「言語が消滅する前に」(千葉雅也×國分功一郎)、浮遊する空中の言葉たち、 その声が聞こえて来る切り取られた空中あるいは、抽象的で具象的なもの
No.1:切り取られた空中、言葉の浮遊する宙、あるいは、抽象であり具象であるもの
言葉が発せられる。二人の哲学者の口から。空中の言葉たち。言葉が空中で交わる。あるいは、擦れ違う。それらは戦い争い競い合い手を取り合い抱き合い、融合と分離を繰り返し、ひとつ、ふたつと、未完成と完成を混ぜ合わせ、形と構造を生み出してゆく。時に、それらの言葉たちは絡まり混乱し行き先が定まることなく、分裂した縺れたまま地上に落下する。時に、それらは飛行するための形と構造を得て、小さく羽ばたきながら空へ舞い上がり、彼方へ姿を消して行く。無数の言葉たちが無数のベクトルの中で空中を浮遊する。言葉たちが囀る空中。空中の言葉たちの声が聞こえて来る場所。
切り取られた、言葉が浮遊する空中。言葉が交わるためでもあり、擦れ違うためでもある空中。地上ではなく、空中であること。「限定のため」ではなく、「浮動のための」言葉。空中に放たれ飛行し動く言葉。空中の言葉たち
そして、その言葉は「個別的であり、同時に、抽象的である」ものとなる。個別的、具体的、現場的な事例を考えるために、「極度に」抽象的であること。「極度に抽象的であることによってこそ、個別的な事例の現場に届くことがありうると信じているからである。その意味で私たちは事例ごとに、事例に則して抽象的な話をしている。」(P003 國分功一郎さんのはじめにより引用)さらに、それは「原理はあるともないとも言うことも考えることもできない」(同上より引用)となる。
抽象の中に具象が内包され、具象の中に抽象が内包される。絡み合った具象の中から複数/単数の抽象が姿を現わし、無数/ひとつの抽象の中に重ね合わされた具象の姿を観る。光の中に闇が忍び込み、闇の中で光が瞬く。論理の中に非合理が入り込み、非合理の中で論理が組み立てられ、世界の歴史がごうごうと轟音を立てながら回転する。
入れ子細工のように抽象と具象が、光と闇が、論理と非合理が交互に内包しながら存在する世界の存在のありようの重層的立体的複合性。哲学はその存在のありようと伴にある、その感覚。単層的平面的単一性に抗う哲学の感覚。哲学のその感覚とその方法。
世界の重層的立体的複合性を解き明かす、その哲学を可能とさせる言語。抽象でありながら、限りなく具象でもあり、光と闇、そして、論理と非合理を垂直に横断する哲学者たちの言葉が空中に跳躍する。
No.2:「存在の別のしかたとして」(注1)、「言語が消滅する前に」(千葉雅也×國分功一郎)を、「もう一度、変身する舞踏へ」(注2)
「言語が消滅する前に」(千葉雅也×國分功一郎)を分解して、別のかたちで別の名前で保存する。「生煮えの変化途上」の私の支離滅裂な意味不明な思考断片を、言葉の欠片の並列と伴に。当然の結果として、これは、「言語が消滅する前に」(千葉雅也×國分功一郎)を公平に切り分けたものでもなければ、正確にその部位を分類したものでもない。批判でも建設でも代案でもなく。
「仮固定して」「低くジャンプして」「身体を震わせ舞踏し変身する」、 実戦のための錯誤の断片として。
「批判でも建設でもない存在の別のしかたとして」(P203/13行)「固まった主張ではなく、変化の途上で仮固定された実践のきらめきである。」(P204/5行)「哲学断片のような形で、体系化されざる何事かを試運転する。」(P205/3、4行)「僕が感じたいのは、変身のダイナミズムなのである。」(P205/15行)「こうした出来事の明滅は、不随意な身体の震えのようである。震え、舞踏の萌芽としての」(P206/16、17行)「低いジャンプで、低い超越で、思索の手掛かりを掴みとる」(P206/18行)(注3)
(注1、2、3)「意味がない無意味」(河出書房新社)Ⅳ言語 収録、「批判から遠く離れて-2010年代のツイッター」(初出:「一冊の本」第19巻6号、朝日新聞出版、2014年6月)より引用
