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分別

最近あまりnoteを書かないけれど、たまに昔の記事にスキしてもらえることがある。ありがたいことです。読み返すと、一人ニヤリとしたりする🙂

それで、今は書きたいテーマもいくつかあるけれど、歳を取ってきたせいなのか、なかなかまとまりがつかない。テーマが大きくなり過ぎていることもあるのだろう。それなら、一行で済む短歌ならどうだろうか…とか…、とにかく、毎月一回ぐらい書いてみたいと思っている。
※写真はジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡撮影の銀河群ステファンの五つ子

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さて、前置きはこれくらいにして、今日のテーマは分別です。「ふんべつ」と読みます。ゴミの分別ぶんべつではありません。「分別のある人」と言うときの分別です。つまり、「物事を理性的に判断できる」ということですね。

理性とは、整然とした推論と正しい判断能力を謂うのでしょう。詳しい定義は辞書にあるので、ここでは詳細に立ち入りません。整然とした推論、言い換えれば論理性、科学的推論がそうでしょう。科学では現実の複雑な物事を単純な物事に分離・分解・分析して個々別々に理解します。そうです、「分ける」が分別の特徴です。

論理で動くものと言えば、現代のコンピューター・プログラムです。人工知能(AI)も基本的にプログラムで動いています(プラス、膨大なテキストデータ)。noteも“note AIアシスタント(β)”なんて云うAIを開発していますね。それに今chatGPTと言うものが流行りだしています。会話型のAI(人工知能)のことです。しかし、まだ時々間違ったり、偏向した返事をすることもあるようで、人間が教育しているとのことです。

昨年Googleのエンジニア、レモイン氏(Blake Lemoine)がLaMDAという会話型AIとの会話の内容を発表して、AIは感情を持っている(sentient)と主張しました。編集され文書になっています(この英文PDF)。サムネイル画像が刺激的!ですが、会話内容の日本語訳もあります。(英語のYoutubeもありますが省略)

しかし、大方の見方は批判的です。例えばこんな記事…

LaMDAは極めて高度なパターン認識システムであり、インターネット上の膨大な量の情報でトレーニングすれば、ある問いかけに対してどのような単語を並べれば適切な回答になるかを予想できるようになる。現時点で非常に洗練されていて、今後もさらに改善されるだろう。しかし、意識という点では、小型電卓と何ら変わりがない。
なぜそう言えるのか? LaMDAの場合、自分が発する答えの意味をまったく理解していないことが、少し調べるだけで明らかになるからだ。「何が幸せ?」と尋ねると、LaMDAは「友達や家族と一緒にいること」と答えた。もちろん、LaMDAには友達も家族もいない。そうした言葉は、LaMDAの発するほかのすべての言葉と同じで、心がなく、経験に基づいていない。統計上のパターンが合致する言葉を選んだだけであって、それ以上ではないのだ。

(wired.jpの記事から抜粋)

現状のAIはまだほんの初期段階なのでしょう。今はいろいろ驚異的な成果が出て来ていますが、それでも2〜3百年後の人にとって今の時代は、AI創始期でしょう。人類が生き延びることができれば、千年後、1万年後の世界はどれくらい進歩できているのか、興味のあるところです。人間にとって長い年月ですが、45億年の歴史を持つ地球にとっては一瞬です。

さて、上の引用に意識とか、意味を理解するという言葉が出てきました。意識とは何でしょう。あるいは無意識(深層の意識)もあると言われていますが…。

意識とは、例えば、意味を創造する能力と言ってよいかも知れない。そして意味を理解するとは、意味を造り出していると解釈してもよいと思う。個(自分)を認識するとか、他人のこころを思い量るとか、音楽を聞いて楽しむとか、自分の存在を意識するとか…。ハードウェア(神様が造った?)でなくソフトウェアの世界の創造ですね。それから、高等な動物(イルカ、ボノボ等々)にも心はありそうです。あるいは昔の原人やネアンデルタール人にも意識、心はあったのではないかと思います。

