『マテリアル・ガールズ』レビュー批判への反論
先日アップした、キャスリン・ストック著『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』(以下『マテリアル・ガールズ』と略記)の拙レビューに対する反論が寄せられたので、喜んで応答したい。
「キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』:低レベルの「学術書」もどき」と題された私のレビューは、「トランスジェンダリズム」に反対する、イギリスの元・哲学教授キャスリン・ストックの著書『マテリアル・ガールズ』について、著者のキャスリン・ストックや、同書「解説者」である武蔵大学教授で社会学者の千田有紀が、米国の哲学者ジュディス・バトラーのジェンダー哲学を、十分に理解していない、と批判するものであった。
今回、拙論に対し批判を寄せられた「ga64」氏は、私の「キャスリン・ストックと千田有紀は、ジュディス・バトラーのジェンダー哲学を、十分に理解していない」という批判の方が間違っており、バトラーを理解していないのは私の方だという趣旨の、拙論への反論を寄せられた。
もちろん、私自身、「哲学」の専門家でもなければ「フェミニズム」の専門家でもないし、バトラーにしても、2冊読んだだけだから、バトラーの思想の全てを理解しているわけもなく、まだまだ知らないところもあれば誤解もあるだろう。だから、ご批判やご意見を聞かせていただくのは大歓迎である。
ただし、私の基本的な考え方を先に書かせておいていただくと、一一「人は、すべてを知ってから、初めて自分の意見を公表するというわけにはいかない。そもそも、すべてを知ることは不可能だ。だから、それまでに知り得た範囲の知識で意見を持ち、過渡的なものでしかないそうした自分の意見を誠実に語るしかない。また、その上で、さらに学んでゆき、自分の考えをブラッシュアップしていくしかない」一一と、斯様に考えている。
だから、私の「今の意見」が、「絶対に正しい(無謬である)」とも「訂正不可能なもの」だとも思わない。
つまり「知らないこと」については考慮しようがないが、「新たな情報」を得れば、それをその段階で勘案して、自分の意見に適宜修正を加えつつ練り上げていく、ということになるだろう。
その証拠に、私は、件のレビューの最後の部分で、千田に対して、誤った「批判的な要求」をしたことについては、その誤りに気付いた3日後には、レビュー原文に【お詫びと訂正】を書き加えている。
こうした「無知」や「事実誤認」による「誤った意見」表明については、私は「過ちを改むるにしくはなし」という考え方において、けっこうしばしば「お詫びと訂正」をしている方だと思う。
無論、そのことを本気で自慢するつもりは無いが、私の「note」のトップページを見てもらえばわかるとおり、私の興味の範囲は極めて広いし、新しいことにもどんどん興味を持つ方だから、おのずと何か特定ジャンルの「専門家」ということにはならず、いつでも「初心者」の立場なのだ。そのため、どうしたって「誤り」や「過ち」もあるし、あって当前だと考えているのである。
むしろ、「よくある問題」としては、みずから「誤り」に気づいていながらも、それを他者から、ましてや論敵から指摘されると、その「誤り」を認めず、無視したり隠蔽しようとしたりとすることの方が多いではないだろうか。
例えば、私が現在批判している、「武蔵大学の教授」て映画評論家でもある北村紗衣は、故意か過失かは問わないとしても(まず間違いなく故意だろうが)、明らかな「誤読」によって、私の文章をSNS「note」の管理者に通報し、そのことによって、私は多少なりとも被害を被った。
で、そのことについて、私は、事実を摘示して批判する文章を公開したのだが、もともと自分から接触したきた北村紗衣は、私の批判を黙殺し続けた。
それで私は、北村紗衣が、私の批判を読んでいないのではなく、故意に無視しているのだというのを、論証してまで見せたのである。
つまり、北村紗衣の最悪なところは、「自らの誤りを決して認めない」という点であり、それでいて、相手が弱いと思えば、嵩にかかっね攻撃を仕掛け、威丈高に謝罪を要求するという、その臆面もない「ダブルスタンダード」ぶりである。
北村紗衣は「武蔵大学の教授」であり「教育者」の端くれであるにもかかわらず、人並みの良心を持たない、サイコパスタイプの人間なのである。
で、私としては、当たり前に、自らの「誤り」は認めたいし、それ自体は恥だともなんとも思っていない。人間にミスなつきものだからである。
で、『マテリアル・ガールズ』のレビューでの私の「誤り」とは、次のようなことだ。
本書著者のキャスリン・ストックと「解説者」の千田有紀は、「トランスジェンダリズム」あるいは「ジェンダーアイデンティティ至上主義」による政治運動を進める「トランス活動家」たちが、「ノーディベート(議論拒否)」という戦略を採用している点を批判している。
この点については、私もまったく同感なのだが、それならば千田有紀は、同じ「武蔵大学の教授」(つまり、同僚)であり、「ノーディベート」や「キャンセル」を常套手段としていることですでに有名な「北村紗衣」を批判しなければ筋が通らないから、北村紗衣を『批判せよ』と、そのように私は要求したのだ。
もちろん、この時点での私は、同学の教授である北村紗衣を、千田は「批判してはいないだろう」と、早とちりにもそう思い込んでいたのである。
だから、その時の私は、次のように書いた。
しかし、その3日後に、『情況』誌(2024年夏号 【特集】トランスジェンダー)を読んでいたところ、そこに収められていた千田論文「学問の危機と『キャンセル』の方法論」で、千田が「北村紗衣を含む「呉座勇一に対するオープンレター」に署名した面々」を批判していることを知ったのだ。
それで、私は慌てて、先の『マテリアル・ガールズ』のレビューに、次のような「お詫びと訂正」を書き加えたのである。
