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北村紗衣と「キラキラ」の行く末 : 『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を読む (第3回・最終回)
少し間が空いてしまったが、「『現代思想 2020年3月臨時増刊号〈総特集〉フェミニズムの現在』を読む」の第3回を、最終回として書かせていただこう。
当特集号を読み終えて、まず意外に思ったのが、332ページ32本の記事全体を通しての印象として、ほとんどの寄稿者がこの時(2020年)にブームとなっていた「フェミニズム」、言うなれば「MeToo運動」以来、インターネット上を中心に盛り上がった、新たなフェミニズムのムーブメントに、必ずしも満足していない、ということだった。
実際、今や「キラキラ・フェミニズム=第四波フェミニズム」の代表選手と呼んで良い存在となった、「武蔵大学の教授」で、映画評論なども書いているフェミニストの北村紗衣でさえ、その論考「波を読む 第四波フェミニズムと大衆文化」の末尾で、自分の置かれた立場について、両手を挙げては喜べない「何か」を環んじているような、思わせぶりな書き方をしていたのだ。
『最後に
異例ではあるが、著者がこの論考を書くにあたって感じた強烈な居心地の悪さについて記して本論考を終わりたい。著者は二〇一九年にウェブ連載をまとめた『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』というフェミニスト批評エッセイ集を刊行している他、Wikipedia でジェンダーバイアスを減らす活動に取り組んでおり、さらに@Cristotorouというアカウント名でTwitterもやっている。つまり、オンラインでの活動が多いフェミニストである。
連載を始め、まとめて刊行したあたりから、イベントをするたびに女性読者から楽しかったという感想を頂いたり、またTwitter 等で女性と思われるユーザからさまざまな質問を受けたりするなど、ある種の「ファン」として記述できそうな読者が現れるようになった。著者が「日本にもセレブリティフェミニズムが求められているようだ」ということを理解したのは、この過程を通してだ。著者はあまり有名ではない研究者であり、田嶋陽子やグロリア・スタイネムのようなセレブリティではない。そんな人間でもファンになってくれる読者がいるほど、日本の女性はロールモデルにできそうなセレブリティフェミニストを必要としているようなのだ。著者は知らないうちに第四波フェミニズム的な風潮の真っ只中に投げ込まれていた。
客観的な記述を心がけないといけない研究者としては、これはあまり好ましくない事態である。本論考はできるかぎり先行研究のレビューや事実の指摘にとどめたが、著者が自分でも認識していないうちに大きな第四波のうねりの中に巻き込まれていたということは書いておきたい。波を数えているうちに、波の中に入ってしまっていたのである。この論考は、波の中から書かれている。』(P54)
ここにあるのは、自身が世間から注目され始め、学者(シェイクスピアの研究家)であること以上の「商品価値」を持ち始めていることへの、「喜び」と「不安」の両方が、内交ぜになってあるように見える。
もちろん、世間の注目を集め、「ファン」と呼べるような存在のできたことについて、嬉しいと感じない人はほとんどいないだろうし、このときの北村紗衣も、そうした喜びを感じていたというのは間違いない。
しかし、それを両手をあげて喜べないのは、そうした「売れ方」が、典型的な「資本主義社会における商品化」であることを、北村紗衣自身も理解していたからであろう。
そして、そうした「資本主義社会における商品化」に与することは、これまでのフェミニズムが抵抗してきたものに与することであるということを、理解していたからでもあろう。
アメリカのブラック・フェミニスト、ベル・フックスは、ベンジャミン・バーバーを引用した上で、それについて、次のように端的に書いているのだ。
『(※ ベンジャミン・バーバーは、その著書で次のように言っている。)
〈(※ フェミニズムの)女性運動家は、有名人やスーパースターをつくりあげようとするマスメディアのために、いつもわき道に脱線させられてきた。これはわたしたち(※ フェミニスト)の基本理念に反することである。私たちは、名誉や名声を鼻にかけるような女性たちと関係を結ぶことなどできない。わたしたちは、特定の女性の利益や特定の女性集団のために闘っているわけではない。わたしたちは、すべての女性にかかわる問題に取り組んでいるのである。〉
ブルジョワ的イデオロギー
運動の初期、こうした意見は多くのフェミニストによって支持されていた。しかし、それは長続きしなかった。フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる女性が多くなるにつれて、自分勝手な日和見主義が横行し、集団闘争の訴えの土台は(※ こうした、堕落したフェミニストによって掘り)崩されていった。そして、社会、資本主義、階級差別、そして人種差別に反対する気もない女性たちが、自らを「フェミニスト」と称した。』
