村紗衣への「陰口」問題で、歴史学者・呉座勇一を名指しにした「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」(2021年)の発起人(2022年1月30日現在の16人)として、共に名を連ねた仲、なのである。
それだけではない。この二人は、
(1)「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」(2019年5月)
なるものにも名を連ねているのだから、先の「オープンレター」以前からの知り合いだと見て、間違いないだろう。
ちなみに、北村紗衣は東大の教員であったことはないので、「東大出身の教員」という立場で名を連ねている。こちらのメンバーは、次のとおりだ。
この「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」というのは、次のようなものである。
その三浦俊彦による応答文が、同稿で紹介されている、
(2)「三浦俊彦教授による「東京大学関係教員有志声明」への応答」(2019年6月)
である。
上に続けて、井上は、次のようにそのおおまかな内容と経緯を紹介している。
上に引用文では省略しているが、この井上文の冒頭は、
となっている。
つまり、清水晶子や北村紗衣など(のちに呉座勇一を「キャンセル」した「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」とも、少なからず重複する、三浦俊彦批判声明のメンバーたち)は、自分たちの方から積極的に批判した相手である、三浦俊彦からの「応答としての反論」があったにもかかわらず、これに対して応答することをせず、無責任な「言いっ放し」で誤魔化したままでいる、という点である。
ちなみに、上の井上文が掲載された『LGBT異論』の刊行は、本年「2024年」だから、清水晶子や北村紗衣らは、自分たちが公然と三浦を批判したそのわずか1ヶ月後には、三浦から公式に「反論」がなされているのもかかわらず、それへの「反論」も「謝罪」もしないまま、すでに5年が経過してしまっているのだ。
これでは、言論人としての「発言責任」を放棄した「ノーディベート」による「逃げ」だと、そう非難されても、抗弁の余地はない。
したがって、清水晶子や北村紗衣らの「沈黙」が意味するのは、内心で自分たちの三浦批判こそが、「誤読」による不適切な勇み足であったことに気づきながら、自身の対面を保つためだけに、すべき謝罪をせずに逃げた、ということにしかならないである。
しかし、さらに問題なのは、この「批判しっぱなし」の3年後には、またもや懲りもせずに、くだんの「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」を公開し、さらにはそれが、呉座の職を奪う結果となったのを、世間から「やりすぎのキャンセルだ」と批判されるようになると、途端に、オープンレターは公開後1年で「その使命を終えた」として、その内容(主張・発起人・署名者などの、タイトル以外のすべて)を「抹消」して、「証拠隠滅」してしまった、という「無反省と、その学習能力の無さ」であろう。
なお、見てのとおり上の「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」のサイトには、
とあるだけなのだが、しかし、この『今後については詳細が決まり次第このサイト上でお知らせいたします。』という「約束」さえ、果たされていないようなのだ。
つまり、「反論・批判には応じず、賛同者も放置したまま」の「ダンマリ」による「逃げ」だということになるのである。
また、北村紗衣は、「Wikipedia日本語版」の運営に関わるウィキペディアンとしても知られる人物だが、その「Wikipedia」では、この「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の項目については、「オープンレター」では検索に引っかからない「女性差別的な文化を脱するために」というタイトルのみでの登録となっている。
たしかに、本文の中には、イヤでも「オープンレター」と書かれてはいるが、当然、本文中のワードは「表題」とは違い、検索には引っかからないのだ。
しかも、驚くことに、このwiki記事「女性差別的な文化を脱するために」は、「関係者の名前が一切記載されていない」という、じつに奇妙なものとなっている。
なぜ、こんな「奇妙な内容」になったのか?