そんなわけで、私は、自身の「今の意見」が「絶対に正しい(無謬である)」とも「訂正不可能なもの」だとも思っていないので、「無知」による「誤認」や「誤解」があったとわかれば、当然のこととして「お詫びと訂正」をしよう。
しかしまたそれは、「無知」による「誤認」や「誤解」があると明らかになるまでは、たとえ「素人」であろうと「初心者」であろうと、意見表明を憚ったり遠慮したりすることはしないし、ひとつの意見としての尊重を求めもする、ということでもある。
したがって、今回寄せられた「ga64」氏のご意見についても、遠慮なく反論させていただくし、再反論も大歓迎だ。
そして、それこそが「議論」であり「ディベート」の実践であって、論敵を「ノーディベートだ」と非難するだけでは、それは「ディベートではない」ということである。
私は、基本的な立場として、ジュディス・バトラーの「ジェンダーは、制度的なフィクションである」という思想を、「事実(現実)」の摘示として支持している。
しかし、バトラーの思想を取り入れたものとして語られる「トランスジェンダリズム」に対しては「反対」の立場だ。
つまり、私の立場とは、「トランスジェンダリズム」には反対だが、それが「取り入れた」とするバトラーの思想は支持するから、そのため、少々「分かりにくい」ものになっているだろうことは、自覚してもいる。
だからこそ、件の『マテリアル・ガールズ』のレビューでは、そのあたりの説明を、かなり丁寧にしておいたのだ。
要は、「トランスジェンダリズム派」(以下「トランス派」と略記)も「反・トランス派」も、共に「バトラーの思想」を正しく理解しないままに、それを「利用」したり、そんな「トランス派」を否定したいあまりに「反トランス派」は、バトラーの思想まで誤って批判していると、私は両派を批判したのである。
「両派ともに分かっていない」と。
こうした私の意見に対し、「ga64」氏は、『マテリアル・ガール』の著者であるキャスリン・ストックと、その解説者である千田有紀は「バトラーを正しく理解している」という趣旨の反論を下すったわけだ。
バトラーを理解していないのは、私の方である、という批判である。
で、この「ga64」氏による批判については、前記『マテリアル・ガール』レビューのコメント欄に(おのずと、いささか細切れに)書き込まれており、私とのやりとりの全文はそちらを確認していただくこととして、ここでの私は、「ga64」氏の示されたご意見に対して、氏のコメントを適宜引用しながら、反論を加えていきたいと思う。
以上が、本稿に至るまでの事情の、大筋である。
○ ○ ○
まず、結論から先に書いておくと、私は、私の「バトラー理解」が間違っているという「ga64」氏の説明を、まったく承服できなかった。
なぜならば、同氏の「説明」とは結局のところ、バトラーのジェンダー論には「難点」があると「あの先生も批判している。この先生も批判している」という体のものでしかなかったからだ。
要は、バトラーの意見は「完璧ではない」から「間違っており」したがって、それを批判している「キャスリン・ストックと千田有紀のバトラー批判」は「正しいに違いない」という論理構成のものである。
しかし、これが間違っているというのは、明らかだろう。
というのも、物事の正しさというのは「完璧(である)」ということを意味してはいないからだ。
つまり「部分的な誤認」などがあったとしても、つまり「瑕瑾」があったとしても、それで、その「考え方」を丸ごと「間違い」だとすることはできない。
たとえば「リンゴは赤い」という考え方は、基本的には正しい。
もちろん、「青いリンゴ」も「黄色いリンゴ」も存在して、そのことを知らずに「リンゴは赤い」といったのであれば、それは「無知による瑕瑾」ではあるけれど、しかし「リンゴは赤い」という認識そのものは「間違ってはいない」と言えるからである。
言い換えれば、「リンゴは赤くない」とは言えない、ということだ。
「リンゴは赤い」という言明は、多くの「例外」を含んでおり、その意味で「厳密に正しい」とは言えないし「完璧」だとも言えないだろう。だから、確かに「瑕瑾」はあるけれども、「リンゴが赤い」という認識自体は、基本的には「正しい」のであり、「誤り」ではないのだ。
で、ジュディス・バトラーの「ジェンダーは、制度的なフィクションである」という「画期的な考え方」を示した著作『ジェンダー・トラブル』についても、この種の「瑕瑾」は、確かにある。
けれども、その「考え方」としては「正しい」というのが、私のバトラー評価であり、私が、キャスリン・ストックと千田有紀を批判したのは、ストックが、その現実主義の立場から、バトラーの「ジェンダーは、制度的なフィクションである」という考え方を、丸ごと「与太話」扱いにして否定していたからだし、千田有紀はその点を批判することもなく、ストックのことを
などと絶賛して、その考え方を「保証」していたためである。
つまり、千田もまた、ストックに従ってバトラーの「ジェンダーは、制度的なフィクションである」という思想を「否定」したわけだから、私は両者のそれを「バトラーに対する無理解」だと批判したのだ。
そんなわけで、以下で「ga64」氏から示される、私の「バトラー理解」が誤りだとする論拠とは、所詮は、バトラーの「ジェンダー論」というよりは、それを語った著書『ジェンダー・トラブル』には「難点・瑕瑾」があると、そう指摘するものでしかない。それだけ、なのだ。
しかも、その「難点・瑕瑾」というのが、バトラーの「科学(サイエンス)の知見」に対する扱い方が「正確ではない」とか「間違いがある」とするものであり、バトラーの「ジェンダーは、制度的なフィクションである」という思想そのものを批判するものにはなっていないのである。
つまり、先の喩えで言えば、バトラーが「リンゴは赤い」と言ったことに対して、「いや、青いリンゴもある。だから、バトラーの『リンゴは赤い』という認識は間違っている」とするものでしかないのだ。