( 『ベル・フックスの「フェミニズム理論」 周辺から中心へ』P26)
ベル・フックスの上の著書は、すでに「フェミニズムの古典」とされ、翻訳もあるものなのだから、仮にもフェミニストを名乗る北村紗衣が、同書を読んでいる蓋然性は、きわめて高い。
であるならば、北村紗衣が、人前であからさまに、自分が「売れ始めた」ことを喜んで見せることができなかったというのは、むしろ当然のことであろう。
その反面、そうした自分の置かれた「好ましい流れ」から離脱する気もなかったからこそ、このように立場の曖昧な「日和見」的な書き方をして、ある種の「アリバイ作り」をしていたのではないだろうか。
「私は、多くの若い女性が求めている、ロールモデルとしてのセレブリティフェミニストであること(第四波フェミニズム的なキラキラとした成功)を、必ずしも否定し拒否するものではありません。ですが、そちらに無条件に与するつもりもありません」という「二股膏薬」的なものとして。
スターやアイドル扱いにされることは、端的に言って「嬉しい」。けれども、それをあからさまに表明してしまうと、方々から反発を喰らいそうだ。しかしまた、自分自身、そのような流れに乗っていることに喜びを感じているのに、それを否定しさることもできない。ならばここで「観測気球」のひとつでも上げておくか、というのが、この「最後に」の意味だったのではないだろうか。
こうした、ちょっと浮かれた「北村紗衣的な立場」に対して、もう少し「リアル」に「現場のフェミニズム」の立場から語ったものとして読めるのが、本号後半に収録されている、貴戸理恵と鈴木涼美の対談「“キラキラ”と“その後”のためのフェミニズム」である。
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貴戸理恵は、東京大学で、小熊英二、上野千鶴子に師事した社会学者で、その主たる研究テーマは「不登校」問題だ。
『「生きづらさ」を抱える若者達への面接調査を通じて、「当事者」の視点からこの社会がどのように見えるのか、「個人」と「社会」のよりよい関係とは何かを探ることを研究課題としている。』
と、「Wikipedia」にあるとおりで、「現場」で「当事者」と面談して、「不登校」という問題に取り組んでいる研究者である。
つまり、いわゆる「理論家」ではないし、その意味での「フェミニスト」でもない。いわゆる「フェミニズム」の世界に閉じた人ではないが、しかし、そこは上野千鶴子門下生なのだから、決して「フェミニズム」と無縁な人ではないのだ。
なお、少し補足しておくと、上野千鶴子が「社会学者」であることからもわかるように、日本の「フェミニズム」というのは、大学においては「社会学」を中心に人文系各科で広く参照されてはいるが、「思想」の一種であるにもかかわらず、「哲学」科では教えられていない。
これは、本号に寄せられた「哲学」(研究)者である横田祐美子の論考「フェミニズムは哲学の遺産をどのように継承するか 脱構築と女性的なものをめくる思考」の中で紹介されているとおりで、明治期のおける日本の大学での「西洋哲学」の輸入は、「ドイツ観念論」が中心とされたからだ。
そのため、「フランス系の哲学」は、今でも「フランス文学」科の方でフォローするかたちになっている。例えば、フランス現代思想の翻訳者の肩書きが「フランス文学者」となっていることに、違和感をおぼえた人も少なくないはずである。
そんなわけで、シモーヌ・ド・ボーヴォワールのフランスフェミニズム哲学も、日本の大学では、「哲学」部ではなく、主としてフランス文学科で扱うことになるのだけれども、その一方、フェミニズムというのは、抽象的な思弁にとどまるものではなく、「社会運動」をともなう実践的な思想であったために、「社会学」部で扱うようになったようだ。
そんなわけで、日本の大学フェミニストというのは、上野千鶴子門下生としての東京大学の社会学部出身者を中心として、人文系の多様な学部にまたがって存在している。
したがって、「フェミニスト」だと言っても、その内実はいろいろで、例えば、専門的な「哲学」に詳しい人も詳しくない人もいるし、理論的な研究をしている人もいれば、社会学的に「現場」に近いところで考えている人も多い、ということになるのであろう。
一一つまり、大雑把に言えば、貴戸理恵は「現場」のフェミニストだということである。
一方の鈴木涼美については、以前、上野千鶴子との共著『往復書簡 限界から始まる』 を読んだことがあって、そのおおよそのプロフィールは知っていた。
この人は「きわめてユニークな経歴の持ち主」であり、その点でマスコミにも露出して、かなり目立った存在である。
そしてその意味では、今の北村紗衣よりもずっと「キラキラ」した経歴の持ち主だとも言えるだろう。
ちなみに、北村紗衣と同年の1983年生まれで、現在は41歳である。
『鈴木 涼美(すずき すずみ、1983年7月13日 - )は、日本の作家、エッセイスト、コメンテーター、元日本経済新聞社記者、元AV女優である。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府の修士課程を修了。東京都中央区出身。父は法政大学名誉教授の鈴木晶、母は翻訳家の灰島かり。2009年から2014年まで日本経済新聞社で勤務していた。
