本能寺の変1582 重要 ◎第37話 光秀の人物像 細川藤孝 荒木村重 婚姻関係 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第37話
光秀の人物像 細川藤孝 荒木村重 婚姻関係
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◎信長は、池田城を攻めた。
池田氏は、三好三人衆方に与していた。
十月二日に、池田の城、筑後居城へ御取りかけ、
信長は、北の山に御人数を備へられ御覧侯。
◎城中には、荒木村重がいた。
村重は、信長の一つ年下。
この時、三十四歳。
池田家の重臣であった。
心の内に、夢と野望を秘めていた。
暫し、激戦がつづく。
水野金吾内に隠れなき勇士梶川平左衛門とてこれ在り。
幷(ならび)に、御馬廻の内魚住隼人・山田半兵衛、
是れも隠れなき武篇者なり。
両人、先を争ひ、外構へに乗込み、
爰(ここ)にて、押しつおされつ、暫の闘ひに、
梶川平左衛門、骼(こしぼね)をつかれて罷り退き、討死なり。
魚住隼人も、爰にて手を負ひ、罷り退かれ、
ケ様にきびしく侯の間、互に討死数多これ在り。
終に火をかけ、町を放火侯なり。
織田軍の士気は、高い。
今度、御動座の御伴衆、末代の高名と、緒家これを存じ、
士力(しりき=士気)日々にあらたにして、
戦ふこと風の発するが如く、攻むること河の決するが如し、
とは、夫(そ)れ、是れを謂ふ歟。
◎光秀は、後に、細川藤孝・荒木村重と婚姻関係を結ぶ。
両家に、娘を嫁した。
すなわち、明智を中心とした、閨閥を構築する。
これについては、後述する。
◎池田氏、降伏。
当主は、勝正。
抵抗を止め、開城した。
池田筑後守、降参致し、人質進上の間、
(『信長公記』)
荒木村重は、なかなかの策謀家である。
雲霞の如く押し寄せる織田軍を相手にして、池田氏には最期まで戦う気
など毛頭なかった。
形だけの抵抗だったのではないか。
三好は、逃げた。
「義理は果たした」
それで、十分。
信長は、戦いの終結を急いでいた。
「調いこれ有り」
両者の思惑、一致。
「降参」
戦後処理から、見えてくる。
⇒ 次へつづく