で、私にすれば、ジュディス・バトラーという思想家は、もともと「文学」系の「哲学者」であって、いわゆる「科学者(サイエンティスト)」ではないのだから、そのあたりの「知見」を「援用」することはあっても、それが「専門科学者並みに正確」でなどあり得ないというのは「自明の前提」だとしか考えていない。
つまり、「専門外のことに関する議論」については、バトラーだって完璧ではあり得ない(万能の神様ではない)、というのは「当たり前の話」だと思っているから、そのあたりに「瑕瑾」があったとしても、それをして直ちに「バトラーの思想は、間違っている」などという「飛躍した結論」にはならないのである。
むしろ、そうした考え方の方が、「結果ありきの飛躍」だろうと、そう考えるのだ。
つまり、そうした考え方は、あらかじめバトラーの思想を否定することを意図してなされた「粗探し」の結果でしかない、とそう評価する。
よって、「ga64」氏が示された、各種の論拠は、総じて「間違ってはいないが、バトラーの思想を、丸ごと間違いだと否定するものにはなっていない」と、そのように評価したのである。
言い換えれば、「ga64」氏のご意見も、「反トランス派」としての、その「党派」性において「バトラーを否定したい」という「結論」が先にあって、否定という目的のための論拠となるらしいものを、あれこれ掻き集めてみた、という程度のものでしかないと、そう判断したのである。
つまり、「ga64」氏は、その「結果ありき」の「党派性」の色眼鏡において、「部分と全体を取り違えた」と、そのように評価したのだ。
一一だから私は、「ga64」氏の示された各種の論拠を持ってしても、説得されることはなかったのである。
以下は、同氏のコメントに即して、反論していきたいと思う。
○ ○ ○
さて、まずは、この「政治学者」である『エステル・コヴァーチによるマテリアル・ガールズ書評』に対する反論である。
このコヴァーチ文で、バトラー解釈に関わるのは、「カテゴリーの擁護」と題された部分だけである(大した量ではないので、ぜひご確認いただきたい)。
あとは、コヴァーチ自身の、ストックに近い「政治的な立場」からの、「トランスジェンダリズム」に対する批判にすぎない。
そして、この部分は、もとより私も同意見であり、だからこそ、「性自認原理主義者」である「トランス派」たちのバトラー理解もまた、間違っていると、そう批判にしているのだ。
また、それゆえにこそ、ストックを含めた「反トランス派」に対しても「袈裟が憎けりゃ、坊主まで憎い」ではダメだ、と批判しているわけなのである。
つまり、「トランス派」がいかに酷かろうと、それと「バトラー理解」は、分けて考えなければならない。
それなのに、それができずに、色眼鏡的でバトラーを否定的に解釈してしまっていると、私はそうした観点から、ストックを批判し、それを「無条件に支持」している千田有紀をも批判しているのだ。
具体的に言えば、「カテゴリーの擁護」の部分でコヴァーチは、
としており、ここまでは正しい。
なぜなら、「カテゴリー」というものは、「人間が人間のために作ったもの」であり、当然それには、「責任」が伴うからである。
また、「人間が使ったもの」であれば、当然それは「人間(社会)の都合」という「制度的」なものでもあるし、おのずと『規範的』でもある。つまり、カテゴリーを無視する者(人間)は、人間社会のルールを無視する存在として、断罪されるのだ。
例えば、「ゴキブリを殺すのも、人間を殺すのも、命を奪うということでは同じことだから」と言って「人間を殺す」ことは、「カテゴリーの混乱」に基づく「誤り」だとして断罪されるのだが、しかしそれは、所詮「人間の都合」でしかない。
言い換えれば、「人間の都合」で作られた「カテゴリー」というものは、当然、完璧ではないし、すべての存在について「公正(フェア)」なものでもない。その時その時の「有力な人間(権力者)に都合の良いもの」でしかあり得ず、その意味で「完璧=永久不変」ではあり得ない。
つまり、時代や状況が変われば、おのずと「誤謬と見做されるもの」を含む性質のものだからこそ、その事実が明らかになれば、その責めを負わなければならない、ということである。
次に、
「あたかも〜かのようである。」とあるように、ここはかなり「恣意的なバトラー解釈」による要約なのだが、こんな幼稚なことは、狂信的で頭の悪い「トランス派」以外は、誰も考えはしないだろう。無論、バトラーだって、そんな呑気なことは言っていない。
つまり、ここの「恣意的要約」は、明確な故意を持つ「悪意ある印象操作」としてなされたペテンなのだ。
しかし、バトラーが言ったのは、簡単に言えば「カテゴリーとは、絶対不変のものなどではない」ということである。
言い換えれば「変形・改訂はできる」。ただし「無くす」ことはできない。
人間は「考える生き物」であり、考えるとは「世界を分割し、カテゴリー化して、人間に都合よく、構築し直す(形式を与える)」ということだからである。
つまり、ここでコヴァーチがやってしまっているのも、ストックと同じ「袈裟が憎けりゃ、坊主まで憎い」でしかないのだ。
バトラーは、そんな単細胞なことなど言っていないのに、バトラー理論を、一部都合よく切り取って援用した、「トランス派」の言い分が酷いからといって、意図的な印象操作までして、バトラーまで「酷い」と言ってしまっているのだ。
言い換えれば、「トランス派の思想が憎けりゃ、バトラーの思想も憎いから、何がなんでも否定しなければならない」という態度になってしまっているのである。
その結果、コヴァーチは、
と書いているが、そんなことは、最初から分かりきった話なのだ。
当然、バトラーもわかっているし、私も『マテリアル・ガールズ』のレビューで、わざわざ「回り道」までして、この点について懇切丁寧に説明したのも、まさにこの部分についてなのである。
「ga64」氏は、はたして私の『マテリアル・ガールズ』のレビューを、ちゃんと読んだ上で、このコヴァーチの書評を持ち出されたのあろうか?