中編小説『ギフテッド』が第167回芥川龍之介賞候補、『グレイスレス』が第168回芥川龍之介賞候補に選出された。』
(Wikipedia「鈴木涼美」)
つまり、両親は名の知られた知的エリートであり、当人も東京大学を卒業していながら「AV女優」となり、その後「日本経済新聞社」に入社して記者となり、その当時『2013年(平成25年)に東京大学大学院学際情報学府で執筆した修士論文が『AV女優の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』として書籍化され』て、一気に世間の注目を浴びた、という異色の人物なのである。
鈴木は、テレビのバラエティー番組『サンデージャポン』などにもコメンテーターとして出演したようだから、もしかすると私もテレビで見たことがあるのかもしれない。だが、その認識がないまま、上野千鶴子による「往復書簡本」ということで、上記の本を読んだのである。
ちなみに当時、鈴木涼美当人のことはまったく知らなかったが、父親である鈴木晶の名は翻訳者としてよく見かけていたし、内田樹との共著『大人は愉しい メル友おじさん交換日記』(2002年)を読んでいる。
また、母親の灰島かりについても、けっこう好きだったポール・ギャリコや、友人から薦められて読んだローズマリー・サトクリフの翻訳家として、その名前には見覚えがあった。
○ ○ ○
さて、そんな二人の対談は、主として「二つの現場」を中心に語られたものとなっている。
「二つの現場」とは、「不登校」の子どもたち(とその後)と、AV女優を含む、女であることを売り物(商品)とする、主として「風俗業の女性」ということになるだろう。
二人が、この対談で語るのは、そうした「現場」においては、必ずしも「フェミニズム」の定式には収まりきらない「現実」がある、ということである。
『鈴木 (※ 私自身の)研究テーマからして、(※ フェミニズムは)避けては通れない道、という感じではありました。『AV女優の社会学一一なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社、二〇一三年)という本のもとになった修論を書いているときに、北田暁大先生とは、売春についてフェミニズム的な意味での一般論と別の切り口で研究する人は、「〇〇などの活動はもちろん重要なことだが」と言った留保、気遣いを前置きとして書いている人が多いという議論をしました。少なくとも性産業や売春について何か書く場合は、フェミニズム的な意味での自分の立場を示すことを求められる風潮があった。例えば売春は女性への搾取だから反対なのか、売春する女性をきちんと労働者として敬うという意味で擁護なのか、とかですね(※ フェミニズムの中でも、売春をどう評価するかで意見対立がある、ということ)。逆に言えば、(※ いずれにしろ)そういった強い主張や思想がある方によって語られがちなテーマ(※ が、性の問題)だったとも言えます。そういった先行研究はもちろん敬意を持って勉強しましたが、私は自分の論文をフェミニズムありきというか思想先行型ではなく、現場で起こっていることや現場の空気をなるべく善悪の判断や思想的な背景を入れずに(※ 社会学的に)書きたかった。賛成か反対か、という議論をすると空中戦的にアカデミズムの世界に閉じられてしまう気がして、そうしないことが私の主張だと考えていました。
フェミニズム自体は勉強しているとおもしろいんです。ただし私を生き延びさせるものとして読んでいたわけではなかったですね。AV女優であった生身の私がいた世界、あるいはその後に取材と称するおしゃべりで語られるあの世界において果たしてどれだけ役に立つだろうか、という思いはありました。
檻が破られた、その後で
貴戸 フェミニズムに対する鈴木さんのその感覚は、私が修論を書いたときに反管理教育の社会運動に対して感じていたことと共通する部分があるかもしれません。私はそこで不登校を経験した人の語りについて研究したのですが、子どもというのは教育において最も関心が集中しているいく先であり、その語りは特権的な立場にあるにもかかわらず、一種のブラックホールのようになっている部分があるんですね。というのも八〇年代の反管理教育運動の文脈では、「既存の学校より学校外の居場所を選ぶ不登校の子どもがいる」ということを軸にして、親や協力者たちが社会批判をしたり、フリースクールなどを立ち上げていったところがあった。そこではある意味、子どもたちの「自分の不登校」についての語りが大人たちの実践や運動の根拠のようになっているから、周囲には子どもに「(※ フリースクールを)選んだ」と語ってほしいという欲望が存在してしまうんです。子どもはそれを敏感に察知して、期待に応えようとします。特に学校のなかに居場所がなくてしんどさを抱えていると、そんな自分を受け入れてくれた大人たちの期待を読んで「私は不登校を選びました、学校に行っていたときは苦しかったけどフリースクールに来て救われました」というようなことを語ってしまう。その場はそれでいいかもしれないけど、子どもはやがて成長して大人になっていく。つまり”その後”があるわけで、そう語った自分を抱えてその後の長い人生を生きていかなくてはいけない。
