施川ユウキ 『バーナード嬢曰く。 6』 : 〈承認と否認〉をめぐる 葛藤の果てに…
書評:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第6巻(REX COMICS・一迅社)
施川ユウキの作品はほとんど読んでいるはずだが、その作品傾向を大別すると、内面性を強く反映した「叙情的な作品」と、生活的リアリズムをベースにした「自虐的ギャグ作品」の二つに分けられるように思う。
前者の代表作が『サナギさん』『ヨルとネル』『銀河の死なない子供たちへ』といった作品だとすれば、後者は『鬱ごはん』『がんばれ酢めし疑獄!!』そして、本作『バーナード嬢曰く。』もそうだろう。
もちろん、完全に二分されるというわけではなく、それぞれの作品が、どちらの性格を基調にしているかということであって、その割合こそ違っているものの、どちらの要素も含まれるのは、同じ作者の作品として、むしろ当然である。
例えば、本作『バーナード嬢曰く。』は「読書好きの、あるあるギャグ漫画」というのが基本ラインだが、その中で、バーナード嬢こと町田さわ子と、読書友だちである神林しおりとの「友情物語」という側面もあり、日頃は大ボケのさわ子は、時に、極めて繊細な心遣いと洞察によって、その「優しさ」を示し、神林の「孤独」を癒しもする。
このギャップが「グッとくる」ところでもあれば、「百合」だなどと言われたりもする部分なのだが、施川作品の通奏低音として流れるのは「孤独」であると考える私は、施川ユウキの描く「友情物語」に「恋愛」的な要素はほとんどなく、それはもっと根源的な「人間の本質的孤独からの救済願望」とでも呼ぶべきものの、洗練されたかたちなのではないかと考える。
だからこそ、神林を思いやる時のさわ子は、日頃のボケっぷりが演技なのかと思えるほどの「女神」のごとき「優しさ」で、神林を救うのだ。
そして本巻では、そうした側面がかなり強く出ているように思う。
これが何を意味するのか、無論、正確なところはわからないのだが、施川が「あとがき」で、次のように「コロナ禍」に言及しているところを見ると、その影響ということも考えられよう。
つまり、前巻が刊行された頃は『コロナ禍で一番混乱していた時期』で、その切迫感に支配されていたが、コロナ禍の長期化で、その切迫感がだんだんと薄れていった時期に描かれたのが、この第6巻所収の作品で、徐々に緊張感が薄れきた時期だからこそ、それまでリアルな困難において押さえ込まれていた「人恋しさ」が、意識の表面に浮上してきたのではないか、という推測である。
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本巻で、私が特に面白く感じたエピソード、二つについて書いておこう。神林との「友情物語」の部分ではない。
一つは、第98話(98冊目)「山月記」の回。テーマは「自意識」である。
さわ子と神林は、読んだ本に「点数をつける」という行為について、次のような議論を交わす(P107〜109)。
中島敦の名作短編「山月記」が、言わば「潔癖な自意識過剰」を描いているという点で、ここでは神林の「潔癖な自意識過剰」と対応している。
そして、「山月記」の語り手主人公が、その「潔癖な自意識過剰」の故に「虎(人外)」となってしまう不幸に対し、神林の場合は、その「潔癖な自意識過剰」を、日頃いい加減なさわ子が相対化し「中和」して、結果として神林を救済することになる。要は「人間、失敗してナンボだから、気にするな」という楽天主義である。
さわ子の楽天主義的な意見に、神林は完全に納得したわけではない。当然である。
さわ子は「間違った評価表明は、人を傷つける」という側面を見落としており、あくまでも「自分」の問題としか考えていないからだ。
しかし、問題は、神林が感じているような「間違ったことを言ってはいけない」「それで他人を傷つけてはいけない」というのは、「原則」として正しい「人間倫理」だとは言えるのだけれど、しかし「現実」としては、人間は神様ではなく「完璧」ではあり得ないから、必ず「間違い」をしでかす存在なのだ。
言い換えれば、さわ子も言うとおり、人間は最初から「完璧なかたちで生まれてくる」のではなく、未熟不完全なかたちで生まれてきたものが「試行錯誤の経験」を重ねることで、徐々に「完成」を目指していく存在である(でしかない)というのが「事実」。
したがって、この場合、さわ子と神林の、どちらか一方が「完全に正しい」ということではなく、正解は、その「兼ね合い」の中にしかない、ということなのである。
だから、あえて「正解」風にまとめてみるならば「人は生涯、成熟を目指して、できるかぎりの最善を尽くしつつ、しかし失敗を恐れることなく、経験を積み重ねていくべきものである」ということにでもなろう。
