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21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance生の形式としての、色彩としての言葉 /.失われた〈単語/ひとつのことば=単色/ひとつのいろ〉を求めて/、人間の最後の抵抗にして戦いが、今、開始される。//.

/2024/02/11/18:17//生の断片を保存する魔術として、そこに、それが//招喚される、〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉のために

そこにあるもの/こと、ここにあること/ものをつかまえようとして、宙を切るようにして手を伸ばし、俊敏にそれを掴み取る。握った手の中を、中のこと/ものを逃さないようにして、そっと覗くと、それが手のひらの中で、立ちすくんでいる姿が見える。一瞬の間。途方に暮れたような困ったような顔をした何かがそこに。次の瞬間、それは手のひらの上で、くるくると回転を始め、高速自転する光の粒子の塊となる。慌てて、両手を抱え込むようにして体を折り曲げ回る光の塊を体で包み込む。しかし、急激に球形状に膨れ上がる光は、覆い被さる体を透過して弾け飛ぶ。後に残るのは、手のひらの中の空白と残像、そして、痛み。そこにあったもの/こと、ここにあったこと/ものがそこにはなく、ここにもない、どこにもない、ということ。その痛み。

ことばが存在する。〈そこにあるもの/こと、ここにあること/ものと〉とは生の断片であり、人が人であることの根拠のはじまりとして存在している。決して、失ってはいけない。言葉が、今、わたしたちの場所に要求される。不可欠な事象として。氾濫する否定に抗うために、人が人であることを破壊する全ての試みを迎撃するために、言葉が招喚される、現在の時間の中で。

そこにあるもの/こと、ここにあること/ものを、そのままの形で入れて永遠に保存が可能な魔術的な容器。非理であり有理のことば。魔術としての言葉ことばという不思議な容器の中には、人のすべてを保存させることができることばという入れ物の蓋を開けると人のすべてのすべてが溢れ出して来る。

嘘なんかじゃない。開けてごらん。取ってみて。ことばの蓋を。音声としてのことばや形象としての文字のことばにならなくてもいい。まだ、ことばがことばとして見つけられていない、ことば以前のことばのようなものたちが人には必要なんだ。そこにあるもの/こと、ここにあること/もの、を記録するために記憶するために、獣にならないために、必要なんだ。どうしても。

灰/アッシュ/ash/の言葉の時代の現在を書く。人間の言葉が滅亡する只中の今の中で、壊れ失われようとする小さな言葉たちを救出し、言葉の方舟に乗せる。暗黒が方舟を沈めようと幾重にも重なり襲来する波。灰色の暴風雨に視界ゼロ、荒れ狂う暗黒の大海に翻弄される方舟が。しかし、方舟はたゆたえども没しない。灰/アッシュ/ash/から色彩が湧き零れ落ち方舟に溢れ返る

わたしと、未来のわたし/わたしたちが、ささやかに、抵抗を、宣言する。

すべてを尽して全面的に抗うこと、灰/アッシュ/ash/の言葉の時代の現在に〈いろのことば〉Ⅹ〈ことばのいろ〉を、わたしは現実内に投下し解き放つ

21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance/人間の最後の抵抗にして戦い/
生の形式としての言葉、色彩としての言葉/
失われた生の断片、〈単語/ひとつのことば=単色/ひとつのいろ〉を求めて/


No.1/色を探す。/世界の論理がひとりのために風景/光景を新しい色彩で描写する。/、///、〈そこにあるもの/こと,ここにあること/もの〉を描写する色彩が、人間の魂のかたちを記述し救済する。

色/ことばを探す。〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉のために

人類誕生の古来から、21世紀の現在に至るまで、人は色を探し続けて来た。既に無数の色を手に入れ、使うのに必要な色は十分に揃っているはずなのにそれでも人は満足することなく色を求めてきた。理由はその時、その場所で出会った〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉を描写する色彩がわたしたちの地上の世界に存在する無数の色の中に、不可解にもその色だけが欠けているからだ。世界には信じられないくらいの数の多様な色彩が飽和している。けれど、わたしがその時に体験したその色だけがそこにはない。似ているようで似ていない、似て非なる色ばかり。〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉の色彩の予め企てられているかのような欠落。なぜか

奇妙なその謎は人がその時に出会う風景/光景が、いつも新しいこと/ものであるという世界の論理に由来する。わたしたちひとりひとりが異なる声と顔を持つように、ひとりひとりに応答し変容して行きながら開かれる世界が、ひとりひとりのために風景/光景を新しい色彩で描写するからだ。色の既存の世界の中での不在は、世界の論理の不断のアップデートを意味している。

わたしたちは自分自身のために、自分の出会った色を自分自身で見つけ出さなければならない。そして、その色が自分だけではなく、誰かのこころのありよう、あるいは、気持ちを救うことになる。色が人間の魂のかたちを記述し救済する。だから色を探し続けているんだ。過去、現在、未来の時間の中

No.2//色彩としての言葉//メタファーを超越して、色彩は言葉となり、言葉は色彩となる。//ことばとはいろのことであり、いろとはことばのことである。//、

単語とは、喩えるならば、単色となる。単色、つまり、ひとつの色。こうして色を探す人の旅はことばを探す旅となり、同時に、新しいことばの発見は新しい色の発見と重なる。そして、知ることになる。喩えが喩えではなく、メタファーを超越し『単語、それは〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉としての色彩』という意味へと変貌することを。単語が〈そこにあるもの/ことここにあること/もの〉を捕まえる未知なる色彩として出現する

世界の色相が変化し、行き止まりの場所に通路と階段が生まれ、壁にドアが現れる。渡ることのできなかった河に橋が架かり、辿り着くことのできなかった場所と場所が結び付く。世界は立体性を色相と伴に更新し内的なること/ものたちの住処が深く広がって行く。言葉としての色が世界を彩り、色としての言葉が、世界を再(々)/構築して行く。まるでそれは目に見えない耳に聴こえない手に取ることのできない形なき透明な思考が、肌ざわりのある重みもつ物質を纏うように、季節を切り替える折り目のように世界を変更する

ことばとはいろのことである。いろとはことばのことである。

ひとつのことば=「単語から単色」=ひとつの色「〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉の色彩」から「〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉のことば」ひとつのことば//ひとつの言葉とひとつの色の円環//

想像してみてほしい。たとえば、次の色/言葉たちが欠けた世界の様相を。

ビリジアン(Viridian)マゼンタ(Magenta)ウィステリア(Wisteria)
セルリアンブルー(Cerulean Blue)朱、レモンイエロー(Lemon Yellow)ミッドナイトブルー(Midnight Blue)スカイグレイ(Sky Grey)群青、桜
マリーゴールド(Marigold)桃、臙脂、アプリコット(Apricot)などなど

ほんの少しの幾つかの色がなくなるだけで、世界は急速に立体性を失い平板な暗い単調へ崩壊して行く。同じように今、存在しているほんの少しの幾つかの単語が失われるだけで世界の立体性は遺棄される。反転させれば、新しい単語/色彩の発見で世界がより強く豊饒の立体的複雑性を持つことになる。

ことば/いろはわたし/わたしたちの世界が豊饒であることを支持する基盤であり、そのことによって人は人であることが可能となる。言うまでもない。現在進行形の世界の論理のアップデートとして、生の瞬間から湧出する色彩が言葉となり言葉は色彩へとなる。〈ことば/いろ〉の氾濫の中、人が生きる

No.3//生の形式としてのことば///あるいは、生の形式が、言葉(単語と文法の体系)を決定する。//、7000の生きるかたちの可能性/.