『AV女優の社会学』を読んでいて私が共通性を感じるのは、教育も性産業も焦点化される存在が空洞で、周囲に「語り得ない存在に自由意志を読み込みたい」という欲望が存在するということです。「子ども」も「裸の若い女性」も人々の関心が集中していくポイントで、「語る期待」が寄せられる。期待に応えて語るうちに「明るい不登校」「主体的なAV女優」ができあがる。
鈴木 そうかもしれないですね。AV女優たちのように多くのインタビューを受け、インタビューや本人の手記自体がコンテンツとして一般的に受容されている存在の場合、当事者である彼女たちのほうもだんだんこなれてきて語るのがうまくなるというか、語ること自体が職業のなかに入ってくる。大抵は嫌なことも楽しいことも両方あるし、気分だってあるので、どちらの話を求められているかによって語り方を変えられるわけです。「性に関するトラウマがあって‥‥‥」といった話が好きな人もいれば、最近のAV女優はふつうの大学生が気軽にやっているのだ、というような論調を求めている人もいるので、なんとなくそれに合わせて、別に嘘をつくまでもなくストーリーができてしまう。誰だってその論調に合わせたエピソードの一つや二つはあるし、逆に強い主張のある(※ フェミニズムの)活動家じゃないからこそどちらにも器用に合わせて話すことができます。その職業を選んだことについて、実際にはそれほど大した理由がなくても、事後的に一一語りだして初めて一一大きな理由ができてしまうんですね。それが一方ではAV女優や風俗嬢を職業として認めようという人たちの、他方では性産業の被害者の女性を救おうという人たち(※ フェミニスト各派)の武器になってきた。私が「AV女優の社会学』を書こうと思ったのは、その語り自体を「こういうふうに語られている」と分析してみせることで少し相対化したかったんです。もちろん語り自体はたしかに存在するのだし尊ばれていいのですが、フェミニズムはそれを真正面から受け止めすぎている気がしていて。過信されている「当事者」「証言」ってこんな風に成立しているのではないか、それが論文の大きな柱の一つです。
貴戸 ある意味で「期待に応えた当事者の語り」だから、本人にとってのリアリティとはずれてしまうわけですね。』(P292〜293)
ここで語られているのは、多くのフェミニストが、その「善意」において女性の解放ということを考えていながら、ややもすると、自分たちの方で勝手に描いた「フェミニズム的な紋切り型(定式)」に「救済対象としての女性」たちを押し込めがちである、という点だ。
だからこそ、イデオロギーの「色」のついていない「現場の生の声」を拾い上げざるを得なかったのだが、それはまた、結果としてそこを強調することが、悪気などないフェミニストたちの善意を裏切るかたちにもなってしまった部分があって、そこが難しいところだった、というふうにも語っている。
つまり、私たちが考えなければならないのは、「フェミニズム」が「権利獲得のための、武器としてのイデオロギー」になってしまってはマズい、ということなのではないだろうか。
確かにそのようにして「わかりやすい形式」において語れば、実用的で相応に力を持つ武器にはなるだろう。だが、そのような「単純化」によって切り捨てられてしまう「対象の多面性」や「現実」も、おのずと増大してしまうのだ。
あまり繊細に、あちらにもこちらにも配慮した物言いをしていると、何を言っているのかよくわからないという話になってしまい、その主張は訴求力を欠くことになる。
しかしまた、訴求力を強めて、実益を優先するために、言葉を単純化して「〜は、悪だ!」式の言い方をしてしまうと、それはそれで「半分ウソ」になってしまい、思想としての誠実さを欠いてしまうのだ。
私が、北村紗衣の語るフェミニズムを批判するのも、まさに北村紗衣のそれが「男は悪だ」という、極限にまで単純化された「スローガン」的なものになってしまっている点である。
「ミソジニー」だの「家父長制」だの「権力勾配」だのと言っておれば、それが「男性中心社会」の問題点を正しく指摘するものだと、言葉の意味を考えない人たちに、そう便利かつ安直に受け入れられてしまう。
そこでは「女性に差別されている女性」も存在しなければ「女性に差別されている男性」も、存在しないがごとく断じられるのだが、現実を誠実かつ仔細に見ていけば、そんなに単純な話ではないというのは、すぐにわかることなのだ。
だが、フェミニズムを、自覚的に「党派的権利獲得運動の武器」にしようとしている女性たちは、そうした「多面的な現実」を、「自分には関係のない枝葉末節」だと、自覚的かつ情け容赦なく切り捨てることで、その武器を鋭利なものへと研ぎ澄ませていきがちなのである。
しかし、そうなると、それはもう「女性解放運動」としてのフェミニズムではなく、「私が私の利益を得るための武器」としてのフェミニズムでしかなくなってしまう。
しかし、そのような、女性全体のことを考えていない「個人主義の思想」が、果たして「フェミニズム」の名に値するものなのか?
