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【日本音楽史】➁平安時代~鎌倉時代
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。
●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
◉平安時代
◆飛鳥・奈良時代から平安初期まで続いたエキゾチック文化
前回の記事で見たように、6~8世紀の日本には仏教とともにアジアの楽舞が大量に流入していました。
7世紀の推古天皇の時代は、朝鮮半島の三国それぞれの楽舞である三韓楽 (高麗楽・百済楽・新羅楽)や、中国南部の仮面劇である伎楽が伝来。
さらに8世紀・奈良時代に入ると、唐の音楽である唐楽、度羅楽(度羅がどの地域か不明)や、ベトナムの音楽である林邑楽も伝来し、グローバルな奈良時代は日本・唐・ベトナム・インドまでが一体となったひとつのアジア的なエキゾチック文化が形成されていたといえます。
さらに平安時代初期・9世紀に入ると、中国北東部から渤海楽が伝来。
文化庁のような行政機関であった雅楽寮では、こうした外来音楽の数々が、日本古来の和楽(神楽歌や久米歌など)とともに演奏・教育されていました。雅楽寮で所管した音楽と舞は、俗学に対し「雅正の楽」の意味で「雅楽」と呼ばれました。
9世紀初頭は、奈良時代までのこのような文化流入傾向が続いていました。
◆楽制改革と国風文化
一方で、平安時代に入ると律令制度の運用を見直す動きが活発になり、律令を修正・補足した法令である「格」と、さらに細かく定める「式」が制定されていきました。
(数多くの格と式をとりまとめて編纂した「三大格式」と呼ばれるのが、弘仁格式〈820年〉、貞観格式〈869年〉、延喜格式〈格907年、式927年〉として残っています。)
この「格・式」には音楽に関する細かい規定も含まれており、「式」には音楽家や音楽学生の人数、音楽家が参加すべき儀礼、箏や琵琶の弦の長さや重さなどまで細かく決められており、さらには「楽器や装束が破損した場合は治部省へ申し出ること」といった実務的な注意書きまで記されていました。
こうした音楽行政の整備は、やがて「雅楽そのものの改革」にもつながっていきます。9世紀半ばなると、それまで大量に輸入されて煩雑化してしまっていたたくさんの音楽様式をきちんと整理して自分たちのスタイルに体系化していこうとする動きが本格化したのです。9世紀~10世紀にかけての約半世紀以上に及んだこの整備・統合の動きは「楽制改革」と呼ばれています。
まず、別々に伝承されていた外来の舞楽は「左方(唐楽)」と「右方(高麗楽)」の二大ジャンルに整理されて統合されました。
「高麗楽」は、朝鮮半島由来の高麗楽・百済楽・新羅楽の三韓楽に中国北東部由来の渤海楽が統合され、「右方」とまとめられたものです。
対して「唐楽」は、中国由来の唐楽とベトナム由来の林邑楽が統合され、「左方」とまとめられたものです。
(※度羅楽は演奏されなくなりました。)
さらに、唐楽・高麗楽の両ジャンルともに日本人による作曲・振付も盛んになりました。現在雅楽として最も有名な楽曲「越天楽」はこの当時に日本で作られた新曲です。他にも、現行の舞楽の曲名に承和楽・仁和楽など、作曲された平安当時の年号が付けられているものが多くあります。
複雑になっていた楽器編成も整備され、重複で代行可能な楽器を廃止して、「吹物(管楽器)」「弾物(弦楽器)」「打物(打楽器)」と分けられる14種類の楽器に整理されました。左方と右方で使用される楽器が異なるなどそれぞれの特徴があります。
また、舞楽であっても「舞い無し」で演奏されるようになり、こうした日本独自の室内楽版の器楽演奏は管弦と呼ばれました。管楽器、弦楽器、打楽器を含んだ複数の楽器の合奏を芸術として鑑賞するこの形態は、これより遥か先の時代、近代ヨーロッパでの「オーケストラ」と同じ性格を持っています。西洋クラシックの時代より千年近く昔の日本に存在した雅楽は「世界最古のオーケストラ」とも呼ばれているのです。
