永禄8年(1565)12月2日は覚慶(足利義昭)が帰京のため上杉謙輝虎(謙信)に援助を依頼した日。5月に三好・松永らに覚慶の兄・将軍義輝が殺害され幕臣の手引きで監視されていた興福寺を脱出。近江へ逃れ諸大名へ幕府再興の御内書を発した。翌年には還俗し義秋を名乗り越前朝倉氏を頼った。
元亀2年(1571)9月12日は信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにし数千人が殺された日。信長の残虐さや一方的弾圧に目が行きがちな出来事。信長としては僧侶とは名ばかりに堕落して武装し、信長が敵対する浅井・朝倉に味方したので中立を求める警告もしたが一切を無視したために行ったことだという。