それはたぶん、この「オープンレター」のことを、北村紗衣らが、自分たちの「黒歴史」として、できれば隠したい、消し去りたいと考えたからだろう。
なぜなら、北村紗衣らは、すでに公式に「謝罪」していた呉座勇一に対し、さらに追い討ちをかける体で、この「オープンレター」を公開し、呉座を晒しものにしたのであり、それは署名者千数百名による、袋叩きの「公開処刑」とも呼ぶべきものであったからだ。
また、その結果、呉座が「職まで奪われた」という事実をして、世間から「死者を鞭打つような、悪質なキャンセル行為」だと非難され始めたから、そうした批判の高まりと否定的な評価の永続化を、北村紗衣たちは怖れたのであろう。
そこで北村紗衣が、この「オープンレター」を「無かった事にする」ために、あれこれ裏で画策したというのは、別方面からの当事者証言によって、裏づけられてもいる事実なのである。
・北村紗衣「オープンレターに言及するな」高橋雄一郎弁護士に(2022-01-17)
つまり、Wikipediaの「女性差別的な文化を脱するために」の項目に、関係者の名前がいっさい出てこないのは、ウィキペディアンである北村紗衣が、自身のその地位を濫用して、「記事内容から関係者名を抹消した」あるいは「最初から載せないように画策した」と、そう考えるのが至当であろう。
この「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」事件は、近年、問題視されるようになった、アメリカ発の「キャンセルカルチャー」に関して、今や日本における「代表的な事例」のひとつと呼んで良いものとなっている。
なにしろ、単に一般人(匿名大衆)が大騒ぎしたというのではなく、東大教授をはじめとした、大学教員や出版人が中心となって、その名を連ねた事例だからである。
そのため、この件について「Wikipedia」に記事を立てないというのは、いかにも不自然だ。
だから、嫌でも項目を立てないわけにはいかないのだが、では、どうすれば、なるべく目立たないようにできるのか。
そう思いあぐねた結果、「オープンレター事件」を、できれば無かったことにしたかった北村紗衣は、苦肉の策として「記事は立てるが、検索には引っかかりにくくし、さらに関係者の氏名は、すべて伏せる」という、言うなれば「次善の策」をやむなく選んだ。一一と、そういうことなのではないだろうか。
しかし、私のこうした解釈に対しては、「すでに解決している問題だから、これ以上のトラブルを避けるために、告発者名も被告発者名も、ともに伏せたのだ」と、そのような「言い訳」もありえよう。
しかし、他の「事件もの」の項目を見れば明らかなとおり、すでに解決した事件であっても「主たる関係者名」の記されるのが、「Wikipediaの当たり前」である。
そもそも、関係者名をすべて伏せてしまったら、「辞典」の役目を果たさないではないか。
例えば「ユダヤ人虐殺=ホロコースト」を説明するのに「ヒトラーほかナチス関係者」の名をいっさい出さないで、意味のある記事になるのか? 「吉則ちゃん誘拐殺人事件」の項目で、吉則ちゃんの名前を伏せることなどできないだろう、という話である。
要は、「公益に資するもの」として記事を立てる以上は、「いつ、どこで、誰が、誰に、何をした」というくらいの内容は、説明として是非とも必要な要素で、それが無いのは、不自然であり「おかしい(不審だ)」ということになるのである。
閑話休題。
そんなわけで、本書『フェミニズムとはなにか?』の著者である清水晶子は、「フェミニズム運動家」として、北村紗衣の「仲間」であると、そう呼んでも良いだろう。
なにしろ、『「東大で、フェミニズムで、表象文化論で、英米文学専攻」で、今では、大学は違えど、同じ「大学教授」』なのだし、
・「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」
の二つにも、仲良くその名を連ねているのだから、いまさら「知らぬ存ぜぬ」は許されない。
で、そんな清水晶子東大教授の書いた本書『フェミニズムってなんですか?』の内容はどうなのかというと、東大教授ではなくても、フェミニズム系のライターさんなら十分に書ける程度の、「フェミニズム」に関する、ごく軽い入門書的なものある。
