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本能寺の変1582 第188話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第188話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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殺戮は、七日間もつづいた。

 ⑤二十二日のこと。
  進入してから、八日目である。 
  これで、ようやく落ち着いた。
  殺戮は、七日間もつづいたことになる。 
 
   一、今日廿二、
     生け捕り少々到来、其の外いまた(未だ)注進なく候、
     此の如く大略打ち果し、隙(ひま)を明け候間、
 
  信長は、一乗谷へ向かうつもりだった。

      我々、明日廿三、一乗谷へ陳(陣)替せしめ、

信長は、執念深い。

刃向かう者を決して赦さない。

  信長の執念たるや、凄まじい。
  追撃の手を緩めようとはしなかった。
  生かしておけば、再び一揆を起こす。
  そう、思っていたのだろう。 

     猶々、国中悉(ことごと)く尋ね捜し、打ち果すべく候、

 
 ⑥下間頼照が捕らえられ、首を刎ねられた。
  顕如が越前に遣わした一揆の主謀者である。
  加賀へ逃げる途中だったと云う。
 
   一、下間筑後の事、先度は川へ追いはめ候由、申し候ひき、
     風尾(福井県福井市風尾町)へ、
     竹杖にすかり、竹笠にて罷り通り候を、
     此方へ忠節の者、くひをきり到来候、
     誠に、気をさんし候、

  信長は、敵の大将首を検分し、溜飲を下げた。
  「気を散じ候」、とある。
  機嫌がいい。
  何とも、不気味な光景である。

信長は、上杉謙信との衝突を覚悟していた。

 ⑦加賀の内、南二郡が降伏した。
 
   一、加賀の事、口二郡悉く敗北歟、

  さらに、北二郡も靡(なび)いてきた。
 
     河北・石川両郡の者ども、十余人連署を以って種々懇望せしめ、
     大坂より下し置き候ものども悉く生害させ、
     忠節のため、罷り出づべきの由申し候間、
     申すところ相違なくば、相免ずべきの由申し、
     朱印を遣わし候間、
     是れ又、相済み候、

  信長は、能登・越中へも進出しようと考えていた。
 
     能登・越中の事は、申すに及ばず、
     賀州相済み候間、是れ又同前に候、

  その意図は、明らかである。
  「先手を打つ」
  信長は、上杉謙信との衝突を覚悟していた。

越前は、要の国。

 ⑧信長は、越前を堅固な分国にしようと考えた。
  「要」
  それ故の長逗留であった。
 
   一、当国の事、去々年は大(小)谷に浅井相残り候間、
     爰元(ここもと)の事、急ぎ打ち帰り候つる、
 
     今度は、隙入るかたもこれなく候間、ゆる々々と逗留せしめ、
     (敵が)ふしおき(伏し起き)のせざる様に申し付けべく候、
     然る間、いまだ五十日も卅日も逗留すべき行(てだて)に候、
  

「見せ度く候」

 ⑨信長ならばこそ、の戦いであった。
  貞勝に「見せ度く候」、と言っている。
  得意の場面である。
 
   一、それには、此の国をいまだ見候間敷く候
     (まだ見ていないだろうから)、
     第一、木ノ目・其の外、口々、節所候の躰、
     番々城を構へ候様子、
     彼是れ、みせ度く候、
     其元(そこもと)、宿の普請以下、大かた調い候はゞ、
     ふと罷り下り候、

信長は、越前を奪い返した。

  斯くして、掃討戦は、ようやく終了した。
 
     くれ々々、此の国には敵一人もこれなく候、

「北辺の守り」

  信長は、越前に柴田勝家を配することに決めていた。
  「北辺の守り」
  来たるべき上杉との決戦に備えて。
  そのために、不安材料を取り除こうとしていたのである。
 
     加賀・能登・越中、同前に候間、
     隙を入る事、これなく候へども、
     国の成敗・其の外の儀、
     慥(たしか)に、申し付くべきのために、逗留候、

  そして、この事が翌天正四年1576の安土築城へと繋がる。
  東の脅威は、すでに片づけた。
  越前の地ならしは、これで完了した。
  となれば、次は南・北・西。
  すなわち、南、石山本願寺。
  北に、上杉。
  西、毛利。
  これらが、結ぶ、・・・・・。
  心底には、その事があった。
  信長は、岐阜城から西へ70kmほど移動。
  これすなわち、三方睨みの構えなり。

信長は、闘争心が旺盛だった。

 ⑩信長の気持ちは、高揚していた。
  闘争心、剥き出しである。
  華々しい勝利。
  広く世に知らしめよ、ということなのだろう。
  それは、程なく、公家たちへ。
  そして、諸国へと伝播していく。
 
     東国・西国、何れの口なれども、少しも敵蜂起の事も候はゞ、
     出馬すべく分別せしめ候、
     其の意を成すべく候、
     謹言、
     
        八月廿ニ日             信長
         村井長門守殿
       (「高橋源一郎氏持参文書」「織田信長文書の研究」2/2)

 おそらく、これと同様の書状が松井友閑にも届けられたことだろう。
 友閑は、堺の代官である。
 村井貞勝同様、広報官としての役目も担っていた。
 


 
 
 
 
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