やりたいことはなくていい 「分別」から「無分別」へ そして「無分別智」への道
子供のころは、人に合わせる自分が嫌いでした。先生に気に入られるように振る舞ったり、相手や状況に合わせて調子のよいことを言ってみたり。
相手が喜んでいるのを見ると嬉しくはなるのですが、「自分がない」ことや、人に合わせて態度がコロコロと変わることに対して、虚しさというか「自分がないコンプレックス」を持っていました。
自分とは何者か?
どうやって自己を確立するか?
本当に私が言いたいことはなに?
「自分を持ちたい」とずっと思って生きていました。でも、何をやってみても、「自分」は見えてきませんでした。
それが、コーチをやり続けて見えてきたことがあります。
それは「自分がないのがコーチ」だということです。
私がセッションで何かの目的を持っていたらどうでしょう。目標を達成して欲しい。幸せな人生を送って欲しい。いい人になってほしい。尊敬される人になってほしい。
それはクライアントを「私が考えるいい生き方」という枠にはめてしまうことになります。クライアントさんが人生を本当に自由に見つめるには、コーチの「自分」が邪魔になるのです。
禅の修行は、「自分はない」という体験です。呼吸を感じていると、周りの環境に応じて、息は常に変化しています。そして、あるとき自分が息になります。そのとき、「私が息をする」という「私」や、主体・客体という意識は消えます。
すべてがひとつになる瞬間。これが「無我」の状態ではないかと、個人的には思っています。
コーチングのセッションでも同じようなことが起きます。話をお聞きしていると、「私が相手の話を聴く」という状態から、「相手」「聴く」「私」という境界がだんだん消えていくのです。
「ひとつ」になったとき、話をする人も、話を聴く人も消えます。そこには「対話」という状態があるだけです。そのとき、どこからか「気づき」がやってきます。対話の神様が智慧をくださるのです。
もし、「自分がない」ということで悩んでいる人がいれば、自分などなくていいと、伝えたいです。そういう自分で突き抜けていけばいいのです。
ちなみに「私は何者である」というのは、「自分」が言葉になっている状態です。これを「分別」と言います。
現代では「分別がある」のはよいことだとされています。ものを分けて考えるということは、西洋的思想の特徴であると、鈴木大拙先生は著書『東洋的な見方』で指摘されています。主客を分けて考えることができるのが知識・知性であり、このことにより哲学も科学も進化を遂げていくのです。
しかし、禅においては「無分別」を修行します。
円覚寺管長の横田南嶺老師が、無分別の大事さについて解説されています。
「無分別」というのは、分別に対して、あまりいい響きではありません。辞書を引くと、「分別のないこと。前後の考えがないこと。思慮のないこと」とされています。
ただ辞書には、仏教語として「主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しないこと」という解説もあるのです。
岩波の『仏教辞典』を見てみると「無分別」は、次のように解説されています。
「分別から離れていること。主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようとしないこと。この無分別による智慧を <無分別智> あるいは <根本智> と呼び、根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を <後得智(ごとくち)> と呼ぶ。無分別を実現した心のあり方を <無分別心> という。」
「無分別」は仏教では、大切な智慧なのです。
先日のnoteの記事に、食堂の仕事をしているときに「机が『拭いて』と私を呼んでいる」という話を書きました。この体験を禅の師匠である藤田一照老師に話したところ、「確かにそれは無心の境地かもしれない。でも、それはただの無分別ではないか」と言われました。
「ただ無心で机を拭いていたとき、隅々まで机は拭かれていたか」
こう尋ねられたのです。
そう聞かれると、スピード重視でざっと拭いていたように思います。
いかに無心の境地で隅々まで拭けるようになるか。そこまでいくと「無分別」に智慧が現れている状態の「無分別智」ではないかと。「さらに精進して下さい」と励まされました。
師匠とのやりとりは、いつもこんな感じです。今回は少し掴んだかと思ったのですが、やはりまだまだでした(笑)
まず分別からスタートし、修行を続ける中で、どこかで「無分別」の境地が現れる。ただ、それで終わりでは無い。「無分別」を修行する中で、それは「無分別智」へと育っていく。
これは知性ではなく、智慧への道です。
「自分はない」ということと関連するのですが、私には、やりたいことがありません。これという趣味もありません。ゴルフはやっているけど、ゴルフがないと人生が味気なくなるということはありません。実際に食堂をはじめてから、もう8ヶ月ほどクラブを握っていませんが、特に問題ありません。
趣味ややりたいことを探していた時期もありましたが、いくら探しても見つかりません。これまで合気道やお茶もやってみましたが、どこかで飽きてしまうのです。
ところが面白いことに、禅の修行は20年、コーチは15年、なぜか続けられています。今回のメルマガを書きながら、どちらも自分をなくしていく道だということに気付かされました。
「自分はない」ということがしっくりくるのです。だから、やりたいことがなくていい。だからこそ「無分別」に、今ここを全力で生きている。楽しいことも全力、苦しいことも全力で。
食堂も自分がやりたかったことではありません。ご縁に導かれたという感じです。
食堂でいえば、先日、店長が作った料理をみて感動しました。一食にここまで手をかけるのかと。利益的に考えれば、まったく無駄な作業です。でも、「心を込めるってこういうことなのだ」と気付かされました。まさに「無分別智」の料理です。
あらためて「この人に食堂のいのちを託そう」と思いました。「一番適任な人がここにいる。結果はどうなってもいい。最後の責任は自分がとる。だから思いきりやってほしい」心から応援したいという気持ちが湧き出てきたのです。
ひょっとしたら、これがやってみたかったことかもしれません。「禅経営」というと、少し格好よすぎるかもしれませんね。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
自分もなく、やりたいこともない私ですが、嬉しい瞬間はあります。
先日、あるクライアントさんとのセッションで、「私は尻の穴はいくらでも人に見せられますが、腹のうちは誰にも見せていなかったことに気付きました。腹の中を言葉にしていきたいです」と言われました。
人には「これまでの人生で誰にも言えなかったことが初めて言える」「本当に言いたいことが言葉になる」という瞬間があります。
これは1人ではできません。2人だから現れてくる瞬間です。このとき、私は生かされていることを感じるのです。
ひょっとしたら、私は根っからの「2人でひとつ人間」なのかもしれません。自分はありませんが、クライアントさんといるときに「わたし」が完成します。
セッションのときの自分が本来の自分の姿ではないかと思うのです。
誰かとつながろうとするほど、孤独を感じるときがあります。自分が何かをやろうとするほど無理が生じるときがあります。
でも人は、もともとつながっているのです。
コーチングのセッションは、もともとつながっていることを体験することと言えます。そこからあなた自身が言葉になっていくのです。
坐禅もそうです。「周りとひとつ」であることを体験するのが禅の只管打坐です。
いかに「ひとつ」を体験できるか。あなたの人生の中で、「ひとつ」が現れるのは、どんなときでしょうか。誰しも「もともとつながっている」体験があるはずです。
ぜひ、問いを持ってみてくださいね。
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