雑誌連載の短い文章と、短めの3つの対談記事をまとめたもので、現代のフェミニズムに関する項目をひととおり押さえているのだから、個々の内容が薄いのは、まあ仕方がない。
だが、本書が内容が、「薄い」だけではなく「軽い」のは、そうした「情報量」の問題ではなく、そもそも「著者の思考」が「浅い」からなのだ。
どういうことか。
著者の清水晶子は「フェミニズムの学者」である前に、「フェミニズムの運動家」だからである。
そのため、「運動」に役立たないような「深い思考」など、初手から、する気がないのである。
「フェミニズム」という「党派理論(イデオロギー)」については詳しく「研究」して知ってはいるのだろうが、「フェミニズム」を相対視する視点を、そもそも持っていない。
自身の奉ずる「教義」には、学者的に詳しくても、「教義」そのものを批判的に検討するような視点は、いっさい持っていないのである。
喩えばこれは、「キリスト教神学者」と同じだと言えば、比較的わかりやすいだろうか。
キリスト教神学者というのも、世間では一応のところ「学者のうち」ということになっている。
けれども、彼らの研究は「神は存在する」というのを大前提とした「学問」であり「研究」でしかなく、「神は存在しないかもしれない」とか「いるかいないかを、ハッキリさせよう」などとは、決して考えないのだ。
彼らは「神は存在し、そして絶対的に正しい」というのを、疑い得ない(疑ってはならない)「自明の前提」として、そんな「無謬の神」なるものを、研究しているのである。
当然、非キリスト教徒からすれば、そんなもの(無謬の神など)「いるわけもない」のだから、「とにかく信じろ」と言われても、迷惑なだけなのだ。
したがって、そんな「研究」でさえ、一般には「学問」と呼ばれてはいても、所詮、その本質は「戯論」でしかないわけなのだが一一、清水晶子の「フェミニズム」も、これとまったく同じこと(信仰的なイデオロギー)なのである。
一読一見「もっともらしい」から、説得されてしまった人も、少なくないだろう。「Amazonカスタマーレビュー」に、本書のレビューを寄せているレビュアーの多くも、そのほとんどが(現代フェミニズムの実態に無知なため、あっさりと)説得されてしまったクチだ。
だが、私に言わせれば、そういう人は、「宗教の集会に誘われてついていき、いい話を聞かされて入信してしまった人」や「悪質商法の会場に行って、まんまと羽毛布団なんかを売りつけられた人」と大差のない、ナイーブな人だということになる。
つまり、この「裏も表もある現実社会」に対する、知恵も警戒心も足りない人たちなのだ。
まず、上に引用した部分で、考えなければならないのは、何よりも「行動が第一」とされている点で、著者・清水晶子の「フェミニズム」が、そもそも「学問ではない」という事実である。
もちろん「学問」が、現実社会において「役に立つ」のは好ましいことだが、それは「結果」であって「目的」ではない。
なぜなら、「学問」というのは、世の中のあらゆることについて「学び問う」ことであって、「信じる」ことではないからである。
そう。簡単に「信じる」のではなく、「それは本当に確かな事実なのか。根拠のある話なのか?」と疑い、その「対象」に関しての事実関係を「学び(情報収集)」、それを「問う(検証する)」のが「学問」なのだ。
そして、その結果として「これは、信じるに値する話だ」とか「この話は鵜呑みにできないものだ」というふうにして、その「研究成果」を世間に還元し、役立ててもらうというのが、「学問」の役目なのである。
言い換えれば、「信じるべき、自明の理想」から話を始めるようなものは、「学問」の名には値しない、良くて「イデオロギー」、悪くすれば「ペテン」なのである。
例えば、『フェミニズムは、何よりもまず、変革を志向し生みだす力』だと清水晶子は言うが、「何を、どのように変革する、どのような力なのか?」ということが、先に「問われなければならない」だろう。
そうでなければ、「変革の必要がないものを、無理やりにでも変革しようとしてしまう」かもしれないし、「振るうべきではない力を、正義の鉄槌のつもりで振るってしまう」かもしれない。