生の形式が言葉(単語と文法の体系)を決定する。生の形式としての言葉。言葉とは、わたしたち人間の生のかたちを外部化したものであり、同時に、人間は言葉によって自身の生のかたちを造形する。わたし/わたしたちの生は言葉と伴にある。言葉のない時間と場所に人の生は存在することができない

固有の単語と固有の文法から形成される言葉は、その言葉を使う者たちの生のありようと照応する。現在、7000近くの言語が存在している。それは生の形式が7000存在していることを意味している。わたしたちには7000の生きるかたちの可能性を持っている。少ないのか多いのか不明な7000のかたち。

シンプルに7000のこころ/気持ちのありよう、あるいは、社会のありようを表現する方法が存在している。とすれば、何だか嘘みたいなありえないことのような気がする。でもそれは本当のことなんだ。母語の中で自閉していては気付くことができない。異語を知ることは異なった生の形式を学ぶこと

未来の高度なAIは瞬時に異語を母語に変換してしまうだろう。AIの利便性を否定するつもりは全くない。けれど、生の形式の言葉は根源的に翻訳不能であり、その不可能性の意味を忘れていけない。生の形式は翻訳できない。

そのいろがないからといってそのいろ以外のものがそのいろとしてそこにあることはできない。そのいろはそのいろがゆうするせいのかたちそのもの。

No.4/世界の単一化と言葉の単一化/宗教の言葉と自然科学の言葉の果て、あるいは、生の形式としての言葉の破壊の時代/人間の言葉を使う最後の者たちの時、灰/アッシュ/の21世紀/、

高度資本主義システムが世界の単一化を強要し、結果として言葉の単一化が全世界を覆い尽くす。効率化のために言葉の単一が必要不可欠だという論理

言葉の単一化とは人間の生の形式の単一化であり、行き着く未来は進化の袋小路だ。ホモ・サピエンスの滅亡。高度資本主義システムの傭兵であるSNSが共感を武器にして、共感ならざるものを排除し、自己以外の生の形式の存在への想像力を奪う。自己と異なる生の形式の存在しない世界に、自己をアップデートする力はない。革命はいつも自己を否定する者たちから始まる。

凄まじい勢いで少数の話者の言葉が駆逐されて行く。ひとつの言語が失われることは、ひとつの生の形式が失われることであり、人間の生の可能性が失われることである。失われた単語には人間が生きてゆくために必要な大事な知恵が、目に見えない無形の形で含まれていたことを忘れてはいけない。

わたしたち人間の生には根源的に豊饒性が存在している。人の生の形式は良くも悪くも無限的と言っていい。その無限性に慄き人の生の不定形を怖れ、何かしらの絶対的なるものが必要とされ、人間は神を考案し導出された宗教が世界を定形化し認識し支配した。現在、使用されている言葉の多くが宗教の言葉を起源にした、宗教と不可分の部分を有しているのは避け難き事実だ

21世紀、神の代行として情報が君臨し、自然科学の言葉が宗教の言葉に替わろうとする。宗教の言葉と自然科学の言葉の継ぎ接ぎ的な書割細工的現在の言葉。高度資本主義システムの実行する世界の言葉の単一化の洪水の中で、宗教の言葉と自然科学の言葉がせめぎ合い、生の形式のことばが壊れて行く。生の形式としての言葉の破壊の時代である21世紀。わたしたちは人間の言語が別のものへ移行する途上を生きる者たちとなる。人の言葉を使う最後の者たち。求めること求めざることを飲み込む灰/アッシュ/ash/の21世紀。

人間の言葉は廃棄され、やがて情報処理のコマンド/命令/指示へ変容する。半人工/半自然の中で、灰色の言葉が機械化人と人化機械の濁流を浮遊する。

No.5//単語、文、本/ブック/Book、あるいは本/ブック/Bookとは、新しいひとつのことばのことである。///、未来の単語のために //、

ひとつのことば、ひとつの単語、それだけでは正確に掴まえることのできない出来事がある。だから、複数の単語を集め組み立てひとつの文を作る。でも、足りない。ひとつの文だけでは。そんな時、文を集め組み合わせ文の集まりを作る。しかし、それでもまだ足りない。そうした時、文の集まりをさらに集め結合させ大きな文の集まりを作る。目次を付けて。大きな文の集まりには本/ブック/Bookという呼び名が与えられる。ひとつの単語だけでは掴まえることのできないこと/ものを掴まえるための本/ブック/Book。出来事を記述するためにひとつの単語から出発した言葉が本/ブック/Bookになる。

しかし、人は本/ブック/Bookを作った後に気付くことになる。本/ブックBookは、これまでの世界の何処にも存在していない、辞書の中の語彙には記述されていない、未来の単語のために書かれた長大な文章であることに。本/ブック/Bookとは、新しい〈ひとつのことば〉のことなんだということに。

No.6//単語/ひとつのことば、そして、ひとつの色の深遠/単語そのものより巨大な単語/色の内部構造、あるいは、白の中の虹、黒の中の虹

単語/単色の内部構造は、単語/単色そのものより巨大で複雑であるという事

単語には、巨大な深淵を有する場合もあれば、どこにでもあるありふれたものでありながらも世界を構成する基本的な何かとして、いつものどこにでもあるささやかな光景を切り取りクリップするためのものとして、胸の中へ収めることのできない繊細で切ない気持ちのかたちを崩すことなく掬い取るためのものとして、瞬きの一瞬しか存在しない淡いかげろうのようなこととして、大きく複雑で重量のある硬く錆びだらけの鈍い事象として、単純さと混み入った複雑さと平面性と組み立てられた立体性の単数と複数の事象が、〈ひとつのことば〉/〈ひとつのいろ〉の形をなして複雑に存在している。

単語には、長い時間をかけて人と人が、人と自然が、向き合い戦い共存することから生み出された知恵がぎっしりと詰め込まれている。知恵を単語という仕組み/構築体の中に入れ込むために、単語の内部構造は長い時間をかけて形成された。単語/ひとつのことばは、言葉と人間と宇宙の神秘なる関係性の渦中で、自身の内部構造の核に、宇宙を内包させる非合理を受容してしまう

言葉の魔術性。ひとつの単語が、無数の単語、あるいは、無数の文の集合と等価であるという極大と極小の等価原理。色彩としての言葉/言葉としての色彩。そのひとつのいろもまたひとつのいろでありながら、そのいろの最中に無数のいろいろを含むことになる。白の中の虹、あるいは、黒の中の虹/色

