2021年の9月から丸3年。 2024年の9月を迎えた。 3年の呪い。 私は、英語の白昼夢で「ラピュタの夢」を見て、この先も、教育分析の先生との分析を続けることを決めた。 地図は、理論。 灯りは、正直さと信頼。 道はある、と信じて足を踏み出せば、見えてなかった道が現れるのだ。
自分はあまりに子供っぽい。 でも、周りのひとたちが、かなり大人なひとたちで、この私を見捨てるという選択肢をはなから持たず、不安や焦りや戸惑いや憤りや疑問やなんかの、まだ言葉にならない葛藤を、少しずつ共に抱えて下さるのだろう。 ひとりじゃ、できなかったな。 ごめんね、ありがとう。
絶望的な方向音痴だし、地図読めないし、現在地見失うし、言う事きかんきいだし、予定変更パニックあるし、ド正直で嘘がつけず、理解は遅いし、不器用である。 でも、北極星を見つめていようと思うし、羅針盤は手放さず、自分の足で歩もうと決めている。 すると、必ず助っ人に出逢う。 必ず、である
どうやら私は、見込みのあるひと、らしかった。 SVの先生の夢をみた。 下(深層)から上(表層)に上がってくる濁流に、呑み込まれていた。 夢が予感するには、SVの先生との出会いと取り組みは、美し気なるものにも、表面的なものにも、社交的なものにも、「ならない」。ということなのだろう。
精神分析的心理療法を深く学ぶ過程で、私自身を精神分析的心理療法と他称されなくてもいいや、とか、精神分析的心理療法以外に、それと同じくらい私を魅了するものがあり、私にはそちらを、或いはどちらも選ぶ権利と自由がある、と感じられているかどうかが、私にとって大切だし必要なことだ。
「私とあなた」の世界に、「私と私」を築いてきたんだなあと思う。 私にとって、「私(私達)」という、「ひとり」の時間や空間は、安心や安定にも繋がっている。 他者との関わりが断たれる痛みを伴う孤独感と、同時に、私を傷つけ得る世界から解放される、安堵感がある。 「自分ひとり」の清々しさ
集団大好き、っていう感覚の方が良く分からない。 「属する」ことに付随する「疎外感」の方が、私にはまっすぐ鋭く突き刺さるんですけど。 独立と依存。 中心と周縁。 集団と孤立。 これらの重たいテーマは、私を離してはくれないのだろう。
心理のひとにも、福祉のひとにも、精神分析のひとにも、カテゴライズに入りきれない自分を発見して、相変わらず「ある種の孤独」を抱きしめている。 But Who decide? You are just You. 外部からの物差しで測り切れない自分を、私は内側から愛するようになってきた
2022年7月〜12月の、独学し放題時代の私のペースがだいぶ戻ってきた🌝 自分の言葉で語る。 自分のスタイルを持つ。 理論は使い分け、使いこなす。 広く深く学べ。 無限に広がる青空と原っぱ。 底なし沼。 思索の中で自由に飛び回る楽しさと喜び。 永遠に続けられる遊び。
意図してないが、なぜか良い具合に曜日で均等に割り振られ、月曜〜金曜が基本的に全て、精神分析に関わる何かしらのアクティビティで埋まる見通しになった。 これしかできない。 たぶん私には、これしかできないんだと思う。 これがしてみたい、よりももっと、深く切実な欲求に衝き動かされてもいる
「関わり続ける」に、挑戦している。 「僕のことを切り捨てたくなったら、切り捨てる前に、教えてくださいね」 と初期に言われてから、何度話し合ってきただろう。 関係性が近くなること、遠くなることの怖さ。 関係性が始まること、終わりそうになることの痛み。 関係性を続けること、は冒険だ。
博士号取得だな。 私には未知の領域だけど。 夫が仕事と博士号取得と新生児育児を同時にこなしていた時期を思い出す。 あのときの夫くらいの集中力が必要。 深く、深く、深く潜る。 映画「ディープブルー」みたいだなあ、と思う。 呼吸すらも手放して。 深海の海底で、自分の心音に耳を澄ます。
誉められると、腹が立ち、逃げ出したくなる。 分析家と話し合う中で、過去、虐待者が、私のことを誉めた(かわいい、崇拝している、など)後で、性的虐待に及んだからで、私の中では、「褒められること」と「虐待されること」がセットになって理解されていたことが分かった。 結び目が解かれる思い。
生きることの苦しさ。 吸い込まれそうな悲しみ。 矛先を探して暴れ回る激しい怒り。 情動の嵐を共に耐えることを学びたいと願う。 隠れて見えなくなった情動に触れる勇気を支える安全な方法や静けさを、知っていこうともがく。 専門家になっていく努力を、私は諦めないと決心し直す。