それとも、哲学の素人の私の方が「間違っているに決まっている」という、色眼鏡による「決めつけでの斜め読み」をして、拙論を理解できないまま、それでも、権威筋の論説を持ち出して「これでどうだ!」と並べて見せれば、理屈はどうあれ、私が平伏するに違いないとでも、お考えなのであろうか。
私の意見を批判するには、まず私の文章に沿って批判してもらわなければ、どんな偉い人の意見を持ち出されても、そんな「肩書きの権威」だけでは納得できない。
そもそも、そんなことで恐れ入るような人間であれば、「大学教授」を捕まえて、素人の私よりも「バトラーがわかっていない」などと、説教をするわけもないのである。
実際、ストックや千田の主張を信じたとしても「大学教授なんて、大したことない(結構いい加減だ)」ということにしかならない。
なにしろ、彼女らが批判している相手の多くも「大学教授」なのだ。
しかし、「大学教授なんて、大したことない(結構いい加減だ)」というのは、間違いなく「敵方」側だけの話ではなく、「味方」側もまたほとんど同等に「いい加減」であろうというのは、「客観的第三者」つまり「大学に縁のない者」にとっては、明らかなことなのだ。
しかも彼らは、双方ともに「敵方の欠点は論っても、味方の問題点については口を噤むどころか、逆に褒め称えたりする」程度の「業界政治屋」であることが、しばしばなのである。
まただからこそ、私たちの面前でくり広げられているこの「意見対立」も、紳士的な、あるいは、学者的な「議論」にはならず、お互いに「あいつらは酷い」という「泥試合」の様相を呈してしまっているのである。
それに、私の場合は、「大学教授なんて、大したことはない」という事実は、ミステリマニア時代に「ミステリ評論」を書く大学教授とか大学研究者の著作を読んで、よく知ってもいれば、それを酷評してもきた。
また、少数ながらも、大学関係者と面識を得たが、彼らとて「別にどうってことない」という印象でしかなかった。人は悪くなくても、書いたものは「凡庸」であり、端的につまらなかったのである。
そして、何よりも最近の実例として、わかりやすく示すことのできるのが他でもない、千田有紀と同様「武蔵大学の教授」である、北村紗衣である。
「こんなに、知的にも人格的にも低劣な人間が、大学教授なんですか? しかも、終身雇用を保証されたテニュアの教授だとは、驚き入ったものだ」と、そう思ったのだ。
けれども、単に「あいつは馬鹿だ」と言うだけなら、Twitter(現「X」)上を中心に、ネット上に掃いて捨てるほど存在するだろう。
大学教授もそんなことをやって、騒ぎにもなっている。北村紗衣が中心人物であった「オープンレター事件」が、まさにそれである。
だが、そうした「短文」の応酬の99%は、単なる「悪口」であって、「根拠を論理的に示した批判」にはなっていない。
だからこそ、いつまで経っても「悪口の応酬」にしかならないのだ。
そんなわけで私は「こんな馬鹿(北村紗衣)の書くものなど、くだらないに決まっている」とは思っても、著作も読まずに、その行動のみを難じて批判するだけでは、「そんじょそこらの人」と同じことになるので、わざわざ、北村紗衣の著書5冊(当時)のうち、「批評」に関わる著作4冊を読み、これについて、個別に、詳細な論評を加え、これらがいかに「クズ本」であるかを論証した。
そうすることで、著者の北村紗衣が、いかに「クズ著述家」であるかを証明し、そのことで「テニュアの大学教授」と言っても、ぜんぜん大したことのない、そこらに転がっている凡庸な人間「以下の人物」であるという事実を、明らかにしたのだ。
次に示す、4本のレビューがそれだが、下に示したのは「読んで、レビューを書いた順」である。
したがって、後に行くほど、私の「北村紗衣への低評価」の論拠が厚くなっている。前のレビューで「ということではないか」と書いたことが、次に読んだ本では、事実として的中していたことが判明する、といった具合である。
だから、上から順番に4本とも読んでもらうのが、私としてはありがたいのだが、しかし、それは面倒だという人は、せめて最後の『シェイクスピア劇を楽しんだ女たち』についてのレビューは、読んでほしい。
これは「シェイクスピアの研究者」を名乗る北村紗衣の、その「専門(本業)」の実態を明らかにしたものだからである。
そんなわけで、これらを1本も読まないでいて、私の「北村紗衣批判」や、私の「自信」のケチをつけるような愚行はやめていただきたい。
千田有紀も『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』(鹿砦社)に寄稿した文章の中で、次のとおり書いていた。
ここでついでに書いておくと、千田有紀教授は、いかにも自慢げに、自分はバトラーを「専門的に読んでいて、他の人とは違う」と言いたげだが、しかし、「フェミニズムの専門家」がバトラーを読んでいるのは「当たり前」の話で、それは「私は呼吸をしている」と自慢するのと同じくらい、愚かなことでしかない。
それでは「あなたは、よく知らないことは、一切発言しないんだな?」と問われれば、千田有紀教授は「そうです」と答えるしかないのだが、実際には、千田は「専門以外のこと」も語っている。
例えば、私が年長者として「まだ若造の、世間知らずの大学の先生が、何を偉そうに世間様を語っているのか。そんなことを語りたければ、俗世間に出てもっと経験を積み、相応に歳をとってから言え」と言われたら、「おっしゃるとおりですから、私は今後、専門以外のことは一切発言せず、大学を出て、十分に俗世間の経験を積んでから発言させていただきます」とでも答えるのだろうか?