No.7/『新しい〈ひとつの単語/色彩〉』のために書かれている長編小説//、長編小説の誕生の瞬間、小説家によりなされる//。

長編小説は『新しい〈ひとつの単語/色彩〉』のために書かれている。

数十万の文字数の数万の文章を持つ長編小説が〈ひとつの単語〉に収斂する時がある。〈ひとつの単語〉のためにだけ長編小説が書かれるということ。だがその〈ひとつの単語〉はいかなる既存の辞書にも記載されてはいない。

愛、幸せと不幸せ、歓びと哀しみ、誠実と不誠実、悪と善、罪と罰、生と死、残酷と優しさ、暴力、戦争、勝利と敗北、時間、光と闇、風と凪、夜と昼、、辞書に存在する単語が無力で無意味だということではない。しかし、わたしたちの〈そこにあるもの/こと、ここにあること/もの〉に該当する単語は今ここにある辞書には存在していない。現実なんだ。それが。だから、長編小説が書かれる。小説家によって。新しい〈ひとつの単語〉のために。長編小説の誕生の瞬間。世界にまたひとつあたらしいいろがあらわれる瞬間

唯一の〈ひとつの単語〉を見つけ出すために、その唯一の〈ひとつの単語〉の意味する事柄を十全に表現するために、数十万の文字数の数万の文章を書かざるを得ないこと。それは既存の辞書の中の単語が〈ひとつの単語〉として誕生した瞬間の光芒と音響が失われてしまったことを意味している。小説家は〈ひとつの単語〉に、新たなる生命の息吹を込めるために、厖大な言葉を用いて長編小説を書くことになる。辞書の中の言葉たちが、『新しい〈ひとつの単語〉』を創造する長編小説の中の言葉たちとして再生する。小説家とは物語を用いて未来の〈ひとつの言葉=ひとつの色〉を発見する探検家。

No.8//『なくなりそうな世界のことば』/喪失し続ける色・人間的であること//、50個の中のいくつかの小さな単語たち、あるいは、異語が母語を侵犯し、異語に母語が戦慄く。///、

『なくなりそうな世界のことば』(著者・吉岡乾/イラストレーション・西淑)の50の小さな単語の中から、わたしの知らなかったわたしには正確に発音することのできない幾つかの単語を選び取る。未知の単語によって表現される生の形式の断片を、わたしの母語でわたしの方法で語ることにする。人は単語/色というひとつの言葉が、世界の断片そのものであり生を切り取ったものであることを、目の当たりにするだろう。異語が母語を侵犯して行く。

そして、同時に、これらの単語が「なくなりそうな世界のことば」として集められていることに愕然とすることになる。なぜならそれは人の生のありようが「なくなること」を意味しているからだ。繰り返す。言葉が失われるとは文化的な資産が失われるだけではなく、人の生の形式が失われることでもある。そして、無数の色彩がわたしたちの宇宙から消失して行くことになるわたしたち人間は否応なく、意図的に「人間的であること」を喪失し続ける

No.9/21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance来るべき未来の偉大なる〈ことば/いろ/異語Ⅹ母語〉、あるいは、ホモ・サピエンスが、灰/アッシュ/ash/の時を潜り抜け生き延びる唯一の方法として//、

取り戻す、人が人であることを。奪い返す、人間の言葉を。今一度、『なくなりそうな世界のことば』を再発見し、わたしたちの新しい言葉として取り込み、わたしたちの言葉をアップデートしなければならない。情報のツールとしての記号群でしかないAIの言葉には決してできない。生の形式を見掛け的に表象しているだけの今のAI(の延長)には、意味不明の不可能な事柄。

21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance/再生、復活/

小さな壊れ失われる異語と母語を融合し、母語を書き換え〈異語Ⅹ母語〉として再編集する。来るべき未来の偉大なる言語。生き延びる生の形式の断片生き延びる色彩。生き延びる人の生の可能性。生き延びるわたし/わたしたち言葉のルネサンス/Renaissance/はホモ・サピエンスが生き延びる唯一の術譲り渡してはいけない。人間の最後の抵抗にして戦いが、今、開始される。

No.10//空白の中、血が滴る、あるいは、〈HIRAETH/ヒライス〉/もう帰れない場所に、帰りたいと思う気持ち。//ウェールズ語 Welsh/562,000人/ウェールズ(イギリス)/

わたしには帰りたいけど、もう帰れない場所と時間がある。失われてしまった時間と場所。部分的に壊れてしまったのではない。ひとかけらの痕跡もなく完全に破壊されてしまったそれ。空白だけが残される。時折り、遠くの方から風に運ばれて、残像の破片が空白の中で漂うことがある。必死になってそれを掴み取り搔き集めようと両手を伸ばしてみても、淡い夢の如き幻影を掴むことはできない。微かな手触りだけがわたしに与えられる。その感覚があの時間と場所は過去と現在と未来の時空の何処にも存在しないことを告げ刻み込む。それはすべて壊れ失われたのだと、残酷なる者がわたしの耳に。

わたしの中の深く遠い場所で血が滴り落ちている。何度も何度もその流れる血を止めようと試みるのだが、わたしには止めることができない。切り裂かれわたしの体に穿たれた孔を、何かしらの何かで覆い強く塞ぎ血を止めようとしても、血は後から後から塞いだ隙間から染み出し湧き出て来る。溺れるほどの夥しい血の中で、わたしは全身を血の赤の色彩に染めて立ち尽くす

滴り落ちる血と伴にあること。壊れ失われた無数のこと/ものたちの痛み、それこそがわたしが光と闇の混沌の世界の果て、生き延びていることの意味だ空白の中、血が滴る。わたしの生の形式がそこに存在する。われに与え賜えわたしの生の形式を記述することばを。わたしの生の形式を言葉へ導き賜え

〈HIRAETH/ヒライス〉それはまるでわたしひとりのために用意されたことばのような眩暈に似た錯覚に襲われてしまう。母語の語彙の中では見つけることが出来なかった。母語の中に似たような意味を持つ幾つかの単語はあるしかし、意味の内と外の輪郭を正確にそのままの形で当て嵌まる単語はない信じられないことだけど、その単語/色彩が地球の裏側の地に存在している。ウェールズ語/Welsh/の〈HIRAETH/ヒライス〉なぜここに、そのことばが

ウェールズ/Wales/よ、水平線の向こう側に存在するウェールズ/Wales/よ、わが魂を記述する言葉を持つ者たちよ、ウェールズ/Wales/の者たちよ、
ウェールズ語/Welsh/の〈HIRAETH/ヒライス〉を引き継ぐ者がここにいるウェールズ/Wales/ウェールズ/Wales/の裏に存在するわが魂を受けとめよ。

No.11//世界の外/他者を抱擁する、あるいは〈DEBA/デゥバッ〉/手で触ってみるなど触覚を利用して、何かを探す。/ラマホロット語 Lamaholot/200,000人/フローレス島(インドネシア)/

