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第23走者 稲員修平:人の身体の機能と観念

川谷医院の心理師の稲員です。前回のエッセイからだいぶ時間があいてしまいましたが、いくつか最近考えたことを書きたいと思います。

まず、前回のエッセイで少しだけふれていたグレゴリー・ベイトソンのダブルバインドセオリーについては、詳しい内容は前回の私のエッセイの次の川谷先生のエッセイの中で説明してもらいましたので、詳細はそちらをご覧ください。1つだけお伝えしたいのは、統合失調症の病因論としてダブルバインド理論は現在では否定されていますが、ベイトソンの著作である『精神の生態学』の中のある部分では、「ダブルバインド理論は、単一の症候群を扱うのではなく、(一般に「病的」とはされていないものが、そのほとんどを占める)ひとつの症候群の全体を扱う」と述べられているという点です。その症候群属とは何かというと、「トランス=コンテクスチュアル」という特性をもったグループであり、それは“世界を二重に受け取るというあり方”を特徴とするグループであり、その中には、複数のコンテクスト(文脈)をまたにかける才能によって豊かな人生を送る人たち(詩人など)がいる一方で、複数のコンテクストの衝突による混乱から生きる力を失ってしまう人たちがいるということが述べられています。このように、ダブルバインド状況には、人間の創造性につながるような影響がある場合もあるし、一方では非常な混乱した状態につながる場合もあるということ(健康的な人において)は、現象としてあるようです。ただ、それが1つの病気の原因であるということではありません。その後、アメリカの精神科医で催眠療法家であったミルトン・エリクソンは、ダブルバインドに似たような状況を意図して作り出すことによって治療的に活用したり、他のある種の家族療法の中でもダブルバインドの考え方を応用した関わり方が考えられたりもしています(ただ、それらの中でのダブルバインドは、厳密な意味ではベイトソンの考えるダブルバインド状況とは少し違うのかもしれません)。