だが、現実には、そうはいくまい。
ならば、偉そうに、
などと、「専門の学者だけがわかっています」風を吹かすんじゃない、ということだ。
「学者」というのは、昔はよく言われたように、ある意味では「専門バカ」でしかあり得ないという、その限界に「少しは謙虚であれ」ということである。
ちなみに、下に示したレビューは、典型的な「専門バカ」を批判した文章で、あらゆるジャンルに当てはまることだから、ぜひ読んで欲しい。
「あることに時間をかければ、別のことにかける時間は、そのぶん無くなってしまう」という当たり前の話を書いており、これは、そんなこともわかっていない、すべての「専門バカ」を批判した文章だからだ。
ともあれ、そんなわけで、バトラーの『ジェンダー・トラブル』には、
(1)科学的知見の解釈に誤りがあった
とか、
(2)利用した科学的知見そのものに間違いがあった
とかいった話は、私の場合、先刻折り込み済みなのである。
なにしろバトラーは、哲学者なのから、科学については素人であり、そこでは間違いもあるだろうけれど、だからと言って、バトラーの哲学そのものが間違いだということにはならない。
例えば、バトラーを含む「ポスト・モダン思想家」たちが、いささか衒学趣味的に科学的知見を弄んだというのは、歴史的な事実であり、そこで赤っ恥をかいたというのも事実で、もちろん私は「ソーカル事件」も知っているし、アラン・ソーカルらの著書『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』も、訳書刊行当時に読んでいる。
そして、そこで批判された部分、つまり「ポスト・モダン思想家たちの、科学的知見の濫用」に対する批判の部分については、まったく正しいとも思っている。
だが、哲学者の多くは、科学的知見を積み上げて、哲学的思想を生むのではなく、哲学的に考えた結果を、科学的な知見で「補強」あるいは「飾ろう」として失敗しただけなのだから、補強部分にミス(瑕瑾)があったからと言って、その哲学的思考や思想そのものが「間違っていた」ということにはならない。
つまり、「袈裟が破れていたからと言って、坊主までが二流だ」とは限らない、ということである。
したがって、「ga64」氏の、
の部分について言うと、無論それは今でも、生物学者にとっては重要なこと(正誤)ではあろうが、「バトラーの哲学」理解というここでの問題では、全く重要ではない。
「生物学の専門家からすれば、バトラーの生物学の援用による、持論の補強、または装飾は、穴だらけに見える」ということでしかないからである。
そして、「バトラー理解」において、より重要なのは、「生物学」というものが、そもそも、人間による「カテゴリー化」の産物であると考える「生物学を含む科学を、外から捉える視点」であって、「その世界内論理によって検証することではない」のである。
そして、そうした観点からすれば、こうした「専門科学者による、素人に対する粗探し」など、なにを今さら、という話にしかならないのだ。
たしかに「村の掟からすれば、バトラーはそれに無知だった」というだけの話なのである。
中途半端に「村の掟」にまで色目を使ったりしたのが「ポストモダン思想家」たちの誤りだったということだ。
そんなものを使わなければ、「生物学者」になど口出しできなかったはずだからである。
あと、「ga64」氏の、
の部分は、完全な「権威主義的色眼鏡」による、憶断にすぎない。一一というのは、「北村紗衣教授の実例」に明らかだろう。
「北村紗衣教授は、シェイクスピア研究の専門家だから、シェイクスピアをちゃんと理解している」などと思い込むのは、本を読まない人の「愚かな臆見」に過ぎないのだ。それと同じ話なのである。
つまり、バトラーの翻訳者でもあれば、その継承的発展者でもある竹村和子に、千田が学んだからと言って、千田はもちろん、竹村が、バトラーを完全に正しく理解していたという保証など、どこにもないのだ。
考えてもみてほしい、バトラーの研究者など、世界中にいて、ピンからキリまでおり、その「バトラー理解」もまた、当然のことながら、いろいろなのである。
例えば、ハイデガーの直弟子は、全員、正しくハイデガーを理解していただろうか?
皆が完全に正しく理解できていたなら、ハイデガーについての「解釈」が分かれようはずもないのだが、現実には、周知のとおりで、理解も評価も、いろいろなのだ。
つまり、「哲学」とは、もともとそういうものなのであって、「直接教わったから、正しく理解している」とか「かつては全面肯定していたから、正しく理解していたに決まっている」などとは言えないものなのである。「小学校の算数とは、わけが違う」のだ。
哲学的思考とは、その人の人間性や世界感覚と深いところで結びついているものなのだ。だからこそ、厳密にいうならば、それは「他人には、完全に理解することができない」しろものでしかない。
まただからこそ、「文学」と同じで、「解釈」がいろいろ出てきても、それはむしろ当然のことなのである。
もちろん、単純な誤読というものはあるし、私がそれをしている可能性は十分ある。
だが、そうした「凡ミス」的なことは別にして、「正しい解釈は、一つだけ」だなどとは言えないのが、「哲学」(や文学、芸術などの人文学)なのだ。
なぜなら、その「解釈者(観測者)」自身もまた、「観測対象の一部」だからである。
そんなわけで、殊にこの最後の、
という「権威主義的な決めつけ」は、いかにも「非哲学的なもの」でしかなく、このような「権威主義」で物を見る人は、世が世なら「天皇陛下は神様に決まっている」とすら考えたこと間違いなし、なのである。
昔の人は、今よりもずっと「情報が限られていた」から、そんな与太話を鵜呑みにした部分もあったのだが、しかし、今の「トランス派」や「反トランス派」にしたって、その大半は、この「ga64」氏と同様に、自身の「信念」を補強してくれる「情報」ばかりを掻き集めるというその愚行において、昔に人と大同小異の「情報不足」に陥っている。
それこそが、ネット社会における「フィルターバブル」であり「サイバーカスケイド」の問題なのだが、この手の「イデオロギー」や「信仰」の人たちは、そういう言葉は知っていても、愚かにも「自分は違う」と思い込んで、ひたすら「自分に都合の良い情報」ばかりを集めて、いっかな「他者の意見」には、耳を傾けようとはしないのだ。
○ ○ ○