これらの言葉は、千葉雅也さんの2018年刊行の「意味がない無意味」より引用。2014年のツイッターについての言葉。それらの言葉たちは、全然、古びていない。そして、いくつかの勇気も与えてくれる。ほんの少しの間、「生煮え」であることと、辻褄の合わない意味不明なものであること、を容認すること。それを「仮固定」として、「ジャンプ」すること、「変身」すること。試行錯誤の不定形な舞踏を怖がらないこと。「舞踏の萌芽」を摘み取らないこと。断片を断片として、散乱させること、変身のために。
No.3:〈能動×受動×中動×プロセス×依存症×責任×法×スピノザ×デカルト×近代〉、あるいは、整形手術的融合したスピノザとデカルトが、遅延する永遠の現在をアキレスのように途上の生の只中で生きる。
「「回復とは回復し続けることだ」と言います。回復という病気の状態から健康という状態に移行することのように思ってしまうんだけど、そうではなくて、ただ回復していくというプロセスだけがあるんだ、と。ところがそれがうまく理解されない。」(P21國分)/「僕は依存症からの問いかけは、ある意味で哲学への挑戦だと思ったんです。20世紀には哲学の中で、近代的な責任主体、つまり意志を持って自発的に物事を選択して生きていく理想的な人間像というものの虚構が批判されてはいた。けれどもそれはある意味では批判に留まっていた。でも依存症に日常的に向き合っている人たちには、それがましく生きられた問題としてあった。意志や近代的主体を批判するだけでなく、まさにその先に進まなければどうにも対応できない課題に直面していた。」(P21、22國分)/「二項対立では説明できない「やってしまっている」という状態が中動態の具体的で現代的な問題として出てくる。そこから、「する」「される」ではない次元、プロセス的な次元をどう考えるかという旅に入っていく」(P22千葉)(「言語が消滅する前に」より引用)
/平面の中の二項対立を垂直に立ち上げ、ベクトルを立体性の中に解放する。対立から捻じれへ、捻じれから交差と擦れ違いへ、交差と擦れ違いから交点と無限遠点へ。矛盾でも止揚でも構造でも差異でもなく。平面の中の二項対立を哲学の言葉が世界の重層的立体的複合性の中で、星座として組み立て直す。別の角度から見える星座の別のかたち。動く変転する星座として。/
/受動と能動、主体と客体。主体が客体を変容させる能動と、客体が主体によって変容させられる受動が裏返る。客体を変容させるために主体が変容し、変容した主体によって客体が変容する。/
/「する」が「される」になり、「される」が「する」に変転する。能動が受動となり、受動が能動となる。反転し入れ替わる主体と客体、あるいは、入れ替わる図と地。主体の中の客体、客体の中の主体。〈遊〉的存在としての主体と客体が〈遊〉的に互いを飲み込みながら動く。/
/責任回避ではなく、個としての否定と肯定でもなく、宿命として、主体と客体の重層的立体的複合性を、世界の中の〈わたし〉という個が全面的に引き受けること。/
/スピノザを否定するのでもなく、デカルトを否定するのでもなく。スピノザの中にデカルトを観ること、デカルトの中にスピノザを観ること。スピノザとデカルトの整形手術的融合。近代は、決して、単層的平面的単一性ではない。現代においてそれが先鋭化されているとしても。/
/アキレスと亀。永遠に亀に追いつくことのできない英雄アキレス。到達することのない到着地。ゼノンのパラドックス。パラドックスとしての人間の存在。無限と収束。終わることのない過程。引き延ばされ遅延するアキレスの永遠の現在。亀を追い続けるアキレスのように生きること。/
/あるいは、途上としての人間の生のかたち。比喩ではなく人は不合理を生きているということ、その生のかたちとありよう。論理は終わっても行為は終わらない。整形手術的融合したスピノザとデカルトが、遅延する永遠の現在をアキレスのように生きる。その途上の生のかたち。/
No.4:〈自由×非合理的な意志×ゼロからの意志×無からの創造×奇跡×中断〉、あるいは、有限の合理としての哲学と、無限の非合理としてのアート(芸術)の統合の夢、切断でもなく連続でもなく中断するイエス