さらに音楽理論も整備されます。もともと古代中国でも、古代ギリシャのピタゴラスと同じようにオクターブから12の音が導かれていました(「十二律」)。その中から、それぞれの曲でよく使われる5個または7個の音が選ばれてたくさんの音階が作られました。中国から伝わったこのような多くの音階の中から、日本では6つの音階が残され、さらに現代の西洋理論でいうところのメジャーとマイナーにあたる「呂」と「律」という2つのグループにまとめられたのでした。
「呂」・・・壱越調、双調、太食調
「律」・・・平調、黄鐘調、盤渉調
このようにして日本式に整備されていった「大陸系の楽舞」に対して、もともとの日本古来から伝わる神道系・皇室系の音楽は「国風歌舞」というジャンルになりました。国風歌舞には、神楽、東遊、大和歌、五節舞、久米歌・久米舞、誄歌などが含まれます。
さらに、平安貴族たちのあいだでは新たな歌曲文化が流行していました。代表的なものが催馬楽と朗詠です。大陸からの雅楽は器楽と舞踏ばかりでしたが、日本人は歌謡を取り入れるという独自の発展を遂げたのです。こうした歌唱を伴う楽曲群は謡物と呼ばれ、こちらも雅楽のレパートリーに加えられました。
このように、大陸系楽舞(左方・右方)、国風歌舞、謡物(催馬楽・朗詠)が、日本の雅楽の主な種目となります。
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ちなみに韓国や中国、ベトナムなど日本以外の国では、王朝がなくなったときに伝承が断絶してしまい、現在ベトナムや韓国で演奏されている雅楽は残念ながら最近になって再現されたものです。
一方、日本では為政者が交代しても天皇制が存続し続けたことで、宮廷音楽・儀式音楽として途絶えることなく保存・伝承されて現代まで残りました。これほど長い間伝承されてきた音楽は世界中でも日本だけだということです。
さて、9世紀のこのような楽制改革に加えて、9世紀末には唐の勢力がおとろえて東アジアの安定した体制が崩れたこともあり、894年に遣唐使の派遣が取りやめとなりました。10~11世紀は日本の文化史全体でも「国風文化」と呼ばれる日本化の流れに入っていきます。
国風文化の代表的な文学である『源氏物語』などの平安文学からも、貴族の音楽文化について窺い知ることができます。主人公の光源氏や明石の御方などは音楽にも極めて堪能な人物として描かれ、さまざまな音楽や舞や歌を演じる情景が物語に散りばめられています。史実との区別は必要とはいえ、記されている描写は平安貴族の生活文化辞典に相当するものとして重要な手がかりなのです。
貴族にとって音楽は必須の教養であり、四季の移ろいや年中行事、人生の通過儀礼などにおいて、雅楽のさまざまな演奏が欠かせないほど、貴族の生活に音楽が浸透していました。
実在の貴族で音楽の素養に優れた人物には源博雅(918~980)がおり、966年には村上天皇の勅命によって『新撰楽譜』(別名『博雅笛譜』)と称される楽譜も編纂しています。
他にも貞保親王(870~924)、敦実親王(893~967)、藤原師長(1138~1192)など、音楽家として名を残した貴族は多く居ます。
◆今様と院政期文化
平安時代中期には、「今様」という新しい歌曲が出現しました。今様とは「現代風・現代的」という意味で、催馬楽や朗詠よりも新しい「イマ風」の様式、つまり当時の「現代流行歌」の意味の名前でした。
最初は庶民の間から起こり、遊び女たちが今様をよく歌っていました。特に芸能を主とする遊女である「白拍子」たちが今様を得意とし、白拍子から今様の名手が多く誕生します。
白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子が多くいました。
そうした影響もあってか、平安末期(院政期)には宮廷貴族のあいだにも今様が広がり、それまで流行していた催馬楽や朗詠に代わって今様が好んで歌われるようになりました。この新様式の歌は、朝廷の儀式の後の宴会などに組み込まれるようになります。
この「今様ブーム」に深く深く関わったのが、天皇を譲位してから34年にわたり上皇として君臨した後白河法皇(1127~1192)です。日本史では平安時代末期の天皇として源平の争いの中で平清盛や源頼朝などと対等以上に渡り合い、上皇として院政を行った人物としてその名が知られていますが、それ以上に、大の「今様好き」として有名なのです。
