徳川家康さま☘️をたどる#72☘️方広寺大仏鐘銘文言の一件
初筆 2024年 2月 10日 / 加筆修正 未
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
1612年・慶長17年前後、家康さまは鷹狩三昧だったが公家衆・門跡・諸外国とのお付き合いもしていた。
1612年・慶長17年、 #岡本大八事件 発生❗️本多正純さま家臣の岡本大八さまが引き起こした贈収賄事件で、当事者岡本大八さま・有馬晴信さまとも罰せられた💦
1612年・慶長17年、 #越前松平家 お家騒動勃発💦これは家臣同士の勢力争いであり、幕府が介入して幕府からの付家老・ #本多富正 さまが居残った。
1613年・慶長18年、幕府の金山銀山奉行や八王子奉行で功績をあげた #大久保長安 さまご逝去後、幕府資産の私物化・賄収が発覚し、一族はことごとく成敗された。この事件は #大久保忠隣 さま・ #松平忠輝 さまの改易にも繋がっていく
1614年・慶長19年、幕府の重鎮 #大久保忠隣 さまが改易された❗️表向き罪状は、幕府に無断で大名と婚儀を結んだこと❗️たとえ譜代大名であってもルールを破ると処罰される、ということを知らしめるための見せしめ感強い💦💦
⬇️前回はこちら❗️
3 寺社への法度🤚
1612年・慶長17年ごろ、家康さまは
門跡すなわち寺社への法度を多く出しました。
寺院諸法度・寺社諸法度などと呼ばれていて、
江戸幕府が仏教各宗派に発した
法令の総称とお考えください。
これまでもポツポツ家康さまは
門跡に向けて法度を出していましたが、
1612年・慶長17年ごろに寺院諸法度は
数多く発行されます。
家康さまこのころは鷹狩三昧するほどでしたので、
余裕があったのでしょう。
荘園・領国において、農民を統治していくためには
平安時代から鎌倉・室町時代においては
農業に従事する庶民の心や存在意義を安寧に
保つためには宗教が必要でした。
それが日本では仏教でした。
そして応仁の乱のころから戦国時代は
寺社が自衛のために武力を持つことになり、
武家と同じような勢力を持つようになりました。
その、兵力を持つ門跡を解体して、
純粋に人々に安寧をもたらすことが門跡の役割
ということを提示したのが織田信長さまでした。
門跡の役割を最終的に確定させるための
法律を整備したのが家康さまが発給した
一連の寺院諸法度でした🤚
これにより寺院僧侶勢力を幕府の支配下に
置いたのです。
1601年高野山あてのものから
1616年身延山久遠寺あてのものまで
46通出していて、寺院諸法度の政策には
#金地院崇伝 さまが草案なさったと聞き及びます。
内容は
僧侶の学問儀礼の奨励
本末制度の保障
僧侶の階級
寺格の厳正保持,
僧官任免法の明記
などでした。
この法度を出すときには、家康さまは、
法度を出すだけではなく、寺領をきちんと定め、
経費を考慮した上で、加増・寄付をしています☺️
また、門跡内外で教義や制度について
論争があるときはこれを家康さま直々に
仲裁したりしていました。
このころ、出された寺院諸法度は
曹洞宗や臨済宗などの鎌倉時代に発生した
仏教だけではなく、天台宗・真言宗などにいたるまで
日本全国諸山に発給されました。
5 公家衆法度と紫衣法度
#公家衆法度 および #紫衣法度 はのちに発給される
教科書にも載ってる有名な禁中並公家諸法度の
原型といえる法度で、こちらも金地院崇伝さまが起草し名前の通り、公家衆に対して発給されました。
公家衆法度および紫衣法度は、1612年・慶長17年、
駿府に下っていた #武家伝奏 の #広橋兼勝 さまに
申し渡され、京都に持ち帰った広橋兼勝さまは
摂家衆と相談したのちに、公家衆を禁中に集め、
大御所からの法度として申し渡したとのこと。
公家衆法度の内容は以下でした。
公家衆は家々の学問を油断なく務めること
老若を問わず行儀法度に背くものは流罪に処すこと
禁裏の番を怠りなく務めるとともに威儀、すなわち、作法に適った立ち居振る舞い、を整え、祗候(しこう)、すなわち、貴人のそば近くに居て仕える、時刻を遵守すること
昼夜ともさしたる用もなく町小路を徘徊することを禁止
公宴(くえん・こうえん)、すなわち禁裏で催された詩歌・管弦の宴、以外に、私としての勝負事、無頼の青侍召し抱え禁止
紫衣法度は、
徳の高い層に贈る紫色の僧衣である #紫衣 を
賜った経歴を持つ寺社である
大徳寺
妙心寺
知恩寺
知恩院
浄花院
泉涌寺
粟生光明寺(あおうこうみょうじ)
の住持職は、
住持職勅許を受ける前に
江戸幕府に(このころは家康さまに)報告すること、
仏法相続に相応しい器量を持つ者を選定すること、
を定めた御法度でした。
このように
1612年・慶長17年〜1614年・慶長19年ころの
家康さまは、公家衆・門跡中に、施政者として、
正面から法度を出すようになっていて、
諸大名はもとより、公家衆・門跡衆から庶民、
諸外国に至るまで、家康さまを天下さまと
名実ともに認めるようになっていました。
そして、それを良し、と思わぬように仕立てられた、
また自身たちてもそれを良しと思わぬ勢力が
大坂城にいました。