湖だな。 湖が見える。 私は、湖なんだろう。 太陽がギリギリ届く薄明かりの中で、湖底にシンと座っている。 湖面を見上げると、水面がキラキラと光り、風に揺れているのが分かる。 浅いか深いか、なんだろう。 浅瀬で出会うか、水深の深い地点で出会うか。 どこまで降りていくかなんだろうな。
それにしても、「自由に話し合う」ってすごいな、と。 何かを操作したり導いたりってことはしてないし、そもそも症状の除去を目的にも目標にもしておらずテーマとして焦点づけられてすらなかったんだけど、継続面談数ヶ月前と後を単純に比較すると、ポロッと症状が消滅している。氷が溶けるみたいに。
今日から個人面談開始。 職場で打診を受けてから1カ月弱、上長さんとも精神分析家の先生ともたくさん話し合ってもらったり。 資料再読やセミナー参加、情報整理etc.準備を進めてきた。 「いまの私」がやれることを精一杯誠実に。 全身「耳」になって聴く。
良い音のする本(学術書)を聴き 好きなフレーズの文章を写経 ピアノを弾き 分析を受け 夢を見て 日記を書く ひとと語り合い 散歩をする セミナーやシンポジウム、事例検討会に出る 海外ドラマや映画を観て よく眠る これが私の脳を最大限活用する方法
夫が二泊三日の家族旅行を企画してくれた。 昔はこうした喜びを素直に受け取れなくて(今でも少し難しい)、逆ギレしたり泣いたり無視したり寝込んだりして、自己嫌悪に陥って夫婦関係が複雑になったりしていた。 トラウマケア4年目。 嬉しいことは嬉しいと受け取っていいんだとしみじみ思う。
心理アセスメントや治療構造や安全、他職種連携など、さまざま頭を使って配慮しながら、私は私の責任においてセッションの場を守る、と決めてそこに居合わせている。 そこで語られる物語や、生起する出来事の美しさに手を合わせたくすらなる。 面談記録って、話者の物語の代筆記録者になる感じだな。
「この場所とひとたち」のグループセラピーのようなものがあると確信を深めていっている。 それを、個人面談を通して、やっぱりそうだな、と言語的な理解や、理論的説明を、私は得られている。 面談を重ねるたびに、表情も体幹もシャッキリして変わっていく、元気になっていくの、驚きしかない。
「(カテゴライズされたかったけど)カテゴライズされない自分」が持つ、無限の自由と気楽さを享受する。 私は、目の前の話者に役立つと思えるなら、精神分析でも、精神医学でも、心理学でも、社会福祉でも、どの分野の知識も活用しよう、と思う。 音が良いなら。 共感覚の音が私の羅針盤だった🧭
何が君の幸せ 何をして喜ぶ 解らないまま終わる そんなのは嫌だ
閏年の2月28日に始まった個人面談。 私にとっては、イニシャルケースになる。 私自身にとっても、深い意味を持つ方々と出逢った。 話し合いながらずっと、音を聴いている。 音のテンポや音質、曲調が合っていき、混乱した音が静まっていく。 シンとした沈黙さえも美しい。 音楽だな、と思う。
ここでの面談を精神分析的心理療法の理解に基づいて組み立てる覚悟がついた。腹が決まった。 ここでの面談に精神分析が役立たないなら、誰の為の、何の為の療法なんだ? 私は、もがく。 個人分析を継続し、今年度は事例検討会への参加で教育分析は時期をみることに決めた。
精神分析的心理療法に出逢って4回目の1月を迎えた。 最初の精神分析家の先生に会ったときは、「治療を早く終わらせること」が密かな目標だった。 明日はカウンセラーの資格試験。 4年後の自分が、分析を日常のまんなかに置く人生を選択しようとしているとは。
10連休中。 子供達を送り出してから、結局カフェで朝活😂 今晩の事例検討会の予習✏️ 昨年春に始まったダブルスクーリングの内、もうひとつの方、精神分析的心理療法のセミナー。 今日が1年で最後の回。(この春から2年目に入る予定) このセミナーでの学びは深過ぎて、まだ言葉にできない。
スーパーヴィジョンの先生を紹介してください、と依頼する覚悟と勇気が持てた。 クライエントさんとの対話を軸に。 個人分析と教育分析と座学と。 精神分析の学びを生活の中心に据える準備が整って、喜びに満たされている。
今日は、再就職活動のときにお世話になった相談員さんのところ再訪。 真ん中の音がめっっっちゃ透明でキラキラしてて綺麗なひと。 あの音をもう一回聞いてみたくて行く感じかもしれない。 早めに着いたから、カフェで勉強。 今晩参加する事例検討会の予習。 やると決めたからには、やるのだ私は✏️
「よく寝て、食べて、遊ぼう」 「何が好きで何が嫌い?」 「何が不安?」 「不安を安心にかえる、あなたに合った方法は何だろう?あなたの工夫に興味がある」 「一緒にやろう」 Who are you? You know yourself the most.