当時の庶民の間で流行していた「今様」に若いころからハマってしまった後白河は変わり者の「今様狂い」と呼ばれ、父や兄からは「天皇の器量にあらず」などと散々にこき下ろされていました。側近からは「和漢の間、比類少きの暗主」、源頼朝からも「日本国第一の大天狗」などと酷い言われよう。
このように周囲から馬鹿にされながらも、当時の白拍子、傀儡女、遊女など、社会身分的に最下層の女性を先生として迎え、数々の今様の歌をコレクションし、今様の歌い方を真剣に習い覚えていきました。朝から晩まで今様漬け、歌いすぎでたびたび喉を痛めてしまい、その痛みで湯水も飲めないほどになっても懲りなかったという熱中具合。
「今様狂い」に多数の近臣も巻き込まれてしまい、日々「あいつはうまい」「こいつは下手だ」とダメ出しされていたようです。宮廷では「今様合」というイベントも開催され、30人の公卿が二手に分かれ、一晩で15番勝負するのをなんと15日間も続けたとのこと。
そして、今様の歌い方を後世に伝えるために、今様のすべてをまとめた『梁塵秘抄』全20巻を自らまとめあげました。歌詞の巻が10巻、歌い方の理論実践&エピソード編とも言うべき「梁塵秘抄口伝集」が残り10巻。様々な今様を体系的に整理して歌詞を残したうえ、その歌い方を詳細に解説し尽くした驚異の大全集が完成したのでした。
特に、以下の歌が有名です。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば
わが身さへこそ揺るがるれ
〈現代語訳〉
遊びをしようと生まれてきた。
戯れようと生まれてきた。
遊ぶ子供の声聞くと、
自分の身体も動いちゃう。
現在に残っているものは全体の約二割程度とされていますが、それでも566首もの歌詞が残っており、平安時代末期の庶民歌謡を味わうことができます。それらの歌は文字として残っているために、現代では文学史の範疇で捉えられることが多いですが、後白河院はあくまでも声に出す歌として残したかったということは意識しておく必要があります。今様はあくまでも歌謡であり、それも鑑賞する芸術ではなく自ら口ずさんで歌うための音楽だったからこそ、歌い方の口伝が十巻も書かれたわけです。
今様は1コーラスが [7・5・7・5・7・5・7・5] の七語調四句の歌詞で構成されるのが特徴。この形式は近代にまで受け継がれていており、『荒城の月』や『蛍の光』などの明治唱歌や昭和初期のレコード歌謡などが同じ構成の作詞となっています。
今様自体は生きた伝承としては残っていませんが、雅楽の伝承者が楽譜を残しており、それをもとに研究されています。それによると、扇で拍子をとり、鼓で伴奏され、歌は母音を長く引かず、言葉の意味のわかりやすさが重視されたようです。このように母音を伸ばさない傾向は、それまでの謡物と異なる、中世的傾向だとされます。
◉鎌倉時代
◆琵琶と平曲
平安末期に起こった源氏と平家の戦いは日本史のエピソードとしても非常に有名ですが、「平清盛」率いる平家の興亡や没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた軍記物語である『平家物語』が文学史的にも広く知られています。鎌倉時代に成立したとされるこの軍記物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という書き出しが有名なように、史実を下地にしつつも詩的な表現が多用された文学作品です。
この『平家物語』は、琵琶の演奏に合わせて語る「平曲(平家琵琶)」によって、全国へ広まっていくことになります。
奈良時代にペルシャや唐からシルクロードを通じてもたらされた弦楽器である琵琶は、もともと雅楽器として用いられていました。一方で、平安中期ごろからは、目に障がいのある人が僧侶の姿をして街中で琵琶を鳴らし経文を唱え歩く、宗教音楽としての「盲僧琵琶」が出現。琵琶を弾き語る盲目僧の人々は、琵琶法師と呼ばれました。
この琵琶法師たちが、鎌倉時代に『平家物語』を弾き語る「平曲」という芸能スタイルを完成させ、「平家琵琶」と呼ばれるようになったのです。