「そうなんだ。合理主義というのは必ずどんなことにも原因があると考えるから。だから、ゼロの出発点としての意志概念は支持できないはずなのに、アレントはこれをなんとしてでも死守しようとする。」(P40國分)/「意志の概念を支持するならば、合理主義以外の何かに依拠しなければならないはずですよというメッセージですね。」(P40、41國分)/「そもそもアレントが自由というときは、最初から、絶対のゼロから始まるような自由というものを意味していたということなんですよね。」(P42國分)/「そしてその哲学的な根拠を考えようとして、たぶん、ゼロからの意志にたどりついた。(P43國分)「非合理な意志ですね。」(P43千葉)/「でも、合理主義的には無からの創造は認められません。だから、・・・アレントの意志の概念を支持する人に対して、「これを支持するということは、つまり無からの創造も認めるんですよね」と問いを投げかけたことになります。(P43、44國分)/「それまでの物事の流れを中断できる、ぶった切ることができるのが奇跡なんだと言っているわけ。だから、イエスの奇跡も、水の上を歩いたとか、五個のパンをたくさんに増やしたとか、そういうことじゃなくて、いままで起っていた物事の流れを中断して、流れを変えるという点で、イエスは奇跡を起こしたんだと。」(P47國分)「言語が消滅する前に」より引用
/「無からの創造」、哲学が合理主義であるとすれば、それは受け入れられない。論理の階段を昇り降りする合理主義としての哲学。始まりにおいて非合理であり、その終わりにおいて合理である哲学。有限の連続としての哲学。/
/有限の中に無限を内包するアート(芸術)の出現の瞬間。切断としてのアート(芸術)、非連続としてのアート(芸術)。アート(芸術)の誕生の中に「無から有を取り出す」のからくり(仕組み)を見つけること。アート(芸術)の誕生の非合理性。非合理の中にからくり(仕組み)という合理を見出すその不可能性。芸術批評の根源的不可能性。/
/垂直に拮抗し激しく戦い火花を散らす哲学とアート(芸術)。哲学とアート(芸術)の間で人間の存在は切り裂かれる。切断なのか、それとも、連続なのか? 有限の合理としての哲学と無限の非合理としてのアート(芸術)を統合すること、その見果てぬ夢をみること。/
/奇跡を起こしたイエスは芸術家なのか、哲学者なのか、それとも革命家なのか? その絶対的矛盾的存在のありよう。中断者としてのイエス。切断でもなく、連続でもなく、中断する者イエス。/
No.5:〈メタファー×エビデンス×心の闇×欲望×無意識×インターネット〉、あるいは、光と闇の弁証法を手にするために、人は誰もが哲学者になるしかない。子供も大人も。
「エビデンシャリズムの強まりとは、メタファーなき時代に向かっていることでもある」(P116千葉)「メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということですから、見えてない次元の存在を前提にしている。ところが、すべてがエビデントに表に現れるならば、隠された次元が蒸発してしまうわけです。」(P116、117千葉)/「1997年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。・・・でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかなければならなかったというのが立木さんの指摘でした」(P117國分)「きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている。」(P117國分)「あるいは、至るところにダダ漏れになっている。」(P117千葉)「本来だったら無意識に書き込まれるべきことがネットに書き込まれている。」(P117千葉)「「心の闇」による隔離が弱まった結果、これまでだったら人目に触れるはずのなかったような欲望がネットに書き込まれるようになり、ネットはまるで無意識が書き込まれる場所のようになっている、と」(P117國分)(「言語が消滅する前に」より引用)
/「欲望を繋ぎ止める場所」としての心の闇。秘匿された暗闇の場所。開示されない場所としての闇。光の中に、現実の中に、引き摺り出してはならないもの、闇。心の闇は二つの方角から追い詰められ、「蒸発」させられる。ひとつはインターネットという匿名の場所の誘惑、もうひとつは、世界の単層的平面的単一性化によるその居場所の喪失。/