闇の中で、それを探す。手を伸ばして。光が溢れ返る闇。眩い光が満ちているのに、世界は闇の中に沈没するように存在している。わたしたちの現在とは『輝ける闇』なのだ。メタファー/暗喩でもなければ、反語的言い回しでもない。小説家によって書かれた小説の名前でもない。わたしたちの現在の時間のありようの現実だ。情報という光に照らし出されたすべてこそが、わたしたちの生きている世界そのものであるという現代の信仰。生も死もカウントされ数値となり情報となる。本質が情報へと移行し、物語がデータへと変貌する。光と闇の弁証法は書き換えられ、情報としての光の一元論へと統合される。覆い尽くす光が影を外へ追放し、輝ける闇として世界は編集される

目を開いてもそれを見つけ出すことはできない。目を開いて見える事柄とはいかなる意味に於いても、わたしが/わたしたちが/あなたが/あなたたちが観たい事柄でしかない。さらに言えば、目を開き耳を傾け、観える、聴こえる以外の事柄は世界の中に存在さえしていない。欲望の応答で象られた現実。

テクノロジーが極限的にわたしの物理時空を、わたしの欲望で包囲し埋め尽くす。目を開いてそこに存在するすべてが、わたしの欲望という現在の時間

それ。わたしの欲望以外の何か。わたしが観たい、聴きたい、こと以外のそれ。それとは世界の外にある他者の顔と身体と声であること。他者への想像力を用いて、わたしの欲望ではなく他者の身体に触れ顔を観て声を聴くこと

それを見つけること。それと出会うこと。それを抱擁すること。

誰であろうともそれとコンタクトするためには、目を閉じなければならない輝ける闇の中で目を閉じること。目を閉じなければ、辿り着くことのできないことともの。そっと手を伸ばし、手探りでみつけ、掴み取るしか術のない世界の外に存在しているもの/こと。目を開けてはいけない。目を閉じることアクセスする、世界の外に/他者に。抱擁する世界の外を、そして、他者を。

〈DEBA/デゥバッ〉輝ける闇の中で、目を閉じ、手を触れる。戦慄きの瞬間歓喜と哀しみが、わたしの指先から、わたしの内部へ激流として流れ込む。〈DEBA/デゥバッ〉とはわたしがわたしから逃れることのできる唯一の方術

No.12//浮遊するエルフの悪戯、生の混沌の中、瞬間の時の時、あるいは、〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉/一過性の妖精の大群/   コワール語 Khowar/200,000人/パキスタン/

何の予兆もなく忽然と、何かの無数の大群を成した半/透明な小さき者たちによって、わたしが取り囲まれてしまう時がある。わたしの身体の内部と外部の境界を超えて。一瞬の時。真昼の正午の光の中、雷鳴と伴に稲妻に直撃され、全きが体を貫くような啓示的瞬間ではない。無数の半/透明な小さき何かが懸命にわたしの身体を支え、体がふわりと浮上し、地面を足が離れる。

無重力的な幸せの時間。大きな群れの小さき者たちの祝福。予定にない突然のことに驚きながらも、わたしは来るべき時間の到来として祝福を全面的に受け入れる。浮遊しながら。半/透明なる小さき者たちのことを何と呼べばいいのか。怪訝な顔をされることを承知で、古来から伝わる名前で呼ぶならば妖精となる。人間の姿をした精霊であり超自然的存在。いたずらで遊び好きフェアリー(fairy)、あるいは、エルフ(elf)と呼ばれる妖精。そう、わたしは一過性の妖精の大群にいたずらされた体験について話をしているんだ。

わたしが何を言っているのか分かる人はほとんどいないだろう。曖昧な顔をして、この人は何を意図してそんな作り話をしているんだろう、何かを伝えるための暗示だろうかとわたしを疑う人、笑みを浮かべて素晴らしいですねと嘲りを隠すために褒め称える人、真顔になり笑いを押し殺しながら大変でしたね大丈夫でしたかと心配する人、がいるのかもしれない。当然のことかもしれない。でもわたしはまったく気にしない。誰かの共感を求めるために話をしているんじゃない。そうじゃない。人の生の断片の話をしているんだ

浮遊はもしかしたら、わたしの単純な錯覚なのかもしれない。さらに、妖精のようなものたちの存在の鮮烈で繊細な感覚さえも幻影なのかもしれない。でも確かなことは、人が生きているという事柄の中にそうした瞬間が、必ず織り込まれているということだ。瞬間のことをどのように言い表すかは二の次のことでしかない。その瞬間を蔑ろにすることは人間の生の断片への暴力妖精の浮遊遊戯の瞬間への侮辱は、人が人であることへの侮辱と同じなんだ

〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉わたしたちの古き友人たちは瞬間のことを忘れることなく、その出来事にひとつのことばを与えている。意味は/一過性の妖精の大群/となる。〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉わたしの現在の時間の中の母語にはそれに該当することばは存在しない。失われし人の生の断片

忘れずに、言い添えておかなければならないことが一つある。

〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉/一過性の妖精の大群/は必ずしも人に幸せをもたらす存在とは限らないこと。〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉は禍々しい側面も有している。精霊であり超自然的存在である妖精たちの悪霊性。

端的にそれを明らかにするために、わたしは一冊の小説をここに提示する。カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』。“透明な水が深く積み重なり深淵にて暗黒の世界を作り出す”とでも表現するしかない現代世界文学の傑作。『わたしを離さないで』から十年後に書かれた小説。戦いと復讐と償い、罪と罰、愛の物語であり記憶と喪失の物語が、古代イングランドを旅するアクセルとベアトリスの老夫婦の道行きとして限りなく静謐な文体で描写される

長編小説が現代において何を行うことが可能であるのか、わたしたちは未だ長編小説のことをほとんど何も分かっていないことを思い知らされる。大いなる物語の後の長編小説。俳句や短歌などの定型詩でもなければ、詩/ポエトリー/poetryでもなく、短編小説でもないということ。長編小説という身体を必要とし、長編小説という構造だけが、保存することができる固有の時間と空間がそこに存在している。〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉もこの中に

〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉/一過性の妖精の大群/が悪霊的なるものとしてアクセルとベアトリスに襲来する。悍ましきもの〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉が二人を破滅的な危機に陥れる。〈Laskargayb/ラシカルガイプ〉わたしたちの生の形式を顕わすそれは、必然として光と闇の双方を持つ

No.13///マイノリティーとマジョリティーとそれ以外、あるいは、〈nating/ナティン〉/  唯の、普通の、特にさしたることのない/     トク・ピシン Tok Pisin/122,000人/パプア・ニューギニア/

マイノリティーとマジョリティーの戦い、あるいは、人間的であること。

宇宙の存在の根源的なる形態である多様性が本来の意味を失い、多様性がポリティカル(political)として切り取られ、揺れ動く闘争の喧噪の狭間で必死に抗い藻掻いている者たちがいる。多数派の領域に侵入する少数派を多数派が阻止する少数派と多数派の争い。あたかも陣取り合戦のようにと言う者さえ。しかし、そうではない。陣地を取り合っているのではない。決して

多様性は、いかなる意味に於いても、人間的であることの証左だ。誰がどのような理由を設けたとしても、人が人である限りわたしたちはそれを否定することはできない。多様性を巡る戦いは人が人であろうとする者たちと人を人と人以外に区別する者たちとの戦いであるとも言える。偽装と策略が絡み合いほんとうの戦いと見せ掛けの戦いが交錯する。光が闇の姿をして闇が光の姿をして局地戦が展開され、光と闇の混沌の灰色が世界を塗り潰して行く