具体例を挙げれば、「安倍晋三元総理殺害事件」の犯人も、当人としては「変革を求めて、止むに止まれず、暴力を行使した」のであり、それは彼にとっては「正義」だったのである。
そして、こうした「正義」は、「反体制的なイデオロギー」として、世界中に無限に存在しているのだ。
だから、それを、自分の「好み」に合わせて選び、あとはそれを盲信して実践すれば、それで良い、というようなものではないのである。
また、清水は『すべてが現状のまま、何もしなくても良いのであれば、フェミニズムは必要ありません。』と言う。
無論、この世の中は『すべてが現状のまま、何もしなくても良い』わけではないのは当然なのだが、それを変える「力」や「思想」は、何も「フェミニズム」である必要はない、とも言えるし、「フェミニズム」がベストだという保証もない。
世の中には、様々なイデオロギーがあり、方法論があるのだから、そのどれを選択するのが適切なのか、まずはそれを考えるのが先決なのだ。
だが、清水晶子の「フェミニズム」は、「行動第一」で、「フェミニズムとは何なのか?」と考え、その実態を見定めるのは後回しだと、そう言うのだから、危なっかしくてしょうがない。
「ひとまず、自分なりの理想を目指して、猪突猛進しましたが、結果としては間違ってました。でも、謝罪はしません」では、困るのである。
では、そんな「フェミニズム」が、具体的に何をしようとしているのかというと、清水によると『フェミニズムは、女性が女性であることによって差別や抑圧を受ける社会、女性たちの尊厳や権利や安全を軽んじる文化を変革し、女性たちの生の可能性を広げようとします。』とのこと。
これも、いかにももっともらしくはあるのだが、しかし『差別や抑圧』を受けているのは、何も『女性』だけとは限らないのに、どうして、女性に対するそれだけに「限定」するのだろうか?
女性に関する問題を、偏重し重視する「根拠」は、一体どこにあるのだろうか?
「フェミニズムを奉じるフェミニストになれば、女性のことだけを問題にしておれば、それでいい」というような「特権」でも与えられると、そう思っているのだろうか?
それとも「自分たちが女性だから、自分たちの取り分を拡大したい」だけなのか?
そうではないとしたら、「女性差別」という世界規模に壮大で根源的で、そのために、いささか「抽象的」な問題を語る前に、日本人の一人として、どうして「部落差別問題」や「在日差別問題」や「沖縄米軍基地問題」といった、自身の無作為による「加害者性」が問われることになる問題には、関わろうとしないのか?
やっぱりそれは、自分が「被害者の立場」で関われる問題でないと、「損だから」ということなのだろうか?
こう言うと、清水なら「交差性(インターセクショナリティ)」という言葉を持ち出して、「いいえ。私たちは、女性の権利だけではなく、人種・ジェンダー・階級などにおいて、周縁化された各種のアイデンティティについて、交差的に同時に配慮しています」とでも言うのかもしれないが、「フェミニズム」における「交差性」というのは、どうしてそういう全世界通有の「アイデンティティ」の話ばかりが前面に出て、日本ではずっと以前から問題になっているし、日本人として決して「他人事」ではない、「部落差別問題」や「在日差別問題」や「沖縄米軍基地問題」といった、生々しい話の方は、いっこうに出てこないのだろうか?
それは「フェミニズム」が「輸入学問」であり、その「権威」に忠実であることが「専門家としての権威」を保証するものだとでも思っているため、その「専門」から離れたくないと、そう思っているから、なのだろうか?
だとしたら、それこそが、よほど「現実を見ない、権威主義的で差別的な態度」であり、所詮は「輸入思想」を崇める「その代理人司祭」でしかない、ということにはならないのか?
しかし、それ以上に、結局は、自分の利得しか考えていないし、運動のヘゲモニーを握るためには、フェミニズムの言葉で語ることが是非とも必要だから、そればかりを強調してありがたがり、もっぱらその「功徳効用」を説く、ということでしかないのではないのか?
