西田幾多郎の純粋経験(6) ・純粋経験の統一作用の原動力は本人の意志にある ・一人ひとりの精神は、奥底では人と分離しない統一状態を求めている ・人にはこの統合への過程として、直観が与えられている ・純粋経験は主観と客観の二元論ではない無分別智という、意識の究極的な状態も指している
「わからない」と言い切るためには、 「わかる」を網羅する必要がある。 男女平等とは男女の『性差』と思しきものを洗いざらい吐き出して、 そして、残った【男とも女ともわからないもの】(虚無性の箱)に主体を移行すること。 何もわからなくなった時、 万物斉同の『象徴なき地平』に至る。
少数派、多数派って表現こそ、 「個人」を尊重しない差別だと思う。 個人って表現は状況を軽視していて形式的だし、 状況って表現は経緯を軽視していて盲目的だし、 経緯って表現は可能性をあまりに度外視している。 可能性を尊重しないことが差別ならば、 無分別こそが可能性だ。
少し前まで、日本にもオオカミがいたんだ 忘れていた、海に墓標はないんだ そういえば、部屋は大きな棺みたいだ あぁそうだ、記憶は主観の象徴だ 六次産業は人間の博物館みたいだ 計画された産物が肌に合わないのだ 計画は作為だから 追い風も向かい風も悦びたいじゃないか 生命は博打だから
「矛盾」ってのは存外特別な事ではないようだ。 最強と最強、最悪と最悪、ダブルバインド、 今日と明日、私とあなた、我と真我、神と仏、 国と国、社会と家庭、前か後か、有るか無いか、 生まれとか、希望とか、そんなほんのちょっとの違いで、 「わざととしか思えない」ほどに衝突する。
「文字」「お絵描き」「新機関」 行為には、削ること、塗ること、組むこととがある。 切磋琢磨した場合、それは無為、自然物のままである。 塗り分けた場合、それは有為、朽ち果てるものである。 編み出した場合、それは所為、作られたもの、カルマである。 これは万物普遍の原理である。
神に対する悪魔 金に対する愛、 悪魔は神の部分であり、 金は愛の部分ではなかったのか 貨幣(数)は万物の尺度たりうる 而して愛は万有(尺度、理念、存在)そのものであり、神の性質に他ならない 悪性の源は観測者側の弱さや恐れであり、 これに依拠する限りどんな仕事も善良たりえない
物事には常に二通りの正しい見方がある それ自体をそれの根拠とするか、 →自由 それ以外の全てをそれの根拠とするかだ。→神 それとそれ以外を同時にそれの根拠とした場合、それはそれでなくなる。 真相は様相たりえず、様相は真相たりえない。 真理は論理たりえず、論理は真理たりえない。
微生物と虫との違いは『殻』の有無 虫と動物との違いは『骨』の有無 動物と機械生命体〖都市〗との違いは『鉄筋』の有無 都市と無規範社会【アノミー】との違いは『無氣力』の有無 アノミーと〔理想郷〕との違いは『無自覚』の有無 理想郷と〘理想〙との違いは『無骨格』の有無
名前が変わるときそれは一度死に同時に生まれ変わる 初めて名を授かるときも同様だ 命名とはモノに独自の社会性を授け、特権と呪縛を与える行為 自由生命としての死、師弟関係の死、恋人関係の死、親子関係の死、友人関係の死、社会的役割の死 死とは元の名で呼ぶに相応しくなくなること
環境応答:→感受→応答→ シナプス:→電気信号→神経伝達→ 伝染:→感染→飛まつ→ 新陳代謝:→分裂→淘汰→ 代謝(我):→受精→交情→ 代謝(今):→感情(密)→行動(顕)→ 代謝(密):→知覚→思考→ 代謝(顕):→確定→未定→ 曼荼羅:同時無順序無限代謝→永劫の越今、越我
四聖:声聞、縁覚、菩薩、仏 解し、驕らず、乗せ、凝らず。 麟角喩独覚、部行独覚 犀の角。不空の空。 千年王国 それは後でも先でもない。 聖書の記述は「数」を逸し、「時」「象」「意」をも逸している。 読むだけでなく、時を跨ぎ自ら記し、その『心』になるのだ。 王とて拍動はみな同じ
【人が本能的に求める東洋の霊性の真骨頂、無分別智とは?】 無分別智とは、この世界が言語やフィルターによって分けられる前の全体を感じる心 「自分とそれ以外を切り分ける分別から逃れることが、比較・対立に苦しまずにすむ道。善悪、正解不正解にこだわらないこと」 (鈴木大拙)