わたしはその戦いの埒外にいる。

マイノリティーになること。わたしにはできなかった。マジョリティーの海に溶解しわたしからみんなになること、ができないわたしの場所がマイノリティーの何処かにあると。夢見ていた。幻想でしかない。マイノリティーは「マイノリティーというマジョリティー」だった。マイノリティーはマイノリティー以外を強く激しく厳しく排除する。マイノリティーには厳密にマイノリティー以外の居場所はない。マイノリティーになることもマジョリティーになることも拒否された。わたしの場所は世界の中の何処にも存在しない

わたしだけではないはずだ。きっと。マイノリティーになることもマジョリティーになることもできない/できなかった者たちが、わたしたちが生きている世界には厳然として存在している。多数でも少数でもないそれ以外の者たち。マイノリティー、マジョリティーにはわたしたちは存在しない存在でしかないのかもしれない。名もなき存在しない存在に、はみだした者たち、埒外の者たち、あるいは、追放された者たちとささやかな呼び名を与えよう。

マジョリティーとマイノリティーに区分され色分けされようとする世界に、わたしたち〈はみだした者たち、埒外の者たち、あるいは、追放された者たち〉がわたしたちの場所を見つけること、あるいは、作ること。可能なのは世界の外だけかもしれない。仮にそうであったとしても、わたしたちはひとりではない。そう、わたしたちマジョリティーでもマイノリティーでもない者たちは確かに存在している。マジョリティーとマイノリティーの戦いの外

時が来る。世界を取り巻く壁が崩壊し、外と内の境界が無くなる。世界の外から世界の中へ、内と外の区分なき場所へ、その日、わたしたちは帰還する

晴れた日。壁が瓦礫となり、境界が消失した場所に、地平線があらわれる。

マジョリティーでもマイノリティーでもない者たちとマジョリティーとマイノリティーは争うのか? 違う。そうじゃない。わたしたちは違う者たちとして、わたしたちは手を取り合うことになる。特別ではない者たちとして。

〈nating/ナティン〉/唯の、普通の、特にさしたることのない/の者たち。
わたしたちは、小鳥たちのように〈nating/ナティン〉とさえずり、集う。

No.14///殺戮の単純さと非・殺戮の複雑さ、 あるいは、〈VEVARASANA/ヴェヴァラサナ〉(どこにいても)分かり合える//、ヘレロ語 Herero/200,000人/ナミビア、ボツワナ/

わたしたち人間が分かり合えたことがこれまでにあったのだろうか。一度でも。ほんの少しだけ人類の歴史を振り返れば、そこにあるのは血の沸騰する殺戮の荒地の季節だ。殺し合いの隙間の平穏な時間。まるで、次の戦のために用意された休息の時のように。昼の光の中で戦い夜の闇の中で眠る。目覚めれば白の戦場、眠れば黒の悪夢。鉄とコンクリートと人の肉が燃え上がり暗黒の匂いを充満させた煙が霧のように街々に染め漂う。一瞬の裏切りと擦れ違いと怒りが導火線となり世界が火の中に投入される。復讐と怨恨の祝祭無限に連鎖される殺戮。後には廃墟の残骸の集積と無数の分解された身体。

分かり合うことの困難さと、分かり合えないことの容易さ。
殺し合うことの簡単さと、殺し合わないことの難しさ。

それでも、そうだから、だからこそ、人は他人と分かり合うことを求める。近寄れば近付くほど遠くへ後退してしまう、向こう側へ辿り着くことのような不可能の困難と知りながらも、分かり合おうと他人へ手を差し伸べる。
〈VEVARASANA/ヴェヴァラサナ〉/(どこにいても)分かり合える/「本来は「彼らは(あるいは、人々は)尊敬し合う」という意味の動詞」/

わたしたちはいつまでもこれまでのように愚かではない。そうではない。〈VEVARASANA/ヴェヴァラサナ〉〈VEVARASANA/ヴェヴァラサナ〉

何度でも繰り返す。〈VEVARASANA/ヴェヴァラサナ〉

No.15//四季、そして、地球の記憶、あるいは〈SKABMA/スカーマ〉/太陽の出ない季節//、サーミ語Sani/35,000人/スカンジナビア半島、フィンランド、コラ半島(ロシア)/

地球の記憶として、四季の記憶は保存されなければならない。地球の日々の

四季、それは夜と昼の巡る一日と同じように、生命の円環性として人のこころのありようとして存在している。春と夏と秋と冬。季節であると同時に、人のこころのありようのかたちでもある。だから、人は季節を大切に愛しみ季節の中で暮らすことになる。季節は単なる傾いた地軸を持つ惑星の自転と恒星を回る公転から生まれる、惑星のエネルギーの授受の形のことではない

季節を蔑ろにすると後で酷い目にあうことになってしまう。それは凄く重要な意味のあることなんだ。四季が現代の現実の中で失われざるを得ないとしても、四季を失ってはいけない。仮定として地球が最後の日を迎えるとしても、四季の記憶を手放してはいけない。保存される地球の記憶としての四季四季とは地球の記憶と重ね合わされた、人類の魂のかたちの記憶なのだから

〈SKABMA/スカーマ〉太陽の出ない季節/生命には厳しい冬の季節。しかし〈SKABMA/スカーマ〉は存在する。ピリオド、終わりにして始まりの前。〈SKABMA/スカーマ〉内的なることに人が向き合う時、必要な静謐な闇。

No.16//生と死の大いなる回路、あるいは、〈XANJI/ハンジ〉/生まれ変わり/ハイダ語 Haida/100人以下/カナダ、アメリカ/

死についてわたしたちは何も知らない。死がもたらす災厄について語ることはできるのかもしれない。だが、それがほんとうは何であるのか分かる者は誰一人としていない。死は死者のものであって、生者のものではないからだ死後の世界について古代から現代に至るまで数え切れないほどのことが語られて来た。死後の世界が生者の幻想でしかないとしても、わたしたちは思わずにはいられない。生は死と伴にあり死は生と伴にあり死者は生者と伴に。

〈XANJI/ハンジ〉/生まれ変わり/を幻想と割り切ることもできるのかもしれない。しかし、それを死者と生者をつなぐ回路とすれば、幻想はにわかに色めき立つ。生と死の大いなる回路としての〈XANJI/ハンジ〉/生まれ変わり

〈XANJI/ハンジ〉こちら側とあちら側を往来する通路。避けることの不可能な死の避け難さから飛来する痛みへの抵抗として、死を避けることなく生と死の円環の中に取り込み、死を四季の季節のひとつとすること。人間の生み出した知恵のひとつ。死者は生まれ変わり、再び、生者と会うことになる。

生まれ変わりが幻想であり作り話でしかないとしても〈XANJI/ハンジ〉は死への厳粛なる向き合い方のひとつだとわたしは思う。〈XANJI/ハンジ〉生まれ変わり/死は生者から死者のすべてを奪うことはできない。侮ることなかれ