しかし、このように問うたところで、清水晶子からの「応答はない」に「決まっている」。そう、ここで断じても良い。
お仲間の北村紗衣にも、何度となく同様に問うたのだが、問えば問うほど黙ってしまうのが、彼女らの常なのだ。
それに、清水晶子は、東大の同僚である「三浦俊彦の反論」を5年間黙殺したままにし、「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」問題についても、北村紗衣らと口裏を合わせて沈黙を守り、「ノーディベート」によって「無かったことにしよう」とするような「政治的」な人なんだから、今更、こんな「痛いところを突く」質問になど、馬鹿正直に応じたりするはずがない。
自分の方から批判した相手である三浦俊彦から反論されてさえ、無視黙殺の「ノーディベート」を貫く清水晶子が、私のような無名の人間からの批判を、相手にするわけがない。
まして、お仲間の北村紗衣が、私にちょっかいを出したばっかりに、コテンパンに批判されているという現状を少しでも知っていたなら、「触らぬ神に祟りなし」だと考えるのは、むしろ当然のことなのだ。
そんなわけで、清水晶子は本書で語っているのは、所詮、「いまどきのフェミニズム」の現実をみずから無視した、自己賛美的な「党派イデオロギー」に過ぎない。
「限られた社会的リソース」を、さも無限のものであるかのように偽ったうえで「もっと自分たちに寄越せ」と、そう言っているに過ぎない。
自分たちが分捕っても、それで取り分の減る人などどこにも出ないかのような、嘘っぱちの綺麗事を並べて、頭の悪い人たちを扇動しているだけなのだ。
その良い例が、敵対する「反トランスジェンダリズム派」に対する、次のような「自覚的なデマ(嘘)」である。
ここで清水晶子は、肉体は男性のままである「トランス女性」が、女風呂や女子トイレに入ってくることの恐怖を訴える「反トランス派」が、さも、トランス女性が全員、そういう「加害者」であるかのように言っている、かのように語っているが、さすがに「反トランス派」だって、そんな無茶は言っていない。
彼らが言っているのは、外国での先例が示すとおり、トランス女性が法的な女性だとされ、そうした女性専用スペースへの立ち入りを認められれば、100人1000人に1人の不心得者の「自覚的な犯罪者」も、おのずと出ることになると、そう言って怖れているだけなのだ。その1人が恐ろしいし、1人だからと仕方ないとは考えられないのだと。
つまり、清水晶子はここで、故意に「嘘」をついて、「反トランス派」を「無知で偏見に凝り固まった輩」に見せようと、印象操作しているのである。
こんな具合だから、建前として語られる「差別のない世の中を目指すべきだ」という御託宣は、一見なるほどごもっともではあれ、清水晶子の言うことは、そもそも信用ならない。
しかも、「差別のない世界を目指す」こと自体に異論はないが、問題はそれを実現する「具体的な方法」の選別なのだ。
それなのに、その「方法」の検討選別をすっ飛ばして、「われわれのフェミニズムが、もっとも適切なものだ」と決めつけてかかり、それを採用させるためなら、清水晶子のように、「嘘」をついて他者(競争相手)を貶め、事情に詳しくない人々をそれでを騙すことだって、かまいはしないと、そういう態度なのである。
つまり、清水晶子らの「いまどきのフェミニスト」は、自らは考えることを放棄して、その「信仰」に邁進しているだけであり、他者に対しても、「盲信」を求めているだけなのである。
つまり本書は、「フェミニズム入門書」という名の、「宗教的なイデオロギーの布教書」でしかないのである。
清水晶子の場合、北村紗衣とは違って、言葉は柔らかいし、聞こえの良いことしか言わない。
「人の意見にも耳を傾けなければならない」とか「議論が必要だ」とか「真理は一つではない」とかいった、一見「謙虚そう」なことを、たびたび口にする。
だが、よく読めば、いつでも結論は「だからこそフェミニズムが重要だ」という「党派的な自己賛美」のみで、「どうして、それ以外の考え方ではいけないのか」といった肝心の部分については、何も具体的には語っていない。要は、そもそも「議論する気など無い」のである。