平家琵琶が盲僧琵琶と異なっていたのは、平家琵琶の奏者達はひとつの職業として組織を作り活動範囲を広げていった点です。琵琶法師がかき鳴らす哀調を帯びた音色と平易な語りは、ある種の娯楽として多くの層に受け入れられました。大名や寺社など地域の有力者達の仲立ちを得ながら琵琶法師たちは活動を広げ、誰もが文字を読める訳ではなかった時代でも全国に広まり、『平家物語』は国民的な人気を誇る文学作品となったのでした。
こうした「語り物」の音楽は、後世(江戸時代)の三味線伴奏による語り物の成立にまで影響を与えたほか、宗教行為の中でも琵琶という楽器が存在感を発揮し、特に九州地方に現存していきました。
◆鎌倉新仏教と音楽
鎌倉時代に入ると、従来の貴族中心の仏教とは異なる、民間向けの新たな仏教(鎌倉新仏教)が次々と興隆しました。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗、といった宗派が広く武士や庶民の間に広まっていきます。この新仏教の広がりとともに、仏教音楽のあり方も変化し、民衆向けの音楽文化としての性格も芽生えてきます。
法然が開いた浄土宗や、親鸞による浄土真宗では、阿弥陀仏の名を唱える「念仏」が信仰の中心となりました。従来の雅楽的で荘厳な仏教音楽とは異なり、「南無阿弥陀仏」とひたすら唱え続けるという形式は、リズミカルかつシンプルで、庶民が日常生活の中でも自然に受け入れやすいものとなりました。
日蓮による日蓮宗でも、「南無妙法蓮華経」の題目を繰り返し唱える「唱題」が重視され、声を出して唱えることそのものが信仰の表現とされました。
時宗を開いた一遍は、さらに音楽的な要素を活かした布教活動を展開しました。彼が用いた「踊念仏」は、太鼓や鉦を打ち鳴らしながら念仏を唱え、人々とともに踊りながら巡礼するものでした。この形式は単なる宗教儀礼にとどまらず、人々が一体となって体験する祝祭的な要素を持っていました。一遍の一行は全国を巡りながらこの踊念仏を広めていき、次第に多くの庶民が参加するようになりました。彼らの布教は、視覚的にも聴覚的にも強いインパクトを与えるものであり、カルト的でありながらも、のちの時代にも影響を与えることとなります。「踊念仏」は次第に、踊りが主体の「念仏踊」へと発展し、お盆と結びついて盆踊りのルーツとなります。
◆武士や民間に浸透した芸能
平安時代末期に興り、今様などの白拍子の系統を引きつつも、今様に代わって鎌倉時代に武家を中心に流行した宴席での謡物として、「早歌」が挙げられます。早歌は「宴曲」とも呼ばれ、天台宗の声明の節まわしが取り入れられています。早歌は室町時代末期ころまで歌い続けられました。
田植祭の際に豊作を祈る農民芸能として広まったのが「田楽」です。田楽もまた、平安時代中期に成立しており、鎌倉時代には庶民に定着していました。楽と躍りなどから構成されるこの芸能は、「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多いものの、もともと耕田儀礼の舞踊だったものが仏教とも結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていったと考えられています。
奈良時代に大陸から伝来していた散楽は、曲芸や物真似、奇術などを含むサーカス的な芸能でした。初期は宮廷の行事でも演じられていたものの、平安時代には朝廷の保護から外れて寺社や街角などで独自の展開をしていきました。民間の伝承が中心となり、滑稽な内容をもつ芸能に変化し、発音がなまって「猿楽」と呼ばれるようになります。
猿楽は、鎌倉時代には寺社での雅楽や神楽の余興として発展していきます。猿楽の演者たちは各地で「座」と呼ばれる集団を作って、特定の寺社の庇護を受けて活動していました。次第に猿楽は余興ではなく祭礼として重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めます。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあったとのこと。これらがやがて、公家や武家の庇護をも得つつ、室町時代以降、「能や狂言」に発展していくことになります。