No.17//空からの災厄と恩寵、厖大な量の微細あるいは、夢の中の現実と現実の中の夢、    〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉///莫大な量の小さい何かが降る/ドホイ語/80,000人/Dohoi/カリマンタン島(インドネシア)/

地面を踏み足で立つ。足許には柔らかな、あるいは、硬いかたちある地がありわたしの足のありかを定めてくれる。頭を傾け瞳を上に向けると、空が。軽くジャンプしてつかもうとしても届かない。空をつかめない。広がる空。かたちなき空が。かたちなきものがかたちのなさでわたしのぜんぶをおおう

果てしなき空とかたちある地に挟まれ、わたしは一日を開始し終了させる。白い雲ひとつない青の光の空の下、あるいは、流動する混濁の灰と白の雲の下、さらに、刻々と色相と彩度と明度を変容させる昼のはじまりの朝と夜のはじまりの黄昏の空の下、わたし/わたしたちを一日が通過して行く変転する空と変転する/しない地の間で、わたし/わたしたちの時間が駆け抜ける。

雨が降る。空から。雨粒が空の何処で誕生し、空の何処から雨として地上に注がれるのかは不明。雨が降り地上が濡れる。空の内部に生まれし水の粒が降り注ぐ。わたし/わたしたちは空の内部で生まれしものたち、あるいは、空の内部に何処からか運ばれしものたちが降り注ぐ地上で、時間を進行させる

〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉/莫大な量の小さい何かが降る/「雨が大量に降るのはこの地域では普通なので、雨が降るときにはこうは言わない。めったに降らない小さなものが、莫大な量降り注ぐときに、この表現が用いられる。たとえば植物の種とか。たとえば虫とか。」

『なくなりそうな世界のことば』〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉P051より引用

〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉空から地上に降り注ぐそれらの無数の小さきものたち。わたし/わたしたちはその事柄について、何ひとつ決定することはできない。わたし/わたしたちにできることは、地上に降り注ぐ無数の小さきものたちを全身に浴び、時間を進展させること。災厄と恩寵。

〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉受け入れるしかない。時に、直截的に災いの火として、恩寵の水として。時に、迂曲的に災いの姿をした恩寵として、恩寵の姿をした災いとして。莫大な量の小さい何かが地上に降る

〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉奇妙な突然の出来事。現実の中の夢であり、夢の中の現実の出来事。〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉が小説を駆動する事象として現れる。村上春樹の『海辺のカフカ』災いでもあり救済でもある〈BOROSOKOMODAP/ボロソコモダップ〉。それは、わたし/わたしたちの地上の時間に変形作用し、時間の進展の分岐点となる。

No.18//亡霊たちとの夜の饗宴、あるいは、〈DIDXBAE/ディジュベー〉///、乾杯 ///、     テオティトラン・デル・バイェ・サポテク語 Teotitlan del Valle Zapotec/5000人メキシコ/

集う。食器の触れ合う硬質な音、意味を聞き取ることのできない潮騒のような幾重にも複合する会話の言葉の波、無数の皿に溢れるほど盛られた料理、客たちのテーブルの間を凄い速度で回遊する給仕たち、怒号と叫び声の飛び交うキッチンの混沌の中、鍋とフライパンに投下されし包丁で細片に刻まれた肉と魚と野菜が、秘伝のソースと香辛料を纏う火と水の祝祭を司る料理人食こそが、人間の最大にして最高の欲望であり悪徳であり、すべての起源!

〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、集い、食べ、飲む、開始の合図〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、仲間たちと肩を組んで、歌の中へ〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、親しき者たちとテーブルを囲み、さぁ〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、二人、密やかに、二人の蜜時間のため

〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、ひとりだけで、光の中で、闇の中で〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、幾多の壊れ失われし彼方の者たちと〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、失われた時間と場所、亡霊たちと伴に〈DIDXBAE/ディジュベー〉/乾杯/、亡霊たちよ、ありがとう、さよなら

No.19//始まりの形、終わりの形の球、///、   あるいは、〈SING/シン〉/手足を縮めて身をコンパクトに畳んだ/ドマーギ語Domaaki/100人以下/パキスタン/

球。始まりの形であり終わりの形。生まれる時のかたちと死ぬ時のかたち。球形の空間の中に手足を折りたたみ身体を入れる。球に擬態する身体。生誕と死が模倣される。宇宙の漆黒の虚空に投げ出され漂流する球。目を閉じて眠れば、夢の中に永遠と一瞬が飛来し、出発の時間が巻かれ、到着の時間が解ける。まどろみの波打ち際で混沌を内包した秩序の形、球へ収束して行く

立ち上がり二足歩行する手足を持つ人という獣の身体が、球形を構築する。ひとつひとつ数えればきりがないほどの人の恰好の中で、その恰好が醸し出す気配はまるで生命の進化の過程の逆転劇の一場面を観ているかのようだ。進化の彼方の場所で始祖の記憶が甦り、人という獣の身体が球形へと返還される。わたしたちの記憶には全生命の記憶の断片が今も尚保存されている。

〈SING/シン〉/手足を縮めて、身をコンパクトに畳んだ/、生と死の恰好を長い時間をかけて遠くへと押しやり避けて来たわたしたちには〈SING/シン〉に相当する語彙は現在では無い。とわたしは思う。それが生の側面を持っているとしても、とらえかたによれば、〈SING/シン〉は視界の外へ排除すべき不穏なものなのかもしれない。でも、結果、何か重要で大切な事柄が視界から消えてしまった。わたしたちの母語がなくしてしまった〈SING/シン〉

しかし〈SING/シン〉は生き残っている。/手足を縮めて、身をコンパクトに畳んで身体を球にしよう。静かに目を閉じれば〈SING/シン〉の意味が分かる。〈SING/シン〉とは始まり/生まれる時間であり終わり/死ぬ時間である

No.20//その他の〈12個のことばからなる物語の断片のような〉、あるいは、長編小説と短編小説を/永遠と一瞬を/ささやかなることと遥かなることを/内包してしまう単語//..について。

1. RURUQ/ルルン/豊富に実っている農作物が大量になっている/                              アヤクチョ・ケチュア語Ayacucho Quechua/90,000人ペルー/

RURUQ/ルルン/と口にするだけで、穂の波が地平線の彼方まで揺れ動く。

2. Onddoka/オンデョカ/キノコを採りながら/              バスク語/Basque/714,000人/スペイン、フランス/

Onddoka/オンデョカ/まるで、ことばのきのこ、のような不思議な響き。Onddoka/オンデョカ/森の不思議、きのこを採る。毒きのこにご注意!

