誰かが「傾聴している」と想うだけで救いがある
私のごとき野良カウンセラーでさえ、人から相談を受けるとなれば、一般的な「適応」を勧めたほうがいいのか、それとも「とりあえず話をよく聞く」にとどまるべきかで悩まないセッションはありません。
毎回のように、困惑させられてぼんやりと物思いに耽っては罪悪感を覚えます。そんな中でreverieという概念がポジティブに論じられていると知ったのはいくらか助けになりました。
さいきん話題の「リベンジ夜更かし」のような話にしても、どこからが行動を変えたほうが本人にとって「いい」と言えるのかがわかりません。ベッドにスマホを持ち込むのを踏みとどまれば「報酬」を得られるような工夫を考えることくらいはできます。
しかし1日の最後になってようやく「母に絵本を読んでもらう時間」と大きな慰安が得られるという人に向かって「またしてもやってくる大人の朝」に備えて「一刻も早く休む」ように告げるというのは同情に欠ける感じがします。
「ギャンブル依存」のような行動については「変容」をサポートするのが心理的にも社会的にも常識かもしれません。
精神分析の臨床例としてよく「親の不在」に直面させられる幼児の話が登場します。経済的な理由から親戚に預けられたり、幼い頃の死別も語られたりします。親の長期入院もよく出る話です。
この男の子は結果として、たった三ヶ月の間、伯母のもとに預けられたに過ぎません。しかしその間に「実の母親に何の感情反応も」示さないようになってしまい、母親の姉と楽しそうにするのでした。
その後しばらく男の子は順調に育ちますが、高校生になった時に「問題」が起こります。
「そんなことでこんなことになってしまうとは……」といった感想も飛び出すでしょう。
目に見える経緯だけを追えばそうも見えます。二歳児が三ヶ月間、とつぜんに母親から引き離され、ついに伯母を母親にしてしまうに至るまでの幼い心の絶望と、あらためて希望を築くに至った心の変遷は想像を超えるからです。
ギャンブルの楽しさと苦しみは遊ぶ人の心次第で大幅に異なる体験になるはずです。私では、スロットにさくらんぼが並んだら「嬉しい」といった程度の感想しか得られません。
しかし、ずっと遠くに行ってしまっていた「母親」を今日か、明日かと待ち焦がれた幼児体験を心に抱え込んでしまった人にしてみれば、777に「再会」できる感激と、「賭ける」ことすらできずにずっと「家で待つだけ」の苦しみのコントラストが心を抉るのかもしれません。
「人それぞれの事情を詳しく尋ねる」のには常に賛否があります。当然です。そもそも詮索する権利や資格があるのかと問われるでしょうし、仮に「事情」が明らかになったとして、それが役に立つのかどうかが曖昧です。
「かつて賭けられた彼が、今度は賭ける側になっていることであるかのようだ」などといっても、それはそもそも「本当のことだと言えるのか?」と苛立つ人だっているでしょう。
ただ私は、おそらくは私自身の気質のせいでしょう、仮にこのような生い立ちで、賭け事にハマっていたなら、工夫でいっぱいの「まともに働き、ギャンブル依存を脱するプログラム」にあまり乗り気になれなさそうなのです。
そういうものがあるのは間違いなく「いいこと」だと思います。ただもしこの世に「それだけ」があったなら絶望してしまいそうです。
実際には私の話を聞いてくれる人がいなかったとしても、この世に「不在論」のような考え方と、それを書く人がどこかで「人の生い立ちや事情にじっと耳を傾けている」と想像するだけでも救いになると思うのです。