それは、語の本来の意味における「フェミニズム」とは、似て非なるものなのではないだろうか?
したがって、そうした「私一個の利益や成功のため」の(えせ)フェミニズムが、社会的に成り上がることを目指す「リーン・イン・フェミニズム」という形をとるのは当然の結果だし、何の躊躇もなく「キラキラ」した存在を目指すという態度も、自然なことであろう。
しかし、それはもう、「女性全体の解放」を目指すものではなく、「私個人を解放するためのもの」なのだから、そのような「私さえ良ければいい。他の人は、各人で頑張ってください」という「新自由主義」的な思想になるというのも、必然的な結果なのである。
しかしだ、ここで考えなければならないのは、そうした「他人を騙し、踏みつけにしてでも、自分だけが成り上がる」というような思想が、果たして、その人自身を幸せにするものなのか、という問題である。
これは「カネの亡者は、果たして幸福なのか?」とか「イーロン・マスクは、本当に幸福なのか(心が満たされているのだろうか)?」という問いと、同じことなのだ。
言い換えれば、多くの「虐げられた女性たち」のために駆けずり回っている「おばさんフェミニスト」と、ファン読者の前でトークショーの舞台に立つ「キラキラフェミニスト」では、果たしてどちらが幸せなのか?
傍目に「見栄えがする」のは、もちろん後者であり、その点で、若者たちの憧れがちなのも、後者であろう。
しかし、人気絶頂にあったタレントやアイドルが、自殺したり突然引退したりするというのは、それが多い事例ではないとしても、そこにはどのような事情が働いているのだろうか?
アイドルグループで「センター」のポジションを取り、「上り詰めてしまった女性」は、その先は「下るしかない」ということなのではないだろうか。
一一つまり、人の幸福とは、実のところ「上を目指す」ことではなく「理想を目指す」ことであり、その「過程にある」ことなのではないだろうか。
なにしろ、上り坂は苦しかったかもしれないが、「あとは、そこから下るだけの人生」だとしたら、それは「恐怖」以外の何者でもないのではないだろうか。
『キラキラしない日常を生きていくために
貴戸 先ほどお話しした「ポスト・フェミニズム」的な状況の現れの一つとして、フェミニズムを経由した後の社会でも“お金になる女性性”は歓迎される、ということがあると思います。売れる限りにおいて女性性は持ち上げられるし、女性も自分からそこに入っていくわけですよね。特に若くて美しくてきれいな恰好をしていると「自分が高い商品である」という高揚感は確かにあるのでしょう。『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎文庫、二〇一六年)に印象的な文章があります。「私たちには、絶対に死ぬまで捨てる気にならない自負がある。私たちの身体は、かつてオトコたちが一月に何百万も使う価値があったことだ。私たちが注ぐお酒は、居酒屋のバイトが注ぐお酒の何倍も高くて、私たちに会うには、それだけでオカネがかかった。今、私たちの誰も、身体的価値に直接の投資は受けていない。それでも、自分の商品価値は、絶対に忘れない。〔‥‥〕フツウな私たちだからこそ、フツウじゃない価値を持っていたことは重要だった」(九一頁)という。フェミニスト的観点から考えれば、「フツウの若い女性」に「フツウじゃない価値」を与えるのは、性の二重基準の下で女性を母・妻・娘と娼婦に分断する(※ 女性自身によってさえなされる)女性差別の効果ですよね。それ(※ 差別すること)を「重要だった」とする女性は、単純に考えれば女性差別の(※ 男性中心主義の)共犯者です。でも、鈴木さんはそこに客体化され消費されることのなかに自ら突っ込んでいくというかたちの(※ 倒錯的な)主体性を見ている。鈴木さんの作品を読んでいてしみじみ気づかされるのは、女性には「消費される」という消費の仕方、「客体になる」という主体性の発揮の仕方が(※ 事実として)あるんだなということです。高額商品であれる人への羨ましさや、女性たちのしたたかさへの共感が(※ 思わず)湧いてきて惹きつけられます。でも、そういう主体性の発揮の仕方っていつまで持続可能なのだろうと私はどうしても考えてしまうんです。人はみなやがて老いていき、商品であることの快楽にもいつか終わりがくる。それでも自分の身体というものは持続して、その後を生きていくことになるわけですよね。
鈴木 かつて商品だった性や身体を、もう使えなくなった廃棄商品のように背負って生きなくてはいけない。
