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本能寺の変1582 重要 ◎第154話 光秀の苦悩 光秀の不安 明智の将来 守るべき者 嫡男光慶 明智の血脈 明智の家 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第154話
光秀の苦悩 光秀の不安 明智の将来
守るべき者 嫡男光慶 明智の血脈 明智の家
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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
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→【 重要史料 】 【 人物 】
*加筆修正
*以下は、第154話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎嫡男十五郎光慶は、元亀元年1570の生れ。
フロイスの『日本史』によれば、天正十年1582の時点で、
光慶は、まだ十三歳だった。
これから逆算すれば、元亀元年1570の生れとなる。
その頃、光秀は、すでに、義昭の家臣。
京に、屋敷があった。
したがって、光慶は、京都生れ。
越前での雌伏時代を知らない。
【参照】目次小 4光秀の苦悩 1嫡男光慶 小
第7話 光秀の嫡男は、光慶である。
明智光秀張行百韻 天正十年五月二十七日。「続群書類従」
この時、光慶は、まだ13歳だった。
光慶は、ルイス・フロイスの『日本史』に登場する。
『日本史』
◎光慶は、生まれて来るのが遅すぎた。
光秀の三女は、永禄六年1563の生れである。
光慶とは、七歳もの年齢差があった。
この差は、大きい。
このことが、やがて、光秀の苦悩の元凶となっていく。
◎明智の将来は、暗い。
そして、天正十年1582へ。
光秀は、高齢者。
光慶は、余りにも、年少にすぎた。
未だ、元服ならず。
未だ、初陣ならず。
惜しむべし。
明智光慶。
もう少し、早く生まれていれば、・・・・・。
【参照】目次小 8光秀の苦悩 6守るべき者 小
第47話 光秀は、嫡男光慶のことで悩んでいた。
光秀は、平穏・安寧を望んでいた。「続群書類従」
光秀は、志向の違いに悩んでいた。
光秀は、信長との意思の疎通に問題が生じていた。
光秀は、明智の将来に大きな不安を抱いていた。
第48話 信長は、猜疑心が強い。
光秀は、信長の猜疑心を怖れた。
光秀は、強力な武力を有していた。
信長は、光秀を警戒していた。
光秀には、粛清の怖れがあった。
第49話 天正九年1581が分かれ道だった。
光秀は、信長の性格・気性を知悉していた。
光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。
光秀は、子らの将来を案じていた。
我等不慮の儀存じ立て候事。「細川家文書」
光秀は、最良の状態で光慶に引き継いでやりたかった。
第50話 光秀の悩みは、尽きず。
四国、長宗我部元親の問題。
光秀の説得交渉は、暗礁に乗り上げた。
説得交渉の成否が意味するもの。
最後の使者。
光秀は、多くの悩みを抱えていた。
光秀の心は、重く沈んでいた。
◎細川忠興は、永禄六年1563の生れ。
忠興は、藤孝の嫡男。
三女の夫。
光秀の娘婿。
二人は、同年齢。
弟に、興元がいる(永禄八年1565の生れ)。【 人物 】
◎細川家の将来は、明るい。
天正五年1577、十月。
以下は、謀叛人、松永久秀を攻めた時のこと。
忠興・興元兄弟が、この戦いに参陣した。
彼らは、まだ十五歳と十三歳の若さだった。
十月一日、片岡の城へ取り懸け、攻められ侯。
永岡与一郎・同弟頓五郎、あには十五、おとゝは十三、
未だ、若輩にて、一番に乗り入れ、
内の者どもつゞいて飛び入り、即時に攻めやぶり、
天主へ詰め寄せ、
内より鉄炮・矢数射尽し、切つて出で働く事、
火花をちらし、つばをわり、
爰(ここ)をせんど(先途)と相戦ひ、
城主、森ゑびなを初めとして、百五十余り討死侯。
兄弟は、ここで、華々しい手柄を上げる。
永岡が手の者、三十余人討死させ、
与一郎・頓五郎、兄弟高名なり。
惟任日向守、是れ又、手を砕き、究竟の者二十余人うたせ、
粉骨の働き、名誉の事なり。
若武者二人の活躍。
信長の好むところである。
余程、気に入ったのだろう。
これに、感状を与えた。
年にも足らざる両人の働き、比類なきの旨、御感なされ、
忝くも、信長公、御感状下しなされ、後代の面目なり。
(『信長公記』)
これらについては、後述する。