そんなわけで、厳密に言うならば、人は「傲慢であって良い」のではなく「傲慢に見えるくらいで、ちょうど良い」ということになる。
と言うのも、本当に「傲慢」な場合は、自身の「未熟性」に無自覚なのであり、そのために「失敗を失敗と認めない」から、それが成長の妨げになってしまう。
しかし人間が成長するためには、失敗の経験が是非とも必要であり、同時に、その失敗を失敗だと認め得る「謙虚さ」も必要となって、ここで初めて、神林の意識する「謙虚さ」が重要となってくるのだ。
つまり、「謙虚さ」というものは、「保身」のためにあるのではない、ということである。
そうではなく、「謙虚さ」とは、自分が「未熟」であることを認めて、「成長のための努力」の必要性を認めるためのものでなくてはいけない。
ところが、神林の「謙虚さ」は「潔癖な自意識過剰」に由来するものであり、「潔癖な自意識過剰」というのは、言うなれば「自分は完璧であり得る」と考える、ある種の「傲慢」でもあって、その「過剰な自意識」を傷つけないための「防衛意識」でもあるのだ。だからこそ、神林は、しばしばそんな自分に気づいて「顔を赤らめる」て恥じるし、自己嫌悪にもなる。
言い換えれば、無意識的にではあるが、すでに「完璧な自分」に、少しでも傷がつかないようにと、ビクビクしているというのが、神林の「謙虚さ」における「過剰さ」の正体なのである。
したがって、さわ子の「抜けっぷり」が、神林に示すのは「私たちは未熟だし、もともと傷(欠点)だらけの未完成品なんだよ」ということであり「だから、他人との接触の中で、切磋琢磨して、自分を磨かなきゃならないんだ」ということなのである。そしてこれを言い換えるならば「摩擦を恐れるな」ということであり、声高に「傷つけられた」とアピールしたがる人の目立つ昨今の日本人には、殊のほか重要な認識なのだと言えるだろう。
(上の2枚は、第3巻より)
さて、次の興味深かったエピソードは、第101話(101冊目)の「レコメンド」。
「レコメンド」とは、要は「おすすめ」のことであり、例えば「おすすめ本」なんかもそうである。
この話題で思い出すのは、またしても先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」である。
けんごは、豊崎由美に「まともな書評が書けるのか」と言われて、
と、このように、読解力のない一般読者向けの「泣き落とし」を綴っているが、本の「おすすめ」をして喜ばれた時の喜びなど、読書家なら誰でも知っているに決まっている。なぜなら、それは「相手を喜ばせる」のと同時に「自分の価値観が追認される」ことでもあるからだ。
平たく言えば、「共感」されて「幸せ」な気分にならない人間など存在せず、それは豊崎由美でも私でも当然同じであり、『どれだけ幸せなことか知ってますか?』なんて問いは、「愚問」である以上に「自分だけは、よく知っている」という「傲慢(エリート意識)」の証でしかないのである。
まあ、このような「読み」は、それなりの「文学読み」には容易なことでしかないが、けんごの上のツイートの、「成心」丸出しの露骨な「お涙頂戴の意図」すら読み取れないような未熟な読者が、けんごのリコメンドを喜ぶのは「身の丈にあった選択」として、仕方のないことなのではあろう。
しかし、第98話(98冊目)「山月記」の回の感想として書いたように、「自分の未熟さを反省できない」人間は、成長できない。
未熟さを、未熟だと指摘されて、それをいつまでも認められないような人間は、いくら歳をとっても未熟なままで終わるのだ。決して「時間の経過とともに、自然に成長」したりはしない。
某氏が『認めたくないものだな……自分自身の、若さ故の過ちというものを』と語って、「反省」の必要性を認めていたとおりで、人間は「反省」が無いままでも、歳をとれば、おのずと相応に「読解力」がつく、なんてことはないのである。
したがって、私としては、町田さわ子が語ったように、けんごとそのファンには、「若さ故の万能感から 傲慢に振る舞い やがて己の未熟さに気づいて自己嫌悪に陥る」という「反省経験」を、いつかはして欲しいと願わずにはいられない。しかし、そのためには「失敗を失敗、未熟を未熟だと教えてくれる、大人の存在」が、是非とも必要なのである。
ともあれ、この第101話(101冊目)「レコメンド」は、単純に「とにかく承認されれば良い」という内容ではないことを、多くの読者に読み取ってもらいたいところである。
若者よ、承認コジキにだけはなるな。
未熟だが、成長を目指し続ける者こそが、そのままで、真に素晴らしい人間なのだから。
(2021年12月25日)
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