/それが、「他人と共有することができるのであれば、それはもはや闇ではない」はずなのに、闇という名前でパッケージングされた安全安心の「ネガティブな暗い気持ち」が無造作に交換され放たれる匿名の場所としてのインターネット。/
/「ウエルカム、闇よ。解放しなさい、闇を。」優しくささやかれる無知で傲慢な掛け声と共に。「ネガティブな暗い気持ち」が闇としてベルトに載せられ次々と手際良く処理され解消される。真剣な気休めであり、儀礼的な悪魔祓いであるインターネットの中の見世物としての闇退治。/
/しかし、その中には本当は開けてはいけない欲望が潜んでいる。かくして欲望はインターネットを出入り口として現実の中に侵入する。無邪気な声が現実へ誘い出す邪悪なる悪霊的な暗黒の欲望。優しさと無邪気さが引き起こす凄まじい暴力性。/
/闇を闇として構成させ、自身の内部に安定的に保持するためには、光と闇の弁証法的論理を手に入れなければならない。光の中に闇を内包させ、闇の中に光を内包させるその方術。目に見えるものと目に見えないもの、耳に聴こえるものと耳に聴こえないもの、それらが手のひらの中でひとつになる。/世界の単層的平面的単一性が執拗にそれを嫌がり、そうはさせないと攻撃する。世界の存在のありようの重層的立体的複合性が闇を闇として守る。/
/重層的立体的複合性を掴み、光と闇の弁証法を手にするには、人は哲学者になるしかない。闇をその内部に持ち、「欲望を闇に繋ぎ止め」、邪悪なる悪霊的なるものを封じ込めるために、それがどのようなかたちをしていようとも、人は誰もが哲学者になるしかないのだ。子供も大人も。/
No.6:〈貴族性×民主主義×エビデンス主義×原理なき判断〉、あるいは、歌え!民主主義(デモクラシー)の中の貴族性よ!
「ちょっとトリッキーな言い方をすると、原理なき判断の再発明が必要だという感じですね。原理なき判断というのは、既得権益的な押ししつけでもあったわけですが、それがいったん崩壊した後で、あらためて原理なき判断というものを発明する必要がある。ポスト・デモクラシーの問題として。特異性に反応する、原理なき判断。(P141千葉)「そう思う。」(P141國分)「そしてそれが貴族への生成変化であると。特異性に反応する、貴族的判断。」(P141千葉)/「でも、そういう貴族的なものをブルドーザーのように駆逐するのがいまのメディア環境であり、その相関項として情動的コミュニケーションの全面化があるんだとしたら、政治の観点からも強い懸念をもたざるを得ない。」(P156國分)(「言語が消滅する前に」より引用)
/共有することができない根拠による判断。その合理性を開示することができない論理なき非合理的な判断。仮にそのことを理由としてそれを特権的判断とし、それを貴族性と呼ぶならば、わたしたちはその貴族性を排除してはいけない。それは判断の独断性を隠蔽するものではない。その特権性を固定するために階級を受け入れることでもない。それは人が人であるためのものだ。見掛け上、民主主義に反していようとも。/
/開示することのできない、ひとりがひとりであるための非合理。ひとりがひとりであるための、見えざるもの、聴こえざるもの、言葉にできない隠されたもの。論理の外側に存在するわたしがわたしである理由。/
/「分かり合うことなどできないこと」の存在。非合理の存在。分かり合うことを傷付けているわけではない。分かり合うことを蔑ろにしているわけでもない。論理を棄てているわけでもない。民主主義(デモクラシー)を超えようとしているのでもない。それでも、「分かり合うことなどできないこと」の存在を厳然たる事実として受け入れること。痛みと哀しみと伴に。/
/民主主義の名前を騙る世界の単層的平面的単一性から貴族性を守れ。民主主義は貴族性を否定しない。人が人であるために。民主主義の中の貴族性を讃えよ。歌え!民主主義(デモクラシー)の中の貴族性よ!/
No.7:〈言葉×欲望×魔法×真理×レトリック×純粋思念体〉、あるいは、メタファーは死滅し、哲学もアート(芸術)も姿を消す。世界の重層的立体的複合性は敗北する。