ちなみに、本書に収録された3つの対談のうち、巻末に収録された、芥川賞作家・李琴峰との対談が、なかなか面白い。
というのも、李琴峰が、「トランシジェンダー問題」にかかわる「フェミニズム内部での、対話不能の対立(内ゲバ)」問題について、清水晶子をも含む「トランスジェンダリズム推進派」の立場からも、決して無視し得ない問題提起をしているからだ。
だが、清水の方は、極めて老獪に「そうですね、そうですね。難しい問題です」と、謙虚そうに、李琴峰の問題提起を、体良くイナすばかり。
つまりこのあたりが、「いまどきのフェミニズム」の「したたかな実態」を知るうえで、かなり興味深いものなので、少し長くはなるが、中略は無しで、3つに区切って引用し、それに注釈(ツッコミ)を加えておこう。
清水晶子は本書で、「2010年」ごろに始まると考えられている「フェミニズム第4波」の特徴のひとつを、「インターネット利用による連帯の拡大」と説明をしているのだが、李琴峰のここでの問題提起は、まさにそのあたりでの問題点を指摘したものだと言えるだろう(北村紗衣の取り巻きミーハーファンなどもこの類で、北村の本でフェミニズムを知った気でいるのだ)。
平たく言えば、「ツイフェミ」と呼ばれて批判されることのある「フェミニズム第4波」の運動には、「党派における居心地の良さ」と、その難点としての「思考停止」と「ノーディベート」という「独善」への傾きがあると、ここでは、そう指摘されているのだ。
そして、言うまでもなくこれは、先の、
・「東京大学関係教員有志による東京大学三浦俊彦教授への声明」
などとも関わってくる話なのだが、李の指摘に対して、清水晶子は、まるで「他人事」のように、
と、自分たちのそんな「ダメ」さは完全に棚上げにして、臆面もなく、ご立派な「分析」を宣うのである。
しかし、ここからわかるのは、こう「他人事」のように分析している清水自身が、実は『共感を呼びやすい意見というのは、よく言えば抽象化されていて、悪く言えば単純化されていることが多い』という認識を持ち、そのうえで『「だいたいこういう方向で考えるとして、でもこの部分はちょっと悩むなあ」というような逡巡や違和感を削ぎ落として、一番明快で強いところだけを出していくと、SNSでは共感が得やすい。微妙なニュアンスを落として単純化された意見』を、自覚的に製造し、駆使している「運動家」なのだろう、ということである。
また、それでいて、臆面もなく『私、居心地の良さっていうのは、結構ダメじゃないかと思うんです。』とか『居心地の悪さを性急に切り捨ててはいけないということなのかな、と思いました。』などと、反省する気もないくせをして、こんなふうに「殊勝そう」に言うのだから、清水晶子は、とんでもない「タヌキ」なのである。
ここで李琴峰が言っているのは、「党派に回収されることなく、独り立つための精神的な強さの重要性」ということであるし、当然それは「誰にでも可能なほど、簡単なものではない」という話だ。
そして、これに対する応答には、清水晶子の「本音」が、比較的よく現れている。
要は、「強い精神性を持つことは容易ではないから、社会的弱者である女性は、やはり連帯する(徒党を組む)ことが必要だ。いずれ独り立つにしても、まずは社会の方で、物理的な条件を整えてもらわないと無理」という話である。
つまり、結局は「精神的な弱さは仕方ないから、それを社会の側で、物理的に補完しろ」という話であり、結局は「居心地の良い場」にどっぷり浸かって「群れ」てしまうことを、たぶん「政治的な方法論」から、擁護肯定しているのである。
だが、これでは「他者の意見に耳を傾けられなくても、仕方ないでしょ」と言っているも同然なのだ。
つまりここでも、李琴峰の問題意識は、体よく「はぐらかされている」のである。
ここでも清水の言い方は、多分にペテンなのだが、李琴峰は、まんまとそれに乗せられてしまっている。
どの部分かというと、
というところだ。
たしかに、「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは「別問題」なのだが、しかし現実には、決して「批判して終わり(後は当人の自覚に任せる)」という話では終わらず、結局は「法的に規制するかしないか」という話になるのだ。しかもそれは、政府御用達の「有識者」の意見だけが、せいぜい参考にされて。
