憎即愛
憎即生死
憎むとは、相手に執着し拒絶する、生死の活動である。
相手に強い愛を求めた結果、拒絶された時に起きる。
愛即生死
愛するとは、相手に執着し欲する、生死の活動である。・
相手に強い愛を求めた結果、自分の行動になる
だから憎即愛となる。
人を憎むというのは、その人に関心がある。無関心であれば憎まない。もちろん愛する場合もその人に関心がある。憎むのはその人のことがただ嫌いではなく、許せない心と言えるし、愛するというのは、ただ好きではなく、積極的に欲するから愛するとなる。どちらも執着している。
だから、その強い関心が憎しみから愛情に変化することもあれば、愛情から憎しみに変化することもあると思う。
それは憎しみが一方的であったり、愛情が一方的であったりするからだ。憎しみが一方的なら、次第にそれが勘違いで、本当は愛情であることが分かれば、憎しみが愛情に変わることがあるだろう。
例を言えば、スポコンドラマで、スパルタの監督が出てきて、理不尽な練習をさせる。生徒はそれを憎んでいたが、後にそれは監督の愛情だということに気づくというのは典型的な展開だ。
愛情が一方的であれば、それに気づいた時に憎しみに変わることがあるだろう。これは割と簡単に想像できる。実は裏切っていた愛人を憎んで事件を起こすのは、サスペンスドラマの王道のストーリーだ。
愛する(渇愛)のも憎むのも良くないとするのが、仏教だ。執着はよくないと。でもそれが生死の活動で、人間らしいと思えば、全て肯定できる。
愛する、憎むに対して、慈愛、慈悲の考えで、相手に強く愛を求めることなく、一方的に相手に与える愛を認めれば、執着は減る。
もう一つは、お互いに自他を一緒に考える。そうすれば与える愛ももらう愛もなくなる。円熟した理想の夫婦像は、そういうことだろう。