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本能寺の変1582 第194話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第194話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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信長は、豊原にいた。

秀吉は、加賀に残った。

光秀は、加賀を去った。

 同十日。
 信長は、豊原にいた。
 以下は、加賀へ送った命令書。
 宛先は、細川藤孝・稲葉一鉄・羽柴秀吉の三人。
 十四・五日まで、現地に留まり、苅田を徹底するよう命じた。
 この時、秀吉は、加賀に残っていた。
 
  其の方の躰、
  別喜(簗田広正)・武藤(舜秀)・仙千世(代)(万見重元)来候て、
  ▢申分を聞き届け候、
  莵(兎)に角に、別喜を目付として、付け置き候はでは、如何に候間、
  其の様子、別喜に申し含め、跡(後)より遣はすべく候、
  先ず、苅田専要に候条、
  各、四・五日も逗留候て、申し付けらるべく候、
  其のために、早飛脚を差し遣はし候、
  恐々謹言、
    (天正三年)
     九月十日             信長(朱印)
     長岡兵部大輔殿
     稲葉伊与(予)守殿
     羽柴筑前守殿
             (「松江松平文書」「織田信長文書の研究」)

 
 なお、この書状の宛名の中に、光秀の名が記されていない。
 光秀は、すでに加賀にいなかったようである。
 「二日の命」によるものだろう。
 光秀は、豊原にいたのだろうか。
 それとも、近江坂本へ帰ったのか。
 ・・・・・。
 早速、準備にとりかかった。
 
 おそらく、この時、光秀は軍勢を二手に分けた。
 一、先に帰陣する部隊。
 一、加賀に残す部隊。
 やり残したことがあったのだろうか。
 この事は、後でわかる。

光秀は、坂本にいた。

 同十四日。
 光秀は、先に、帰陣していた。
 
 この日、勅使の勧修寺晴豊が越前へ下った。
 陣中見舞いである。
 吉田兼見がこれに同行。
 途中、坂本に立ち寄った。
 そこで、光秀に面会している。
 丹波への準備をしていたのだろう。

 これまた、見事な反応。
 「早い」
 信長の好むところである。

 兼見は、その日、高島新庄(滋賀県高島市新旭町新庄)に宿泊した。
 京からの行程、凡そ十三里52km。
 
  (九月)十四日、庚申(かのえさる)、
  信長、越州へ出陣なり、
  今度、早速国中申し付けらるゝなり、
  各(おのおの)、見廻りなり、
  予、発足しおわんぬ、

  勧修寺(晴)弁(豊)、勅使として下向なり、
  同道すべきの由申さるゝの間、相談じおわんぬ、

  坂本に至って、維(惟)任日向守に音信せしむ、
  鞦(しりがい)一懸け持参、
  面会、

  今夜、高嶋新城に一宿しおわんぬ、
                          (「兼見卿記」)

 
 勧修寺晴豊は、権大納言勧修寺晴右(大永三年1523~天正五年157
 7)の子。
 万里小路充房の兄。
 天文十二年1543の生れ、この年三十三歳。
 天正二年1574、従三位・左代弁に任ぜられた。
 同五年、正三位に進み、武家伝奏となる。
 著書に「晴豊日記」がある。

 これらについては、後述する。




 ⇒ 次へつづく 第195話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 
 
 





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