そんなわけで、私の「バトラー解釈」が間違っていると言うのであれば、「あの先生はこう言ってる。この先生はこう言ってる」ではなくて、「あなたはこう書いているが、ここは、これこれの理由で間違っている」と、そのように、私の書いたことに即して、批判していただきたい。
最初に書いたとおり、もとより私は、哲学の素人だし、特別に頭の良い人間だとも思ってもいないから、間違いが間違いだとわかるように、具体的かつ論理的に説明してもらえれば、過ちを改めるにしくはない。
そもそも、私が、北村紗衣を含む「大学教授」を始めとした「有名人」たちを、片っ端から「馬鹿」だ「クズ」だと言うのは、私のような、何の学もない市井の読書家ですら、そう言いたくなるほど、そうした人たちのレベルが、あまりにも低いからなのだ。
自分が並外れて賢いと思っていれば、「馬鹿を相手に、わざわざ馬鹿だと評する」ようなことはしない。
「それなりに賢い人たちなのだろう」という期待があって、それを裏切られるから、本気で腹を立てて、「この馬鹿が」「このクズが」と言うのである。
一一もっとも、そこに「怒りの感情がこもっていない場合」は、あらかじめ「こいつは馬鹿だろう」と思っていたのが的中したような場合である。
「やっぱりそうだった」と思うだけだから、「やっぱり馬鹿だ」という感じで、あまり感情はこもらないのである。
そんなわけで、「世間的な権威」や「肩書き」など、もはや信じられなくなっている私に対しては、「偉い人がこう言ってるんだから、お前ごときの言うことなど、間違っているに決まっている」式の批判では、とうてい納得することなどできない。
だからどうか、できるかぎり、私の論説に即して、その誤りを、具体的かつ論理的に批判するご意見をお聞かせいただきたいと、そのように、心からお願いしておきたいのだ。
○ ○ ○
なお、「ga64」氏がコメントで示された、あれやこれやの「先生がたのバトラー批判」については、以上において、そのすべてについて、個別に反論したわけではないので、ここからは、上には引用しなかった「ga64」氏のコメント即して、個別にコメントしていこう。
これも、結局のところ、哲学者バトラーの「科学」の扱いが、「ポストモダン思想家」らしく「遊び半分でいい加減」だとするものなのだが、こうした「ポストモダン思想」の「戯れ」とは、元々は「専門家が、象牙の塔の権威を振り翳して、他の人の話を聞かない」とか「権威を鵜呑みにする、宗教信者的な人があまりにも多い」という硬直した現実が広くあったからなのだ。
だから、相手の伝統形式に乗るのではなく、それを「揶揄う」ことでその形式を脱臼させ、そのことで「脱権威化する」という「意図」から、それはなされたものなのである。
だが、そんな歴史的な事情も知らずに「フレンドリーな大学」で学んだだけの苦労知らずたちが、こうした「あんなもの」的に一面的で軽薄な批判をするのである。
そもそも、教授がたに気やすく物が言えるようになったのは、ポストモダン思想のおかげであり、それが、「ポストモダン思想」が求められ、流行った理由なのだ。
その恩を忘れて、本来なら、権威に平伏するしか能のなかったような凡庸な輩が、偉そうな「ポスモなんて、お遊びだ」などと、今の時代になって、知ったかぶりで、事情通を気取るのである。
一一そもそも「ga64」氏は、「ポストモダン思想の本」を読んだことがあるのだろうか?
あるのであれば、書名を挙げて、「自分の言葉」でその本の評価を、具体的かつ論理的に語っていただきたいものである。
これも同じである。
なぜ、「生物学者」や「科学者」といった「哲学者以外の人たち」の「バトラー批判」しか、出てこないのかという事実にこそ、注目すべきであろう。
これは、すでに反論済み。
伝言のみ。
「ga64」氏は『伝統的保守主義』の何を知っていて、このような断言をするのか?
ちなみに私は、昔、ネトウヨとケンカした際に「そもそも、あなたは保守を名乗っているが、どんな保守主義の本を読んでいるのか?」と問うたところ「ケント・ギルバートとか」などと言うので「バークやオークショットを読めとは言わないが、小林秀雄や福田恒存くらいは読んだ方がいい」と、そう返したことがあるが、まして「保守」ではない「ga64」氏ならばどうなんだ、という話である。
なお、私は英文は読めないので、最後の論文はパス。
翻訳ができれば、ぜひご報告願いたい。
なお、この論文の邦訳を読み、それで説得されないかぎりは、今のところ「ga64」氏の意見は、単なる「権威主義的な決めつけ」ということにしかならない。
なにしろ、読んで理解しているはずの、ご「自分(当人)の言葉での説明」が、いっさい無いのだから、そういうことにしかならないのだ。
生成AIによる要約文を読まされているような感じだが、生成AIの方が、まだ読みやすくて親切なのかも知れない。
ともあれ、上のご感想は、私の書いた『マテリアル・ガールズ』のレビューを読んでいないか、理解していないからこその「誤謬」である。
なぜなら、『生物学は自然科学であり政治を離れて実証的に定義できるもの』という考え方自体が、「自然科学」もまた、明らかに「人間のための(人間視点の)制度」であることを、暗黙の前提としたものでしかない、という事実を理解していない。
また、その「暗黙の前提」の存在を無視しない(自覚的に思考する)という「哲学」における「客観性」への理解が、まったく無いからである。
「宇宙人から見れば」、人間の「科学」とやらは、「人間都合による、世界の文節化であり解釈でしかない」ということだ。
まあ、これでもわからないだろうが。
それはそれとして、いちど私の文章を生成AIに要約させてみてはどうだろうか。それが、拙論の理解の助けになるかも知れないし、それなら私自身も読んでみたい。
これも同じである。
アラン・ソーカルについては、その著書『知の欺瞞』を読んで、その上で、彼の批判の主眼は、ポストモダン思想家たちの「科学利用」の「いい加減さ(濫用)」批判であって、「哲学的思考」の価値そのものまでは、賢明にも踏み込んでないというのが、私の評価である。
あくまでも、ソーカルによる「ポストモダン思想」批判とは「袈裟が破れているから、坊主の方も二流かも」という仮説の「傍証」にすぎない。
リチャード・ドーキンスについても、これは同じ。
あくまでも、「科学の立場」から「擬似科学的論説」を批判しているのであって、これは彼が「宗教」を批判しているのと同じことだ。
つまり、ドーキンスの「宗教批判」とか「ポストモダン思想批判」というのは、それが「疑似科学」的なものである点を批判しているのである。
で、私はその点を理解しているので、ドーキンスの「宗教批判」には賛成している。