さて、少し話は変わりますが、今回は人の身体をテーマにしてエッセイを書きたいと思います。2007年にアメリカのIT企業であるGoogleがマインドフルネス瞑想を企業研修として導入したことによって、その後日本でもマインドフルネス瞑想法が注目されるようになりました。私はあまり詳しくはないのですが、マインドフルネス瞑想法とは、基本的には「意図的に、今この瞬間に、評価をせずに意識を向けること(=マインドフルネス)」で、心が安定した状態を体験することを目的としたものです。今この瞬間に注意を払い、自分の心や身体の状態について評価や判断をせずに自分の経験をありのまま受け入れることを実践していく方法です。具体的には、リラックスした姿勢で座り、ゆっくりと呼吸しながら自分の呼吸のリズムを感じていきます。そして、自分の心に浮かんできた思考や感情などに気づき、それを批判せずに受け入れること、それから再び呼吸に注意を向けるということを続けるやり方です。そして、今この瞬間に存在していることを感じることを目指しています。このマインドフルネス瞑想は、仏教や禅の瞑想法に起源があるようです(アメリカでこの方法が注目されるきっかけを作ったのはマサチューセッツ大学のジョン・カバット・ジン教授とされています)。
 私は最近、禅について少し興味を持っているのですが、禅の教えを説いた人の中に盤珪禅師(盤珪 永琢(ばんけい ようたく))という方がいたそうです。Wikipediaによると、江戸時代前期の臨済宗の僧で、播磨の国(現在の兵庫県)で1622年に生まれた人です。この盤珪禅師の言葉に「不生の仏心(ふしょうのぶっしん)」というものがあります。Youtubeの座禅サイトというチャンネルで井上寛道老子という方が解説してくれているのを聞くことができますが、それによると「不生」とは「今のありよう」というような意味であり、今そのものがずーっと続いている様子(に気づいてそのところを体験すること)ということです(厳密には“今”ということも、本当はそういう時点がどこかに止まっているわけではなく、世の中のものや様子がずっと続いていっている。その中のある部分を私たちは“今”という言葉で表そうとしているので、今がどこかに存在しているわけではないとのことです)。
その井上老子の解説を私なりにまとめてみますと(以下の括弧は井上老師の言葉です)、例えば、目は周りのものを色々と見ていますが、目自体がものを見ようと思って見ているわけではなく、周りのもののありようがダイレクトにそのままに見えているというありようがあります。耳も同様であり、何かを聞こうと耳が思って聞いているわけではなく、周りの音をそのままに耳が聞いているというありようがあります。そのように、私たちは生まれた時から身体の色々な器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が自然と(教えてもらわずに)機能するようになっています。その身体のあり方そのものを「不生の仏心」というそうです。そして、その身体が見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、味わったり、感じたりした体験そのものに気づくということを盤珪禅師は話して聞かせていたそうです。井上老師もパンと手を叩いて、「音がしているところにいることと、“ああいう風に手を叩いて、音が聞こえた”と認識しているところでは違うのですね。認識はあとで起きますから。(パンと手を叩いた)この時には、聞こえたとか聞いたとかいうようなことが入ってこない」と実例を示しています。そのような不生の仏心は誰にでもあり、一切の出来事が迷わず、困らず、ズレずに起こっているのですが、それに気づかずに「自分の考え方で取り扱うようになると、本来の不生の仏心をくらまされてしまうので、それで皆さんが色々な問題を起こしている」と説明されています。「例えば、戸を開けた途端に中の様子にころっと変わる。これ、見たんじゃないですよね。開けた途端にその様子になるんですね」というように私たちは、「その場にいったら必ずその場にいったように(なる)、どうもしないのにそういう風に生活している」のですが、「多くの人は、そういう世界にほとんどいない。見たもう瞬間というか、同時と言っていいぐらいの速さで、そこに、向こうにものがあるように認識をしている。そういうとらえ方をしている。これは不生の仏心とははるかに違いますね」~(中略)~「名称をつけた、その名称に皆さん方は振り回されていて、名称がさしている実物を本当に相手にする力がない。それでやっかいなんでしょう」というよう語られています。このように、身体そのもののあり方の様子にそのままいることを実践し続けることが盤珪禅師の「一切の事は不生にて整いまする。したほどに皆な不生でござれ。不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござる」という言葉に表されています。
 そして、盤珪禅師の言葉に「仏心を念にしかえる」や「仏心を世のものにしかえる」という言葉があり、これは身体でそのまま体験しているところ(本来の活動している様子)に、人の「認識(言葉での考え)」や「見識」を作り出して、その人の(自分独自な)思いであれこれと考えたり、思ったりするようになるということです。自他の区別を作って、「身のひいきゆえに、念をしつらえ」、向こうの話していることをそのまま聞き取るのではなくて、自分勝手な聞き方に変えて聞いて、それに執着するということが起こっているとされます。「本来の自分のすばらしい在り様を自分でとんでもない様子にしかえてしまう」ということです。「念に念を重ね~それが固定概念になる」というように、くり返し、くり返し、自分の中である思いを思い返すうちにそれが本当のことであるように体験されるようになり、それによって振り回されてしまうことを私たちは日々の生活の中でいろいろと行っているとされます。
 そのため、盤珪禅師や井上老師の禅では、思いや認識からいったん離れて、身体のありようそのもののところにいてみること、そういう状態になることを目的としているのだそうです。そのようなあり方にいつもの生活の中でもふれていることを勧められています。ただ、人は認識や思考をすることなく生活することは難しいと思いますし、認識や思考があるので今日のいろいろな文化や自然科学などの発展があると思います。そのため、現代のさまざまな科学文明や物質中心の文化に囲まれて暮らしている私たちがこの「不生の仏心」というあり方を活かすとするならば、これは私なりの1つのアイデアなのですが、そのようにいろいろと認識したり考えたりしている自分から離れて、身体のあり方そのもののところにいるというモード(状態)と、周りのいろいろな出来事を認識して、考えたり感じたりしながら対応していくモード(状態)とを、交互に行き来しながら生活できるようになるとよいのかもしれません。ただ、そうはいってもなかなか難しいもので、例えば私も歯医者で虫歯の治療を受ける時には、治療を受ける前から肩に力が入り、やや胃の調子が悪くなるというように、痛みを恐れる感覚が出てきて緊張や不安を感じてしまいます。しかし、これは自分の観念であるというよう気づいて、自分の今の身体の方に感覚を向けると少しの間ですが、恐怖とは離れていられることもありました。そのように、少しずつでもよいというつもりで実践していくといいのではないかと思います。
 