3.OYBON/オイボン/湖または川の凍った水面に開けた穴/          サハ語/Sakha/450,000人/ロシア/

水面の上を歩いて、氷の表面に穴を開ける。穴の中では水が揺れ魚が泳ぐ。OYBON/オイボン/氷の国、秘密の垂直の通路。椅子に座った釣り人OYBON/オイボン/から魚を釣り上げる。誤ってOYBON/オイボン/に落ちないように

4.BOTHANTAIOCHT/ボハーントィーアハト/気晴らしや噂話のた     めに家を訪ねること/                       アイルランド語/Irish/138,000人/アイルランド島/

特に理由もないのだけど誰かと意味のない話をするために他人の家に行く。役に立たない無駄なよもやま話、うん、役に立たないことってとても大事だよね。役に立つことだけで世界は作られているわけではない。賢者の知恵。BOTHANTAIOCHT/ボハーントィーアハト/不必要の不可欠性の長い言葉。

5.OOL/オオル/山から吹き降ろす、湿気を含んだ西風/          アミ語/Amis/30,000人/台湾/

風の名前、OOL/オオル/、OOL/オオル/だけでなく、世界中でひとつひとつの風に細かく名前が付けられている。風は目に見えないのにいつも固有の顔を持っている。その風とあの風は同じ風でも違う風なんだ。だから名前が違う。わたし/わたしたちはいったいどれだけの風の名前を知っているのだろう

6.SISIN/シシン/吉鳥 鳥占いに登場する鳥/              セデック語/Seediq/10,000人以下/台湾/

偶然と必然の迷路で立ち往生した時に、道しるべを鳥に託し、未来を予言してもらう鳥占い。空を自由に飛んでいる鳥が身近にいることが、前提として必要なんだけど、もはや都市にはつながれた犬(のような生きている玩具)しかいない。路を横切る猫さえもフィクションの中にしかいない。SISIN/シシン/が懐かしき未来の風景の中、吉鳥としてわたしの前で翼広げ星を獲る。

7.WINEKJENAJETGEL/ウィヌクジュガージュトゥグル/7月末か     ら8月初めに、種雄トナカイが、角を磨くときの暑さ/        コリャーク語/Karyak/2,000人/ロシア/

WINEKJENAJETGEL/ウィヌクジュガージュトゥグル/呪文のような言葉が夏の暑さを意味している。しかも、トナカイの角磨きの映像と伴に。ほら、頭の中でトナカイの角磨きの様子を想像してみれば、夏のあの暑さがよみがえる
芭蕉もWINEKJENAJETGEL/ウィヌクジュガージュトゥグル/と同じように「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んでいる。冬の極寒の中の静寂と夏の暑さの外へ開かれた沈黙。夏の記憶はいつも風景とともに、わがこころに。

8.BIJIN/ビジン/そのままに、しておけ、放っておけ/            ウルチャ語/Ulcha/100人/ロシア/

BIJIN/ビジン/大丈夫、それで。無法地帯と無法時間。束の間でしかないけど

9.TSIWOX/ツウォホ/寝る前におやつを食べる/             ツィムシアン/Tsimshian/100人/カナダ/ツィムシアン語族海岸     語族派/

TSIWOX/ツウォホ/、夜食なんて無粋な言い方はしません。寝る前におやつを食べる。おやつを食べる、寝る前に、あああ、そんなことしてはいけないと思っていたわたしは、これを機に正しくこころを入れ替えて、今日からツウォホ/TSIWOX/することにしました。誰かに咎められたら、TSIWOX/ツウォホ/も知らないんだと軽蔑してやることに。TSIWOX/ツウォホ/善きことなり

10.COUGUMIATU/チョウグミャートゥ/魔物/               ウデヘ語/Udihe/100人以下/ロシア/

弱点がある魔物、COUGUMIATU/チョウグミャートゥ/、自然と共存する人間の知恵の産物。COUGUMIATU/チョウグミャートゥ/魔物/を幻想、迷信、無知と切り捨てると、自然である物質から猛烈な反撃を受けることになる。COUGUMIATU/チョウグミャートゥ/は21世紀の現代も姿形を変え実在する

11.ULHQWU/オヒュコ/貝を掘る/                     スライアモン語/Sliammon/10人/カナダ/

「貝を掘る行為にだけ、特別にこの語を使うのだ。」Onddoka/オンデョカ/キノコを採りながら/もそうだけど、自然の中から恵みを捕まえる狩猟的な行為には何処か秘密めいた生命の交換の熱狂と厳粛がある。貝もキノコも狩られてその場で叫び声を上げるわけではない。しかし、生と死は存在している人は言葉を作り、その事柄を他の事柄と区別し、祝祭の事象として記憶する

12.MARAMIKHU/マラミク/死後の世界、夢/                大アンダマン混成語/Mixed Great Andamanese/0人/アンダ       マン諸島(インド)/

『なくなりそうな世界のことば』は「RURUQ/ルルン/豊富に実っている、農作物が大量になっている様/」から始まり「MARAMIKHU/マラミク/死後の世界、夢」で終わる。生から死へ、そして、死から生へ。RURUQ/ルルン/からMARAMIKHU/マラミク/へ、MARAMIKHU/マラミク/からRURUQ/ルルン/へ単語は単だけど孤立してはいない。円が無数の色彩を迸りながら回転する。

No.21//『なくなりそうな世界のことば』の話はここまで/語り終わらなければならない//、終わりなきことを終わりあることばによって/わたしが『新しい〈ひとつの単語/色彩〉』の生誕のために、小説家となることが論理の必然であるとしても//、

長編小説と短編小説を/永遠と一瞬を/ささやかなることと遥かなることを/そのままに内包してしまう単語についての〈物語の断片のような〉話はひとまず終了する。『なくなりそうな世界のことば』を巡る話はここまでとしよう

異語の単語の力を解放しようとする試みが、単語の内部へと人を導き出現した物語/感覚/思考の断片が共鳴し連鎖的に相互反応し、巨大な立体の骨格を要求し始める。組み立てられ長編小説(的な何か)へと変貌しようとする。わたしを長編小説の誘惑から守るためには、一旦、切断するより他はない。

わたしが『新しい〈ひとつの単語/色彩〉』の生誕のために小説家となることが論理の必然としても、しかし、今、わたしは小説家になるべきではない。

いずれわたしは長編小説に捕獲されてしまうだろう。小説家になること。避け難き試練/苦難として。内的なる〈ひとつの単語/色彩〉が書かれることを待っている。長編小説が長編小説として出現し『新しい〈ひとつの単語/色彩〉』が誕生するために供儀として、小説家の身体が否応なく必要とされる

残された時間の中で、小説家以外の者として、語らなければならない。

わたしが長編小説を書く時は、今、ではない。その前に、抵抗としての、21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance/を語り終わらなければならない。終わりなきことを、終わりあることばによって、語り終わらなければならない

No.22/21世紀の言葉のルネサンス/現在進行形の終わりなき旅/..母語が母語でなくなり異語は異語でなくなる。/異語と母語の境界が溶解し始原のことばのまどろみの中へ//、

異語の単語を母語で語ろうとすると、母語が解体され母語が母語ではなくなり異語は異語ではなくなる。異語と母語の境界が溶解し、始原のまどろみへ

まるでそれは地平線の彼方まで褐色の砂漠の中に、忽然と緑の樹木が生い茂る森が出現する様、あるいは、見渡す限りの周囲が水平線の向こう側まで海の青と空の青に挟まれた小舟の前に、突如と隆起する水面から赤い印を刻んだ黒い潜水艦が浮上する様、さらに、灰色のコンクリートの建築群と黒灰色のアスファルトの迷路から成るモノトーンの都市に、不意に満開の無数の桜の花びらが風に渦となり巻き上がる様。そう。わたしたちの世界はわたしたちが思っているような色/かたちだけではない。わたし/わたしたちの可能性 