なぜならば、「宗教」も「科学」も、バトラーが「哲学」的に言うところの「(人間都合の)制度的なフィクション」でしかないのだが、ドーキンスは、擬制としての「宗教」は擬制としての「科学」にくらべて、その「出来」が悪いと批判しているからである。言い換えれば、ドーキンスの批判は、バトラーの哲学が問題とする「脱人間」的な客観性には届いていないし、そこまでは問題にしていない、ということだ。
例えば、無神論者の私が「フランシスコは、ベネディクト16世なんかとは比べ物にならないほど素晴らしい」と言えるのも、「カトリックの中では」という、議論の範囲の限定の上で語っているからなのである。それと同じことなのだ。
いいえ、「ジェンダーが社会構築物である」ことを「完全に理解」できているのなら、そもそも「善悪」もまた「社会的構築物」だと理解しているはずだから、「我々の方が正しい」とは、言えなくなるはず。
また、そこまでわかっていても、それでも「正義」だと主張するのなら、それは端的に言って、素人騙しのペテンでしかない。
これも、私の『マテリアル・ガールズ』のレビューをまともに読んでいない証拠でしかない。
なぜと言って、私がレビューで「遠回りして」でも「哲学的なものの考え方」を説明したのは、ストックや笙野頼子のような「人間社会における制度」を「自明なもの」と考えるのは、間違いだということを、わかりやすく説明したかったからである。
だが、ここでも連呼される「女性が、生物学的特性において、尊重されるべきだ」という主張は、「女性という制度」を絶対視している証拠でしかない。
しかしそれは、「党派利益」であり「既得権益」の防衛でしかないのだ。
ただ、人類が長らく「ジェンダーという社会的構築物を利用してきて、もはやそれが、ひとつの自然になってしまっている」という事実と、そのために「ジェンダーが社会構築物であることを理解できない人たちの方が多い」という事実において、私はそうしたものの「改変」には、慎重であらねばならないとしているのである。
言い換えれば、それが自明な事実だから、尊重するのが当然だ、とは言っていないのだ。
喩えて言えば、小学生に高等数学を強要するのは、愚かなことだという話なのだ。
まあ、ここまで噛み砕いて説明しても、わからない人にはわからない。なにしろ「能力の有無」の問題なのだから、どうしようもないし、仕方がない。
だから私は、『マテリアル・ガールズ』のレビューにおいても、最後は、次のように書いておいたのだ。
つまり、私があの「遠回り」で説明したのは、「ジェンダー」や「生物学的性別」をも含む、すべての「カテゴリー」は、バトラーが言ったように、「すべて、人間都合の制度的フィクション」でしかないのである。
人間というものは「剥き出しの真実」を直視することなどできないからこそ、それを「制度的なフィクション」で糊塗して、人間に受け入れやすい「物語」の中で生きてきたのだ。
当然、今を生きる私たちの社会も、そうした「フィクション」の上に成立しているのだから、「それは全部フィクションなんだから無視していいとか無視できるといった、そんな軽いものではないのだ」と、私はそう主張して、「トランス派」の急進主義を批判するともに、「話し合いによる漸進主義」を主張したのである。
つまり、私の議論は「哲学レベル」と「制度的現実レベル」の「二段構え」になっているのだが、ストックや「ga64」氏には、第二段階の「制度的現実レベル」しか見えておらず、そのためにバトラーの「哲学」を理解できていない。
私はそれが、純粋に「思考の問題」としてはお粗末だと、そのように批判しているのだ。
喩えて言えば、それは、お芝居をしているうちに、それが実人生だと思い込んでしまった人のような、愚かさだと言いたいのである。
そんなわけで、可能だと思うのなら、私のレビューに即して、具体的に反論してみせろと、そう要求しているのである。
批判とは、断言して主張を押しつけることではなく、相手のロジックの内的矛盾を指摘することで自壊させるという営為なのだ。だから、相手の理論に沿って、それは行われなければならない。
それに、そもそも批判者には、それをする義務がある、とまで言われなければ、この程度のこともわからないのだろうか?
これも同じ。
ここで「ga64」氏の区別する、「性別の二元論」(科学的バイナリ)と「生物学的決定論」の区別とは、そもそも「人間のための制度的フィクション」を前提としてものであることが見えなくなって、それを自明のものとした上での、言うなれば「第二段階」の中での「カテゴリー化」でしかなく、そんな「無限分割」が可能な「手前味噌な定義」による戯論につき合うつもりは、私にはない、ということだ。
例えば、先に紹介した『LGBT異論』に収録された、堀茂樹(仏文学者)と滝本太郎(弁護士)の対談で、堀だったかは「相手の手前味噌な語彙」に乗っかって説明する必要なないと、実に適切な指摘をしている。
なぜ、相手の「語彙」を安易に受け入れてはならないのかと言えば、その「言葉」自体が、その「思想」を前提としたものだからで、その言葉をつかうことは「相手の土俵に登る」ということだからだ。
そして、そのわかりやすい実例が「トランス派」のいう「シスジェンダー(異性愛者)」という言葉なのだが、こうした罠は「すべての専門用語」に言えることであり、なにも「トランス派」の専売特許ではないのである。
したがって、「自分はわかっている」とおっしゃるのなら「当たり前の言葉で説明してみせろ」という話なのだが、それが出来ないのが、「専門家の権威」で相手を威圧することしかできない人たちなのである。
まず、次のところに「インチキ」がある。
私が「指定した」のは、
つまり、「コメント欄に細切れに書け」と「指定した」のではなく、『細切れになるかも知れませんが、このコメント欄に書いていただくか、私のレビューへの反論だとして、そちらで記事を立てて』欲しい、ということなのだ。
また、私は、「ga64」氏の(G-1~7)までを読んだ段階で、次のように提案している。
つまり、「コメント欄でに細切れのやりとり」か「双方記事を立ててのやりとり」かと言えば、無論、後者の方が好ましいと「提案」しているのだが、「ga64」氏は、その事実を無視して、
と、このように、まるで「まとまった文章として、書こうと思えば書けるけれど、あなたがコメント欄に書けと言うから、このようになったのだ。」だから、
と、そう言っているのである。
これは、ひどい言い草ではないだろうか?