「人間ってやっぱり言葉で現実を織りなしているわけです。言葉というフィクションのレイヤーで包むことによって、人間は生きていくことができるわけだから、そこを疎かにすることは、人間らしさを損なうことになるんですよ。言葉は危ないもので、場合によっては、ひと言で人間の振る舞いを大きく左右することができる。科学の力を魔法のように言ったりしますけど、原爆なりなんなりを作ることができる科学者の行動自体をひと言で変えることができてしまう言葉のほうがよっぽど魔法だと僕は思います。」(P199千葉)/「言葉で人を動かせるというのは、言葉で人間に欲望を作り出すことができるというかもしれない。確かにそれは「魔法」です。情報や数字は認識を与えるけれど、欲望を作り出すには言葉が必要なのではないか。政治というものは基本的に言葉でやるものだというハンナ・アレントの主張も、情報や数字ではなくて言葉でやるのだというふうに理解しなければならない。人を動かすには言葉なのだというこということです。」(P199國分)(「言語が消滅する前に」より引用)
/欲望を形作るものとしての言葉。「現実を織りなすもの」としての言葉。世界を動かす魔法としての言葉。世界の存在のありようの重層的立体的複合性を掴まえ記述するものとしての言葉。言葉がそうしたものである限り、言葉は人と伴にある。言葉は人が人であるために必要不可欠なものとして、わたしたちの傍らに存在し続けることになる。但し、それはわたしたちが人であることを終えるまでのこととなる。/
/わたしたちは、今、人であることを終えようとしているのかもしれない。わたしたちは、現在、人間の言葉を破棄し、その替わりに機械(人工物)と人間の双方とコミュニケーションする言葉として、数字と情報と情動シンボルだけで構成された記号群の組み合わせを採用し、世界と言葉を再構築しようとしている。/
/世界を〈機械(人工物)×人間〉錯綜体として捉え、その錯綜体に作用する道具(ツール)を言葉にしようとしている。機械に人のように話しかけそれを操り、人を機械のように支配し指示する、コマンド群から形成されたアルゴリズムとしての言語。/
/汎用型〈機械(人工物)×人間〉錯綜体用プログラム言語が既存の人間の言葉に置き換わる。人間の情報機械化と情報機械の人間化の必然的帰結として、それを可能とするサイエンスの進化の帰結として、言葉は道具(ツール)になる。真正の意味で。/
/人間の言葉は破壊され、機械化された人間と人間化された機械で構築された〈機械(人工物)×人間〉錯綜体の都市の中で、コマンド記号群が浮遊し、人間が消滅して行く。文学(!?)、誰一人、その意味を知る者は存在しない。哲学は道徳の時間として堕落し、藝術は余暇の時間のための玩具となる。「人間らしさ」、そんなものは過去の懐かしき思い出に過ぎない。/
/メタファーは死滅し、哲学もアート(芸術)も姿を消す。世界の重層的立体的複合性は敗北する。世界の単層的平面的単一性の中で、サイエンスだけが唯一の知性として君臨し、悦ばしき素晴らしき透明なるフラットワールド(FLAT WORLD)が誕生する。/
追伸:哲学者、小説家、及び、ツイッターとしての千葉雅也さんについて
本書の対話のひとり、千葉雅也さんのこと。千葉雅也さんは現代哲学の研究者であり、哲学者なのだが、小説家としての顔も持つ。少しだけその著作を紹介したいと思う。Twitter、そして、noteのマガジン「生活の哲学」も。
千葉雅也哲学の入口として、上記の「意味がない無意味」と伴に。そして、二冊の小説。どちらも、その表紙を彩るのは、その小説の内容と呼応するかのようなヴォルフガング・ティルマンスの写真。それがまた喩えようもなく美しい。
蛇足として:終わりに、恥ずかしながら、私がこれまでに書いた千葉雅也さんに関する稚拙な記事をふたつ。今回の記事を含めてあらためて思ったこと。自分には千葉雅也さんの言葉のほんのうわべしか、すくい取ることしかできないということ。誤り多く。國分功一郎さんの言葉もまた同じように。でも、それでも、「それぞれの仕方で」考えるほかに方法はない。と思う。