溶け合わされた異語と母語からなる異語でも母語でもない〈人間のことば〉そのわたし/わたしたちの可能性についての話は、また、次の来るべき時に。わたし/わたしたちの生の形式は、誰一人想像できない未踏の領域へ向かう。

だが、失われた生の断片、〈単語/ひとつのことば=単色/ひとつのいろ〉を求めて、生の形式としての言葉、色彩としての言葉を探す旅、21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance/は終わらない。人が人であることを破壊し、人ならざるものへと変貌させようとするすべてのこと/ものたちへの抵抗として、人が人であろうとする限り、現在進行形の終わりなき旅として存在する21世紀の言葉のルネサンス/Renaissance/とは人間の最後の抵抗にして戦い

/あとがき/0/わたしをわたしの欲望から守ってわたしの最大の敵はわたしの中にある。//書物という怪物、あるいは、書物の生餌のわたし。

わたしはわたしの欲望に飲み込まれてしまうので、できるだけ、本屋さんには立ち寄らないように注意している。本を前にしてしまうと、わたしの理性は熱せられたバターのように溶け出して耳から流れ出してしまう。少しだけ見るだけだからほんの少しだけ触れて読むだけじゃないかとわたしの欲望が巧妙に誘惑する。わたしは呼吸を止めて断固とした意志で本屋さんの前を駆け足で走り抜ける。息を整え今日も本の欲望から逃げることができたことに安堵する。時々、いつからこうなったんだろうと考え込んでしまうけど。

書物への欲望こそがわたしがわたしであることの理由だ。でも、それがわたしを襲いわたしを破滅させる。わたしが書物を読んでいるのではない。書物がわたしの想像力を求めわたしを喰らっている。書物の生餌としてのわたし

わたしをわたしの欲望から守って。わたしの最大の敵はわたしの中にある。

/あとがき/01//怪物として破壊される〈書くこと/読むこと〉の全的な守護者として/..今現在本、あるいは、ことばとの偶然の遭遇は、メッセージを届けようと都市の海原へ本を投函する者たちの唯一の砦、滅亡の途上の現実の本屋にしか残っていない。//、

人が悪であり人が善であり、人が人であることの始まりにして終わりであり根源であることば/本。わたしの欲望の中心に位置し君臨し、わたしを支配するそれ。想像力のすべてを捧げるより他ないそれ。怪物の相貌を有するそれしかし、それでも、いや、そうだからこそ、全的に守らなければならない。

ことば/本、こそが、怪物の顔を持つそれこそが、人が人である根拠なんだ。

平然と公然と躊躇なく侮辱され破壊される〈書くこと/読むこと〉。〈書くこと/読むこと〉を壊すことを許さない。守護者として。無力で非力であっても

『なくなりそうな世界のことば』は新刊ではない。第1版第1刷発行は2017年8月。第1版第5刷発行は2022年6月。去年の冬、出版社の創元社が参加していた小さなブックフェアの一冊として、本の表紙を面にして本屋さんの書架に並んでいた。わたしは本屋さんで偶然見つけ何気なく手に取った。しかし、直ぐにイラストレーションの美しさとことばたちの不思議さに虜になり気が付いたら本を手にしていた。この本をいままで知らなかったなんて。そんな

インターネットで簡単に本が購入できること、本の題名と著者が分かれば的確に検索できること。本を巡る環境は大きく変化した。しかし、本の題名、著者、どころか内容さえも分からない本を見つけることは不可能という現実「あなたへのおすすめ本リスト」が自分の購入した本のリストと極めて似ているという自閉的な現実。限定された情報を根拠した誘導の貧しさ。これまでに一度も閲覧していない読んもいないはじめての本との遭遇は、偶然が排除された効率の支配するインターネットの情報空間では奇跡的事柄となる。

多数の中の誰かへメッセージを届けようと、都市の海原へ本を投函する者たちが、僅かに本屋という砦に生き残っている。少なくとも今現在、出会ったことのない本と出会うことができるのは、滅亡の途上の現実の本屋だけだ。

生き延びるための本/ことばの投函に対する、返歌として、わたしはnoteの記事を書いたとも言える。ひとりでも多くの人に、小さな、でも、深く広い、この本のことを知って欲しい。そして、生の破片を、救出してほしい。

/あとがき/02//『such and such』和合亮一/「主人よ、棒を投げてくれ、あるいは、」//..他者の内的なるもの/ことの声を聴くための、モノローグ/、『such and such』明示もしくは明言できないもの //../..

such and such
such and such
such and such

2023の終わりから2024のはじまりにかけてこの長いnoteの記事は書かれた純粋なモノローグとして。わたしの中の内的なること/ものに、今一度、耳を澄まし目を凝らすこと。語り得ないもの/ことたちを言葉で正確に記述すること。他者の内的なるもの/ことの声を聴くために行われるモノローグ。自身の内的なること/ものを観ることのできない者たちに、他人の声は聴こえない。

2023/12から2024/1のいくつかの予定外と予定内の泥まみれの時間に足許を揺るがされ漂流するように今に。『such and such 』、和合亮一さんの最新の詩集が、その間、ずっとわたしのとなりにいて、わたしにくりかえし勇気を与えてくれた。『such and such』がなかったら、noteの記事は書かれることはなかった。ありがとう『such and such』、ありがとう和合亮一さん

such and such

『such and such』これこれしかじか/明示もしくは明言できないもの/。『such and such』のことは書かない/書けない。でも、少しだけ引用を。

野蛮に
真っ青になっていく天
棒 あがった
この時だ あなたは
踏み切りを渡らないのか
消滅している列車を前に
立ち尽くすしかないのか
雨の無い
豪雨のただなかに
あなたはあなたの影を
探している

『such and such』/和合亮一/「快晴」より引用

書くことは、
闇のただなかで息を潜めることに等しい。
そして、
はるかかなたにあれのありかをたずねようとすることによく似ている。

『such and such』/和合亮一/「わたしは詩を書かない理由です」より引用

靴の裏側で、ずっと泥の言葉に追いかけられてい
た虹の一つ、二つが散々に踏まれてしまって。
ばらばらの破片が組み合って、目の前の光景になる時、はるか
かなたの踏み切りを、忘れてしまった私たちという四つ足が、
果たして渡ったのかどうか、飼い主が、飼い主をさ、
飼い主が、飼い主を探しているような時代に。さ。
四つん這いになるしか、四つん這いになるしかないのか。
主人よ、棒を投げてくれ、あるいは、

『such and such』/和合亮一/「主人よ棒を投げてくれよ」より引用
such and such / これこれしかじか

目の前に存在する不可視の踏み切りを横断するために、生の形式の破片を寄せ集め、色彩としての言葉を携えて、〈了〉

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