貴戸 だから先ほどのAV女優の語りの話で言うと、市場に出ている間は求められたとおりに語っていたけれど、その語っていた自分を抱えて彼女たちはその後も生き続けるわけです。”その後”の問題にずっと付き添っていくとしたら何が見えてくるのだろうというのがすごく気になっていて。例えば私が見ている元不登校の人たちのなかには、いま大変な状況を生きている人も多いんです。かつては「明るい不登校」のようなことを言っていた人でも、ある種のなじめなさや繊細さを抱えたまま働き続けるのはすごく大変なことで。四〇代半ばを過ぎて若者就労支援の対象からも外れてしまうと、自分を労働力として売っていくのはかなり厳しい。障害者年金をもらうにしても、鬱などの場合それも難しいので、あとは生活保護か‥‥‥という状況の人がたくさんいる。だから“その後”に残り続けるリアリティというものをどんなかたちで見ていけるだろうかという問題意識が私のなかに大きくあるんです。あのとき語りを消費した人たち(※ 活動家や一般読者)にとっては(※ その場かぎりの)一回性のものだからそれでよかったかもしれないけど、語った側は繰り返しその語りを更新しつつ(※ 引きずって)日常を続けていくわけで。
鈴木 かつて宮台真司が「ブルセラ女子高生がその後メンヘラ化した(※ 明るく主体的にやってたはずのブルセラ女子高生たちが、結局は心を病んでしまった)」と言ったのと近いかもしれませんね。あのとき最も時代を過敏に軽やかに乗り越えようとしていたはずの彼女たち(※ ブルセラ女子高生)がいつのまにかリストカッターになってしまったように、かつては「自由な不登校」といって思想的に持て囃されて(※ チヤホヤされ、生き生きとしてキラキラしているように見えた)、ある意味ではすごく(※ 存在)価値のあった彼らが大人になった後を考えると、アドレッセンスを商品化した代償としての(※ すっかり輝きを失った後の)残りの人生があまりにも長い。それは性産業で働いているなかでも一番瀬戸際の、実際にお客さんを相手にしている女の子についてもそうで、だいたい四〇歳の壁を乗り越えられずにいなくなって、その後はもう(※ その行方を)捕捉することさえ難しい状況になってくる。業界のなかでしぶとく生き残っている人はほんのわずかで、(※ 業界から)抜けた外で(※ まともに)生き残っていられる人もそれほど多くないとしたら、残りのマスの部分は見えなくなってしまって(※ おり、想像したくもない状況に置かれている)いるように思います。そのなかにいるときはみんなすごく逞しく見えるし、自分でも他の場所に行ける自由が多少とも保障されていると思っている。もちろん女子高生が商品化される社会は正しいとは思わないけど、いくらダメだと言ってもなくならないのなら前の世代が超えようとした壁をむしろ逆手にとって、敢えて(※ 男たちの欲望と)一緒に踊ってあげつつ上から(※ そんな)男性性を嗤うといったことも割と愉快にできてしまうんですね。だからフェミニズムすら必要としないほどの強さがあった(※ ように見えた)。でも、自分が「この価値なら負けない」と思っていたところに継続可能性がないとわかってしまうと、たしかに人生としてはかなり苦しくなる。ただそれについては私のなかでも(※ では、どうすれば良かったのか)あまり答えが出ていないというか‥‥‥私自身そういう人生を生きてきていろいろ葛藤はあるけど、それを単に間違っていたこととして、弱みであるかのように抱えて生きるつもりはないし、かといって「みんな、これが答えだよ!」「後悔してないよ!」と言えるほどうまくいってきたわけでもないから、なかなか難しいですね。商品でいることの楽しさもわかるし、でもその楽しさが自分たちの思っているより残酷なかたちで去っていくというのも身体の経験として知っているわけで。
そう考えると、いまの社会を生きていくうえでは若いうちに相当大きな選択をさせられているのかもしれません。ただ、知らぬ間に選んでしまったものを一生振り払えないのも不自由だけど、初めから間違った選択肢をなくしてあげるのが親切かというとそうでもない気がする。一六歳の子にフェミニズムを説こうが社会構築主義(※ 社会の裏側に隠された仕組み)を説こうが、その子がどんなに賢くても、何かを選ぶときってすごく瞬発的に択ぶものだし、特に若い頃は魅力的なものの魅力はとにかく強烈だし、そこに行かないように救ってあげるのは一つの手ではあるのだけど(※ 実際には難しい)‥‥‥。
貴戸 キラキラした世界に突っ込んでいく(※ という、個人の選択の)自由は誰にも奪えない。
鈴木 とはいえその一方で、例えば一時期「親公認AV女優」についての記事がたくさん出て、娘のやりたいことを応援するのが正しいんだということが言われだしたことには違和感もあって。誇りをもってAV女優をしている人を否定するわけではないけど、そこに対する偏見を全て取り除いていい(※ のか。結局のところそれは、他者の危険を見過ごしにする、不作為でしかないのではない)のかというと、まだ疑問符が残っているんです。
