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古生物学者の夫

古生物学者の夫

うちのリビングの奥にある壁一面の本棚は、右側と左側でまるで景色が違う。

向かって右側は私の縄張りで、小説が多く並ぶ。文庫本の背表紙が、細い縞模様を成している。

一方、夫の縄張りである左側に並ぶのは、『アンモナイト学』、『絶滅古生物学』、『古生物学の百科事典』、『波紋と螺旋とフィボナッチ』、『イカタコ図鑑』……。取り出すのも億劫になりそうな重量級の図鑑や、妙なタイトルの専門書が、どっしり幅を利か

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大阪城は五センチ《 1 》 【創作大賞2024】

大阪城は五センチ《 1 》 【創作大賞2024】



脱いでいた服を身につけた後は、宇治のそばにいる資格をすっかり剥奪されたような気持ちになる。

バスルームに水の音が響くのを聞きながら鏡台の前に立ち、クリーニングしたてのスラックスをしっかり引き上げ、新品のセーターの裾を整えた。申し訳程度に眉を書き足し、色付きの薬用リップを塗っただけのささやかな顔が、鏡の中から心配そうにこちらを見つめ返してくる。励ますようにショルダータイプのスマホケースを肩から

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ペイパーバック・ライター

ペイパーバック・ライター

私は、大きくため息を吐いた。

どうしよう、と頭を抱えた。
行くべきだろうか、あの場所へ。心が一気に5年前に揺り戻された。心臓が早鐘を打っている。ひどく動揺しているのがわかった。思わず両手で顔を覆う。じわりと目頭が熱くなった。手のひらが、ひたひたと濡れた。重い漬物石を乗せて開かないように蓋をしていたのに、彼の文字はいとも容易く蓋を開けてしまった。私は手紙を安易に開封してしまったことを悔いた。悔いて

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ほんとうに出会った者に別れはこない。

ほんとうに出会った者に別れはこない。

巨星墜つ。谷川俊太郎が亡くなった。

彼の傑作詩『あなたはそこに』を引用し、個人的に思うことを書いてみよう。

おそらく今日、この詩が目についたものの、ちゃんと読んでいない人が大多数であろうから、帰りの道やベッドの中でもいいので、とにかく静かに、噛み締めるように読んでみてほしい。

いかようにも解釈できる2人の男女の話である。

あなたはそこに(谷川俊太郎)
あなたはそこにいた 
退屈そうに右手に

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娘の帰省で知る潮時

娘の帰省で知る潮時

離れて暮らす娘が先日しばらく帰省していた。
この日に帰るよという連絡をもらった時は、そりゃあ嬉しくて、よく晴れた日に彼女の部屋の窓を開け放ち風を通したり、布団を干しておいたり。
何が食べたい?と聞いて食材を準備したり。
そうだ、ちゃんと家中…特に水回りを綺麗にしておくか、と念入りに掃除する。
このあたりで、ふと「ん?」と自分のやっていることに、これまでとは違う感覚を覚えたものの、忙しいので気にしな

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【ばあちゃんと僕と金ちゃんヌードル】

【ばあちゃんと僕と金ちゃんヌードル】

僕が小学2年生の時だった。父親の両親、つまり僕にとってじいちゃんとばあちゃんと同居することになった。
当時中学生だった姉はばあちゃんたちに甘えることは少なかったが、もともと二人が大好きだった僕はそれはもうベタベタに甘えさせてもらった。
両親が共働きだったこともあって、学校から帰宅するとすぐにばあちゃんたちの部屋を訪ねてはお菓子をもらったりカップ麺を作ってもらったりしていた。
その頃、僕が1番好きだ