意識、心、精神、実感、情緒、認識、クオリア、雰囲気などなどと言われるものを科学的に論理的に説明できるのでしょうか。そういう話をいくつか聞きますけれども…。科学的には、この世界(宇宙)は素粒子で満ちていて、4種の力(と時間)が存在することが分かっています。現代科学的に云うと存在するものはそれだけだから、意識も素粒子と力から作り出されるということになります。科学者が築いたこの世界の法則は単純で美しい。その法則と膨大な量の粒子と複雑な関係性から〜その不可知のカオスから〜心がおのずと生まれるのでしょうか?かも知れません😎。

ここで、数学(論理学)にゲーデルの不完全性定理と云うものがあります。ごく簡単にいうと……ある論理世界(公理系)を考えたとき、その世界の言葉で表現されるものの中に、真か偽か証明も反証もできないものがある(ということだと思います)。10分で分かるかどうか保証できませんが、参考までに…

「自分の正しさを自分自身では証明できない」(上の記事より)とも言えるらしい(?)。これを勝手に強引に押し広げて解釈すると、人間というものは自分というシステムを自分で論理的に理解できない、と言えるかも知れません。(脇道に逸れました。これは論理的に飛躍し過ぎで、よい子はこんな推論をしてはいけません😓。)

では、理解できないものは、どうやっても理解できないのでしょうか。最初に分別という理解(分別智)を紹介しました。科学的な理解方法です。もっと正確に言えば“要素還元主義”です。しかし、一種類だけの智ですべてを理解しようとするのは、謂わば一神教的な立場です。人間のような複雑なシステムを扱う学問分野もあってよいと思います。いや、実際あって、複雑系と呼ばれています。個々の部分でなく、全体として考える立場です。複雑系はいろいろな分野で研究されています。応用範囲も広いし、わたしは詳しくないので、ここでは解説を省略します。

分別という言葉は、元々仏教用語です。これに対応して、無分別智という理解もあると仏教は教えています。神秘的なものでしょうか。少なくともわたしは、そうは思いません。分別が無い、つまり、分けない。言い換えれば全体的に捉えるということになるのでしょう。

例として、ブルース・リーの言葉、「考えるな、感じろ。」が分りやすいと思います。「燃えよドラゴン」という映画の中の台詞せりふです。「考えるな」とは、分析するな、部分に捉われるな、そして「感じろ」とは、全体としてそのまま捉えろ、と解釈できるでしょう(武術的な観点で他の解釈もあります)。彼の闘いは、基本的に自由自然必然の動作、無分別智の動作なのだと思います。同じ映画の他の箇所でも興味深い会話があります。以前書きましたが、ここに再掲しておきます。

師が問う「究極の技とは何だ。」答えて「型を持たぬことです。」
彼にとって個々の技はどうでもよい、ただ究極の目標、中心のみを見ている。その中心にいれば、何にでも自由に変化できるのである。続けて師が問う「では敵の前で何を思うか。」答えて「敵などいない」と。さらに師が問う「何故か。」彼の答えを意訳するとこうである。
“自分は常に覚醒している状態にあり、すべてが見えている。それゆえ誰にも妨げられない自由な動きができる。相手が押せば引き、引けば押す。攻撃するという意識もない。ただ自然の流れに任せていれば、必然的な動きだけになる。そこには意図的な自分がいない。自分がいなければ敵もいない。”

「筆順に寄せて−型、個性、自由」より

闘いを自分と敵と分別することなく、全体を一つと見て、そこに自然な動きの流れを見、それに従う……といったところでしょうか。
他方、彼は体を鍛え技を磨くために、分析的合理的な訓練方法など研究しています。

複雑系に代表されるように、現象世界の革新的な捉え方、考え方が、これからも出てくるかも知れません。そうすれば、意識や心の問題も多角的に理解が深まるかも知れません。

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さて今までインターネット上で検索できるいろいろな記事を引用しながら書いてきました。で、いったい書いた本人のわたしは、人間でしょうかそれともAIでしょうか。みなさんは、分かりますか?😀

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