貴戸 その感覚については『文春オンライン』のエッセイ(「一一うちの母は元AV女優です、の怖さ」、のち「浅はかな100万円の浅はかじゃない価値」として『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』[東京ニュース通信社、二〇二〇年]に収録)でも書かれていましたよね。
鈴木 あれは二年くらい前の、いろいろ思うところのあった年の瀬に書きました(笑)。例えばものすごく好きな人ができて、その人と生きていきたいと思ったときに、彼が自分の母親や妹を説き伏せられなかったとしても(※「あんな女はやめておけ」と言った)彼女たちを石頭だと言う気にはなれないなと。
あるいは私のように性産業からより一般的な仕事に鞍替えした人に対して「ずるい」と感じる女性もいると思うのですが、それについても反論して説得する言葉をあまり持ってはいません。例えば私が新聞社で働いていたときに、同じ仕事をしている女性から「私たちはちゃんと将来のことを考えていろいろな誘惑と闘いながらここまで(※ 頑張って、やって)きたのに、学生時代好き勝手やって大金も手にしていた人たちまで同じところ(※ 恵まれた職場)に入ってこられると、救われない」というようなことを言われたとしたら、返す言葉はない。たぶん「身体を売るのがどうして悪いかは説明できないけれどなんとなく悪い気がする」という嗅覚によってうまく落とし穴に落ちないようにしてきた(※ 慎重な)人たちに対するリスペクトが私のなかにあるのでしょうね。私がいろいろ経験してきたなかでおぼろげに感じている自分の身体のかたちのようなもの、(※ 負い目としての心の)傷があるから見える(※ 普通の人とは違った)自分の身体みたいなところを、教えられるまでもなく最初から掴めてい(※ て、それを回避でき)るほうが正しいし偉いという感覚が私のなかにどうしてもあるんです。それはもちろん、私がそういった選択をできなかったことで、傷ついてきたり後悔したりした経験があるからです。「あの子たち賢かったな」「どうして私はそうできなかったんだ」と。
貴戸 それっておそらく身体の大切さに対する直感ということだと思うのですが、でも売った後の身体って(※ それでも否応なく、売る前と)同じように日々大切なものであり(※ かけがえのないものであり)続けているはずですよね。例えば鈴木さんが『愛と子宮に花束を一一夜のオネエサンの母娘論』(幻冬舎、二〇一七年)で挙げている「身体も心も交換できないから」(二〇五頁)というお母さんの言葉が言おうとしているのはそういういうものなのかなと。そういう「売った後も身体が継続する」ことには二重性があると思います。「いったんスティグマ化されたら拭えない」ということと、「売る前も売った後も身体は変わらず存在し続ける」ということと。そう考えると、一回性の取り返しのつかなさと「その後」の継続性が交錯する場である身体には、日常を反復し生き延びることで、若さや美といった価値の過剰性や性の二重基準の不合理を逆照射する可能性があるという気もします。それはきっと、「キラキラした世界」を経由した先に見えるものなのかもしれない。
”キラキラ”って結局は非日常なんですよね。そのキラキラが去った後の日常の継続性をどう考えるかということが大事で、フェミニズムというのはまさにこのような日常を生き延びるための思想なのではないか。そしてそれは他でもない(※ キラキラを通過した)本人たちが日々立ち向かっているものだろうと思います。例えば私が身近に見ている人たちには「自分が働くにあたって障害者枠を利用するなんて以前なら考えられなかったけれど、ある種の“パロディ”として、そういう選択をする自分があってもいい」というふうにうまく(※ 自分の本音の感情と)距離を取りながら、支援窓口の前では悲惨そうな顔をしてしたたかに生き延びていく、ということがある。おそらく性産業を去った後の女性たちもそんなふうに日々を生きているはずで、彼女たちの選択を取り返しのつかないことのように(※ 単純化して)考えると、そういう(※ 複雑微妙な)現実が見えなくなってしまうように思います。その延長でいくと、先ほどのお話にあったような「売らないという選択をリスペクトする」「売った人に嫌悪感を覚える人を否定しない」ということと、「売った人が罰せられても仕方ない」はぴったり重なっている必要はない(※ 一致するものと考える必要はない。それとこれとは、また別の話だと、そう考えてもいい)んじゃないでしょうか。これら(※ の複雑微妙な部分を)をきちんと(※ 精妙な)分節化する(※ 腑分けして理解する)作業が必要だと感じます。日常の継続性のなかで固有の身体性や関係性が前景化すれば、「売った身体」(※ というスティグマを帯びた身体)は実質的に「ただの身体」になってゆく(※ 傷が癒やされ、内面的なレッテルも剥がれていく)と思うんです。『AV女優の社会学』で「いかに〈普通の女性〉が〈売る女性〉になっていくか」という点から〈普通の女性〉と〈売る女性〉の連続性を描いたなら、「いかに〈売る女性〉が売った後も〈普通の女性〉であるか」を描くことも(※ 容易なことではないとしても)可能なのではないか。それを通じて、「差別反対」というポリコレ的(※ に善悪二元論的)なスタンスとは別次元の(※ 生きることのリアルへの)アプローチができるのではないかという気がしています。』(P296〜299)