それに、なにしろ清水自身、最初から認めているとおりで、そもそも「フェミニズム」は「社会変革のため」に存在するものなのだから、「議論のための議論」になど、三文の価値も置いてはいないのだ。
したがって、「問題があると思われる表現を批判すること」と、それを「法的に規制すること」とは「別問題」ではあっても、必然的に繋がってくるものなのである。
また「それは、良いことか悪いことか」の議論が、そのまま「それは、法規制すべきことかすべきではないことか」という、現実的な結果に帰結するのだから、その前提で話をしないわけにはいかない、ということになる。
「悪い」と認めた瞬間、「では法規制しますね。ご依存はないでしょ、当然」ということになってしまう(されてしまう)ということである。
そしてこれが、清水晶子や北村紗衣らに典型される、「今どきのフェミニズム」の「本性」であり「やり方」なのだ。
だから、それを甘く見て、安易に「遠慮」や「妥協」などすれば、そこにつけ込まれるだけなのである。
ちなみに、この対談が行われた「2022年」の段階では「党派対立の泥試合ではなく、対話を」と求め「作家として言葉に賭けたい」と言っていた李琴峰も、その後は清水晶子らの「フェミニズム」に感化されたのか、今では、「言葉」ではなく「行動」を、「対話」ではなく「実力行使」をという感じに、残念ながら変わってしまったようだ。
ちなみに、先の「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の「Wikipedia」では「関係者の氏名等が、すべて伏せられている」と紹介したが、「Wikipedia」の「李琴峰」の項目では、李自身に関わるトラブル関係者の名前が、ズラリと列挙されている。
見ての通り、この「Wiki記事」では、李琴峰が提訴した誹謗中傷裁判で敗訴した被告の名前だけではなく、李の「声明」の中で「加害者」だとされているだけの人物についても、名前がズラッと並んでいる。
ちなみに、ここに挙げられた名前には、下で紹介した本の著者や寄稿者が少なくない。
・斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』(鹿砦社)
・女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会編『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』(鹿砦社)
ともあれ、「Wikipedia」が、ここまでやれるのならば、なぜ、同じことが「オープンレター『女性差別的な文化を脱するために』」の項目でもやらなかったのか?
「オープンレター」の方は、どうして、ああも腰の引けたものになったのかと、その「不自然」が、おのずと問われざるを得ないのである。
当然、こうした「不自然で矛盾した対応」には、裏で、北村紗衣が、ウィキペディアンとして立場と権利を濫用して、「Wikipedia」を私的目的において操作してたのではないかと、そう疑う方が、むしろ自然なのである。
なにしろ北村紗衣は、Twitter(現「X」)上での私的な論争において、「ファンネル・オフェンス」を助勢として使役することを恥じない、「手段を選ばない人間」だからだ。
ともあれ、北村紗衣にしろ、清水晶子にしろ、彼女ら「いまどきのフェミニズム運動家」は、臆面もなく、心にもない「タテマエ」としての「嘘」を平気で行使している、というくらいの「現実」は、心したうえで、その話に耳を傾けるべきなのだ。それが「大人の知恵」というものなのである。
彼女たちは、彼女らなりの「理想」を実現するための「社会変革」を目指す、運動家なのだ。
だから、「目的は手段を正当化する」で、「嘘」をつくくらいのことは、その「大義」の前には「ゆるされて(容認され正当化されて)当然のもの」としか考えない。
「確信犯」たちの「信念における犯行」を甘く見るのは、もはや「世間知らず」の証拠でしかないのである。
(2024年12月18日)
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