「ねばならぬ」を無くす
何か計画を立てて、実行する。仮説を立てて実行する。未来を自分の想い通りにするために必要な行為である。また一人で生きているわけではなく、家族や友人の関係性の中で生きているとした場合、将来に備えて計画をして、実行に移すことことが大事になる。住宅ローンにしても年金にしても数十年の未来にわたる計画のもとに、行動することが義務付けられると言えよう。
社会全体が見えない未来にわたって計画的な行動を求め、経済活動の義務を課していると言える。それ自身は社会を保つ上で必要なことであるが、個々の人間には重荷や苦を生み出しているともいえる。
なぜなら未来を予測して計画を立てて行動しても、その通りにならないこともある。不慮の出来事でそうなることもあれば、自分の力が至らないこともある。
夢敗れて別の道を選択したり、不慮の出来事で計画を変えざるを得なかったり、勿論計画通りに上手くいくこともあれば、まあまあだったり、全く上手くいかなかったり、色々であろう。
そのようなリスクをどうやって許容出来るか? リスクに押しつぶされるのではなく、どうやっていなすことが出来るのかが、イチかゼロでなく、上手い生き方と言えよう。
そこで無分別な生き方が意味を持つ。計画を立てて、そこに精力を注いでいるときは、その計画を完遂したい、必達であると考える。「ねばならぬ」が生まれる。
でも「ねばならぬ」は執着となり苦に繋がる。また上手く言って楽に繋がったとしても、それをもっともっと欲しくなり、やはり執着、結局大きな苦に繋がる。
他に対して「ねばならぬ」を課せば、他の苦しみにも繋がる。また他の「ねばならぬ」は自分では制御できないから、それは苦しいというかやるせない。
「ねばならぬ」は本当にねばならないのか、よくよく考えて、減らしてゆくことが大事なのだ。
大きな「ねばならぬ」は、複数の小さな「ねばならぬ」に分解できる。そうすれば、その中には「ねばならぬ」ではなく「どちらでも良い」とか「できたらラッキー、出来なくてもOK」があるのではないか。
そこの根底には、出来ても出来なくても、私は、生きているとか私は、息をしているとかミニマムの安全を意識出来るのが大事だ。
生きているという保証をもって全てのものを考えれば、殆ど全ての「ねばならぬ」は「できたら良いが出来なくても構わない」となるのではないか?
「ねばならぬ」を極力減らすには、計画を予定通りに実行するのが目的ではなく、幸せな人生を持続的に送るのが目的であることを再認識することではないか?
今幸せな人生を送ることは、一旦分別したことを予定通りに実行することではなく、常に無分別な気持ちでいて、今現在を最適な選択をする、今生きていることに感謝をして、結果は素直に受け止めるということになるであろう。