#豊臣秀頼 さま、と言うよりは、
秀頼さまを取り巻く大坂城の人々でした💦💦
6 この時点で家康さまは豊臣家の処置をどうしようと考えていたのか
家康さまは1605年に #徳川秀忠 さまに
征夷大将軍を継承させ、徳川幕府が日本の国政を
執り行うことを内外に明示していました。
そして諸大名は豊臣家恩顧の大名に至るまで
徳川家への臣従の起請文まで記し、
名実ともに徳川家に従っていました。
公家衆・門跡も同様に徳川政権を認めていました。
しかし、家康さま・秀忠さまは豊臣家家臣であることを
肯定も否定もしていない状態であり、
可能性は低いものの、もし家康さまがお亡くなりに
なったときには、豊臣家は大きな政治勢力てありうる、
とも認識されていました。
このとき、家康さまは豊臣家の処置を
どうしようとお考えだったのでしょうか❓❓
結果として豊臣家は、
#大坂冬の陣 ・ #大坂夏の陣 にて滅亡します。
家康さまは豊臣家を亡きものにしようと決断したのは
いつなのか❓
#豊臣秀頼 さまそのものを亡き者にしようとしたのか❓
豊臣家を存続させるつもりはあったのか❓
1603年・慶長8年、家康さまが征夷大将軍任官後、
豊臣家および豊臣秀頼さまの処置を具体的に
意思表示した直接の書簡などは残ってはいません。
ですので、家康さまの気持ちの中での、
豊臣家・豊臣秀頼さま処置に関しては推測になり、
多くの歴史学者・文筆家が様々な説を提案しています。
よく語られるメジャーな考察を書いておきます。
1605年・慶長10年に征夷大将軍を秀忠さまに譲った時点では、豊臣家を潰そうとまでは考えず、活かしておくとも考えていなかった。
家康さまは、豊臣家の力を削ぐべく秀頼さまに秀吉さまの追善供養として畿内中心に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進そして伽藍や社殿の再興をさせ、豊臣家の財力を削いだ、という説がありますが、これが家康さまがはっきりとした意図をもってのことだったのかはわかっていません。
1612年・慶長17年、後水尾天皇即位の礼のときの家康までご上洛において、秀頼さま・家康さまがご会見したときに、家康さまは秀頼さまの成長ぶりを見て、何らかの豊臣家・豊臣秀頼さまの処置は必要である、と、ご判断なさった、と思われる。なぜかというと、秀頼さまは背も高く礼儀正しい若武者に育っていて、家康さまは、秀頼さまは家臣を惹きつけるカリスマ性をお持ちだ、と感じられたから。
少なくとも、豊臣家・豊臣秀頼さまが政権候補になるような状況は改善しようと企んではいた。その具体策は考え中で、豊臣家を滅ぼすか存続させるかは具体策次第
そのように家康さまがお考えだったときに
事件は勃発します。
7 方広寺大仏鐘銘の件
秀吉さまが生前、刀狩で集めた刀剣類を
材料として建立し、豊臣公儀を象徴する存在であった
方広寺そして大仏・鐘銘が、1596年・文禄5年に
起きた慶長伏見地震により損壊していたため、
秀頼さま・豊臣家は威信をかけて
方広寺を再建しました。
方広寺の再建に関しても、
豊臣家の財力を削ぐため家康さまも
大いに薦めたという説もあれば、
徳川家も財を注いだという説もあります。
その方広寺が落成する間近の1614年・慶長19年夏頃、
家康さまは大仏の鐘銘と上棟に
「大仏鐘銘、関東不吉の語」と異を唱え、
供養の延期を命じました。
大仏鐘銘に記された文言の中に
「国家安康、君臣豊楽」を見つけ、
家康さまを呪詛し、豊臣家が繁栄をする、
という解釈ができるとして、家康さまは
不快感を示し、さらに、家康さまが派遣していた、
方広寺全体の大工棟梁の #中井正清 さまの名が
札に記されていないことも問題視しました。
そして鐘銘文言の善し悪しを #金地院崇伝 さまなど
の有力門跡衆に検討させたのちに、
大坂方へ弁明を求めました。
金地院崇伝さまや有力門跡衆は
「国家安康」の文字を無礼極まりない、と
ご判断なさったのです💦
銘文起草者は、呪詛ではなくて、むしろ
家康さまに対する祝意として家康さまの諱を
隠し題として鐘銘文言に織り込んだと弁明
なさいました。
豊臣家を中心とする西国大名にはこういったとき
諱を直接、入れ込むことが失礼でなく、
むしろ尊敬の念を表すのでした。
しかし、この祝意は家康さまに伝わらなかったのです💦
方広寺大仏鐘銘の一件から、
豊臣家と家康さまは関係がこじれ始めました。
これを、家康さまの策略と取るか、
偶然が重なり、家康さまは機嫌を損ねたのか、
お気持ちを克明に記した文書はありませんが、
家康さまはこういったことを1つ1つ
利用価値を考えて行動なさいます。
これを機会に、豊臣家の措置の実行に
つなげていこうとお考えになったはずです❗️
8 次回
方広寺大仏鐘銘の一件は
書簡のやりとりだけでは収拾せず、
大坂方の徳川家取次役である #片桐且元 さまが
駿府まで弁明にやってきます。
また、秀頼さまご生母 #淀の方 さまの
乳母 #大蔵卿局 も駿府にいらっしゃいました。
家康さまのお2人の大坂からのご使者に
どう対応したのかっ❓❓
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