私は以前、北村紗衣について「現在はまだ四十すぎで、それなりに美人でもあるから、ネットアイドル的な人気においてXのフォロワーが5万人弱もいるけれど、その人気が、10年後20年後まで続くことはないだろう。そうなった時に、どのような報復が待っているのかということを、少しは考えた方がいい」という趣旨のことを書いた。
これは「脅し」でもなんでもなく、当然予想される事態である。つまり、
・ 北村紗衣も歳をとって容貌が衰え、タレント的な人気は、自ずと無くなっていく。
・ タレント的な人気によって支えられている今の地位は、自ずと不安定化する。
・ 攻撃力が売りだった北村紗衣のそれが衰えれば、かつて攻撃され被害を被った者たちは、当然、報復を考える。
ということだ。
これは、良い悪いの問題ではなく、世の中そういうものだという「現実論」である。
一方、北村紗衣とて馬鹿ではないから、こうした事態に備えて、例えば「過去ログの削除」といった「証拠隠滅」を、今のうちから行なってもいるのだろうが、それで将来的にも完全な防御が可能だと考えるのは、あまりにも世間知らずで甘い、と言わざるを得ない。
また、自分に味方してくれる仲間を増やしたとしても、人気者に寄ってくる人間は、人気の無くなった者から離れてゆくというのは、世の常なのだから、10年後20年後まで、当てにできるようなものではないと、そう考えるべきだろう。
また、学者としてさしたる実力が無くても、すでに「テニュア」を取得しているから、身分的には大丈夫だなどというのも、甘いと自覚すべきだ。
端的に言えば、商品価値が無くなった「老害」をいつまでも飼っておくほど、大学だって甘くない、ということである。まして、教授のタレント性を重視する、新自由主義化した大学なればこそ、その商品価値が無くなった際には、よそ以上に冷たいというくらいのことは覚悟しておくべきなのだ。
そして、大学という最後の足場さえ不安定化した時に、報復が始まったら、それこそ目も当てられないほど悲惨なことになるだろう。
だから、北村紗衣がやるべきことは、「証拠隠滅」による報復への予防措置をとることよりも、恨みを買った相手に対する、当然の「謝罪」をすることしかない。
なにしろ、「恨み」とは、そう簡単に消えはしないものだし、消えない恨みに対して防御策だけを講じるのは、火に油を注ぐようなものでしかなく、相手の対抗策をより過激なものにもしかねないからである。
上の、「木戸・鈴木対談」においては、『日常の継続性のなかで固有の身体性や関係性が前景化すれば、「売った身体」は実質的に「ただの身体」になってゆく』という可能性が示唆されている。
だがこれは、あくまでも他者との関係において、自身の中の「売った身体」というスティグマを消す可能性があるという話であり、これは、その女性の身体にスティグマを見てしまう他者との「良好な関係」を成立させてこその話なのだから、「恨み」によって刻みこまれたスティグマは、北村紗衣らしいその個性や身体性を出している限りは、決して消えることはない、ということになる。
(例えば、最近は「人の良いオジサン」ぶりを強調している、あの橋下徹を見よ。彼は賢いからこそ、意識的にイメージチェンジをしているのである。だが、それだけで、買った恨みのすべてを消すことなど不可能なのだ)
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いずれにしろ、「証拠隠滅」さえしておけば「いずれ忘れてくれるだろう」という考え方は、相手のいる問題として、あまりにも甘い。だからそう心得て、北村紗衣は、今後の自身の身の振り方を、真面目に考えるべきであろう。
すでに名前も面も割れているのに、少々時間が経ったからと言って、安心できる待避場所など、どこにもありはしないのだという現実を、よくよく考えてみるべきなのだ。
これは、世の中の残酷さをそれなりに知っている年長者としての、「警告」ではなく「忠告」なのである。
(2025年3月1日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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