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友よ、旅先で妊娠すな

友よ、旅先で妊娠すな

友人のつぼみん(仮名)は旅行好きだ。

航空会社のポイントを貯めるために、修行のように全国各地をハードスケジュールで飛び回っていた時期もある。

ポイントでホテルを予約してくれたり、航空券を手早く手配してくれたりと、一緒に旅行する際は本当に頼りになる。

平成から令和に変わるゴールデンウィークの10連休を利用して、つぼみんとわたしはドイツ旅行に行った。

ドイツに到着し、地下鉄なども駆使しながら移

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茶番ブーケトス

茶番ブーケトス

今から約10年前、姉がハワイで挙式を挙げることになった。

新婚旅行も兼ねて1週間ハワイでゆったり過ごせる。
家族だけの挙式のため、会社の上司に挨拶を頼んだり、友人に余興を頼んだりと、気を遣い合うこともない。
堅実な姉らしい判断だ。

ハワイに行くメンバーは、新郎新婦、それぞれの両親と、新婦の妹わたし。
新郎のご兄弟は家庭や仕事があり、1週間まとまった休みが取れず、不参加となった。

旅行会社でウ

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見知らぬ誰かとゴールイン

見知らぬ誰かとゴールイン

わたしは運動が苦手だ。

でも、社会人になってから酒量が増えたこともあり、懺悔の気持ちでランニングするようになった。

そのうち、会社の仲の良い先輩達との間でマラソンブームが起こり、みんなで何度か大会に出場した。

7名チームの駅伝形式で42.195kmを走ったり、個人エントリーでは10km、最長では21.0975kmを走ったことがある。

ここ最近は全然走れていないが、今年はぼんやりとフルマラソ

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がめつい娘と父の日

がめつい娘と父の日

父が元気だった頃、
毎年6月の2週目あたりに電話がかかってきていた。

父と離れて暮らすようになって、
最初の年の6月。
父からの突然の電話があまりにも「らしい」内容だったので、
怒りというか、呆れというか、
「もう本当にこの人は……」という気分になって笑ってしまったのを覚えている。

「今日はな、大事な大事な話があって電話してんけどな。あんな、ミーはアホやから、もしかして忘れとったらあかん思うて

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最終出社ペンギン

最終出社ペンギン

昨日が最終出社日だった。

朝からそわそわして微妙に緊張しながら出社し、残った引継ぎを終わらせ、PCなどの機材を返却し、全ての私物を廃棄箱につっこみ、お世話になった方々へ挨拶してまわり、お菓子を部署のキャビネットに置いて、最後に退職挨拶のメールを送って会社を去った。

最後の退勤時は会社からスキップして出ようかしらとか思っていたが、案外そんな気分でもない。もう社用携帯もPCもないのでなんの連絡もこ

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酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話

酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話

時は2018年8月5日。北海道の短い夏、真っ只中の日曜日のこと。目を覚ますと、それはそれは酷い二日酔いであった。

前日、私は結婚式に出席し、素敵な女性とゴールインした友人を祝い、ワインをたくさん飲んだ。そのまま二次会にも出席し、ビールをたくさん飲んだ。更にみんなと別れたあと一人で寄り道をし、日本酒を飲んだ。そして帰った。おそらく帰った。記憶はないが、こうして無事に自室のベッドにいることが何よりの

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マフラーから顔を出した日

マフラーから顔を出した日

グルグル巻きにしたマフラーから顔を半分だけ出しながら私は迷っていた。
左斜め前にいる女性に声をかけるかどうか。
最初にその女性に気づいた時には、
そのままおとなしく知らんぷりをしていようと思った。
でも…

その日、私は大学の就職課からかかってきた電話で目が覚めた。25年前のことだ。
「市内の小中学校、全校に司書を配置することがさっき市から発表されました。ミーミーさんは司書希望だったでしょ?今から

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歩けども、歩けども

歩けども、歩けども

歩きながら、考え事をしている。

信号が、赤に変わった。大通りと細い通りが複雑に絡まる交差点、高速道路の入り口でもある。青に変わるまで、結構、時間かかりそう。向こうから、トラックが来た。交差点に差し掛かる、数十m前からブレーキを踏み、緩やかに停止した。前に、3人乗りのようだ。運転席と助手席の間に、座高を高くした、金髪の若者が座っている。運転しているのは、1番のおじさんっぽい。彼は、とても退屈そうに

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