京極さんの熊野詣トレイル⑪ DAY3 様相一変400年 時間が癒す16年
平松王子(和泉市)からはじまった藤原定家の御幸3日目もようやく終わりに近づいてきた。定家が記した「後鳥羽院熊野御幸記」によれば、現在の泉佐野市樫井にある籾井王子では奉幣の後、里神楽、内大臣源通親の拍子での舞い、白拍子、そして三番、相撲が奉納されたとある。こうした準備を行うのが定家こと京極さんの旅のミッション。だからか、籾井王子でも終わるやいなや、本日の宿泊地である厩戸王子へと馬を走らせて行った。おそらく一行の寝床の準備だろう。
さて、籾井王子があったとされる場所のまさに目の前に大きな五輪塔がある。説明書きには塙団右衛門の五輪塔とあり、大坂夏の陣の樫井の戦いで討ち死にしたと書かれている。つまり、のどかな景色が400年経つと戦場になっていた。ついでにいうと、団右衛門が討ち取られたのは先鋒争いの功を焦って突出し本隊から離れてしまったから。
あらら。
加藤嘉明のもとを出奔して以降、加藤家から邪魔されたり、主家が断絶したりと不遇だったので見返したかったのか。NHKの大河ドラマ「真田丸」では、「塙団右衛門参上」という札を小手伸也さん扮する団右衛門が配っていたが、名を挙げるいやらしさよりも、憎めない魅力満載の団右衛門だった。この頃は、関が原などの影響でお家取り潰しは当たり前で、個人が生きていくには、再就職にせよ、何にせよ名を挙げるしか術はなかった。それは敵も同じ。団右衛門を討ち取ったとされる上田宗箇も流浪の果てに浅野家に高禄で拾われたばかり。「人は一代、名は末代」と考えれば、宗箇よりも誰よりも団右衛門が名を残したんじゃないだろうか。
ちなみに、この五輪塔は大坂夏の陣から16年後、小笠原作右衛門という紀州藩士が造立し、両脇の石灯籠は上田宗箇と並んで団右衛門を討ちとったとされる八木新左衛門の孫が奉納した。気になるのは、五輪塔自体ではなく、造立したのが16年後というところだ。
例えば、平家物語の成立はこの御幸と同年の1201年頃だと言われている。ちなみに壇ノ浦の戦いは1185年、ちょうど16年後だ。現代でも日本航空をモデルに描かれた『沈まぬ太陽』が書籍化されたのが墜落事故から16年後の1999年。山一證券の最後を小説化した『しんがり』も破綻から16年目に書かれている。
関係者が減り、記憶もあいまいになり、一方で今だから話せる話も出てくる、それをひっくるめて世に問われるのに、だいたい15、6年かかるのかもしれない。
さて、かなり話が遠ざかってしまったが再び1201年。
今宵の宿泊地は現在の泉南市にある厩戸王子だった。なぜに「厩戸」なのか。厩戸といえば聖徳太子だが、この王子のあった場所には7世紀に海会寺という巨大な寺があり、その寺は法隆寺と同じ伽藍配置だったとか。30mの高さがある五重塔があったこともわかっていて、この近くの豪族、おそらく聖徳太子とも近い存在の拠点だったようだ。室町時代ごろまでは寺も存続したようで、一行も目にしただろう。現在は寺の鎮守であった一岡神社が残っている。
そしてこの夜、上皇から召された京極さんは「暁の初雪」「山路の月」のお題に対して歌を詠み、上々の気分だったようだが、寝床だけはいつもの通りの茅葺きのあばら家だった。