『正面から取り組』むべきは、私を批判した当人である「ga64」氏であるはずなのに、自分は「まとまった記事」を書くつもりはないから、てててああさんの記事に反論してはどうかと、そう言っているのである。
しかも「私は、あなたの指定どおりに、コメント欄に細切れの反論を書いたのだから、義理は果たしているでしょう」という、私の言葉を捻じ曲げての「自己正当化」によって、「ga64」氏は、自分が仕掛けた「批判」についての責任から、自分を「免責」しているのである。
要は、ガチンコで勝負する自信がないのを、「言葉を偽って、ディベートする責任回避している」わけなのだが、これは「ga64」氏自身が批判している「トランス派のノーディベート」論の「相手が話にならないから、無駄な議論などしないのだ」という「嘘」による自己正当化と、いったいどこが違うというのだろう。
この「最後っ屁」にも似た言い草に対する、私の反論は次のとおりである。
以上のような次第で、最初にも説明したとおりで、「ga64」氏は、私の『マテリアル・ガールズ』のレビューをまともに読んではおらず、無論、理解など到底していない、としか評し得ない。
それでいて、自分たちの(幾人かいる)「教祖」であるところの、キャスリン・ストックや千田有紀が、私から「バトラーがわかっていない」と批判されたものだから、その批判を少しでも無効化したいと考えて、あれこれの論文を「かき集めてきた」というだけの話なのだ。自分の頭も言葉も、まったく使うことなく。
「あの先生もこう言っている。この先生もこう言っている」とやれば、私が「畏れいる」とでも思ったのだろうが、そんなことで畏れいるようなら、わざわざ「トランス派」と「反トランス派」の両方に対して「バトラーがわかっていない」と批判しておいて、「反論できるものならしてみろ」などと挑発したり、「馬鹿と阿呆の絡み合いだ」などと批判したりはしないのである。
「ga64」氏のやっていることは一一当然のことながら、無知ゆえに自覚はないだろうが一一、結局のところ、昔「ネトウヨ」がよくやっていたことと、まったく同じことなのだ。
ネトウヨ とやり合ったことのある人など、今やほとんどいないと思うが、彼らは、自分に都合のいい「資料」をかき集めてきて、「あなたの見解は間違っている。その証拠としてのソースは、これこの通り」と、あちこちから、かき集めたものを「コピペ」して、さも自分の意見であるかのように語っていたのと、まったく同じなのである。
私はよく、書評でも映画評においても、SF作家シオドア・スタージョンの、次の言葉を引用する。
つまり、「学者」だ「大学教授」だ「哲学者」だと名乗っても、その「9割はクズ」であり、その「クズ」が、妬み半分で、数に任せて「1割の本物」を貶すことなど、古来より、当たり前に行われてきたことなのだ。
だから、私は、キャスリン・ストックなどという聞いたこともなかった教授のことを、外人さんだからと、ことさらに有り難がったりはしないし、それを高く評価する千田有紀のことも高くは評価しない。
彼女らと「反トランス派」という点では同じでも、だからと言って私が、彼女らを「学者として」高く評価しなければならない「義理」など、毛ほども無いのである。
私自身は、大した人間ではないけれども、優れた本を読んできたという自負では、ストックにも千田有紀にも劣らない。
だから、それらの「一流品」と比較したときに、ストックや千田が「二流以下」に見えるというのは、当たり前に正直な感想であり評価でしかないのである。
ましてや、その「取り巻きの有象無象」が「クズ」だというのは、論を待たない事実なのだ。
しかし、たとえ「クズ」だとしても、「同じ人間」なんだから、筋を通せば、礼儀も尽くすし、議論もする。
ところが今回の場合、見てのとおり「筋も通さなければ、嘘もつく」ような相手ならば、心からの「クズ」呼ばわりも妥当であろう。
それが不満なのであれば、正々堂々と「自分の言葉と責任」において、「私のバトラー論」を、それに即して批判してみせろ、ということだ。
それが出来なかった以上、「反トランス派」であり「キャスリン・ストックや千田有紀は、バトラーを正しく評価している」と主張する「ga64」氏は、しかし、そもそも人として話にならないのだから、ましてや「人を評価する者」としても信用に値しない、としか評価し得ないのである。
特に、最後の、
などは、私が「専門」とする「北村紗衣」の、
という威丈高な「断言」と、須藤にわか氏の批判に対する、「アメリカン・ニューシネマの定義」は「映画研究の専門家である自分の定義の方が正しいに決まっているのだから、素人はそれに従え」という趣旨の論文の文体に、「そっくり」だとも言えるだろう。
したがって、「北村紗衣」そっくりの「空疎な権威主義者」でしかない「ga64」氏を、私が「人並み」に評価する気になれないのは、もはや致し方のないことなのである。
「シェイクスピア研究者のシェイクスピア知らず」と同様、「バトラー批判論文の紹介者」である「ga64」氏も、「バトラーを理解していない」というのは無論、千田有紀が言うとおり、実は「読んでもいない」のではないかと、私は疑っている。
「トランス派」にしろ「反トランス派」にしろ、にぎやかに「活動」なり「運動」なりをしている人の9割は、所詮「クズ」。
偏頗な情報収集や読書しかしておらず、そのささやかな「専門分野」ですら、じつはあまり、よく理解していないというのが、千田有紀も指摘したとおりの事実なのだ。
例えば、北村紗衣が、志賀直哉すらまともに読まないまま、先行研究の知見を、出典を明記せずに、しらっと紹介していたのと同じようなことだ。
キャスリン・ストックは、まだしも元々が「美学」の先生だから、多少はいろんな本を読んでいるかもしれないが、千田有紀教授が、例えば、夏目漱石の『明暗』を読んでいるか、プルーストの『失われた時を求めて』、あるいは、ハイデガーの『存在と時間』を読んでいるかと言えば、かなり疑わしいのと同じことである。
だが、自分の「専門」の中でだけ語っておれば、素人を相手にして「あの人たちは、読んでいるかどうか疑わしい」などと、くだらない自慢もできるのである。
その程度の話だから、今どきの自惚れ上がった、(与那覇潤言うところの)「お子様学者」としての「大学教授」などには、心底うんざりさせられるのだ。
(2024年11月18日)
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