 禅とは違うものになりますが、やや近い方法としてフォーカシングというものの中の、クリアリング・ア・スペースという方法もあると思います。フォーカシング(Focusing)とは、アメリカの哲学者であるユージン・ジェンドリンという先生が考案した方法です。フォーカシングは、フェルトセンス(felt sense 日本語にすると“感じられた意味”というような意味です)という、“漠然としてはっきりとしていないけれども心や身体のどこかになんとなくあるような未分化な感覚”に注意を向け(フォーカスして焦点づけて)、それをゆっくりと感じて体験していくことによって、段々とそれがはっきりしてきて、まだ自分でも言葉にして意識していなかったような気持ちや思いに気づいていくというような方法になります。フェルトセンスに気づく時に、“からだの感じ”として感じられている感覚に注意を向けることがきっかけになると考えられています。このフォーカシングという方法は、アメリカの心理療法やカウンセリングの録音テープを分析して、うまくいった事例ではどのようなことが理由なのかを研究した中で、心理療法がうまくいくのは、話している内容によるではなく、どのように話されているのか(クライエントや患者さんがどのような体験をしながら話しているのか)という話し方によるのだということが発見されたことから、ジェンドリン博士がそのような話し方を身につけるにはどうしたらいいのかについて研究して考案された方法です。
 そのフォーカシングの手順の中に、クリアリング・ア・スペースというものがあり、これはとても簡単に説明すると、その時の自分の心の中に浮かんできた気持ちや考えや何かの出来事などを1つ1つ順番に認めていって、それを1つずつ自分の周りのどこかに置いてみる(置いたつもりになる)という体験的な作業(ワーク)になります。その際に、可能であれば、1つ1つの浮かんできたものの感じ(フェルトセンス)をゆっくりと味わってから置き場所を探していく方が、その時の自分の心身とその感じがより納得できるような置き方ができるのではないかと思います。また、この方法は直接的な関係はないかもしれませんが、最初に述べたマインドフルネス瞑想とも似ているところがあります。どちらも、今の自分の心身に注意や関心を向け、浮かんできたものを1つ1つ認めていくという点が似ています。ただ、マインドフルネス瞑想では、呼吸の方に再び戻るようで、浮かんできたものをどこかに置くという作業はしないようです。どちらの方法にもそれぞれの良さがあるし、人によっての相性や好みもあると思います。
このような心の整理法は、『こころの整理学』(増井武士著,星和書店)という本にいろいろと解説されていますので、興味がある方は読んでみてもらってもよいかもしれません。

 また、精神分析の中でも、ビオンという精神分析家の先生が「理解なく、記憶なく、欲望なく」ということや「becoming O」(Oになる)ということを述べています。これは、その時の分析を受けている人と精神分析家との間で、いろいろな思考や感情、記憶、欲望などの認識から離れたところの、言葉では説明できないような、なんらかの心のあり方そのものになるというような体験のことのようです。ただ、私はまだ理解が不十分なところがありますので、これ以上は説明が難しいのですが、私たちが日常使っている認識作用からいったん離れて自由になるということが重視されているということは言えそうです。また、精神分析においても身体は受信器官であると考えられていて、身体を通して精神分析状況の中でのいろいろな感情などを感知することがあると考えられています。そのように、二人の間での心の関わり合いを通して、その人のこころのありようを体験して理解していくことが、精神分析でも行われていると言えるのではないかと思います。

 以上、ややまとまりがないですが、身体というものについて、いくつか思っていることを述べてきました。また、人によっては、いろいろな病気やトラウマ、あるいは発達の特性などを抱えていらっしゃる場合に、このような身体のあり方にふれるということが難しい場合やかえって混乱したり苦しくなったりする場合もあるかもしれません。そのような時には、まずは医療機関を受診したり、相談機関に相談したりして、精神的なケアや治療を受けることが優先的に必要となると思います。お気をつけください。
また、トラウマというテーマについても、身体との関連でいろいろと研究が報告されていますので、次回のエッセイではその点をまとめてみたいと思います。

参考・引用
 坐禅サイト(https://www.youtube.com/watch?v=PUwnZC31iGw&t=14s) 
盤珪禅師法語集 提唱録 井上貫道老師

G・ベイトソン 精神の生態学 改定第2版 佐藤良明訳 新思索社 2000


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