劣即優

人間はパフォーマンス(評価)を優劣で判断する。
これは一種の分別である。

自分自身のパフォーマンスを優劣で判断した場合、優越感や劣等感につながる。
これは自分と他を比較して、相手が下と思えば優越感、上と思えば劣等感に繋がる。マイナスな感情で言えば、優越感は蔑みになり、劣等感は妬みになる。

だから
劣即評価 とか 劣即分別になる
劣等感は、パフォーマンスの分別の結果、自分が相手よりも劣るケースに起こる

優即評価 とか優即分別になる。
優越感は、パフォーマンスの分別の結果、自分が相手より優るケースに起こる。

優越感にしても劣等感にしても、相手と比較しなければ起きないことだ。だから比較しない人、自分自身に肯定感が強く、他と比べる必要がない人であれば、そのような感情はほとんどないであろう。

人間は相対的な生き物で、他と比較しない限り、自分のパフォーマンスを把握することができない。また他人が良いと思うもの、世間が良いと思うものを自分にも良いものと思う傾向がある。自分がどうであれ、人が羨ましいと思うことが、自分にとっても良いことと勘違いする。相手がどう思うかの方が、自分がどう思うかより大事に感じる。相手に承認されることが、自分で自分を承認するより、大事に感じる訳だ。
皆に承認されたいということは、皆の評価が高いよう、自分はなりたい、同質性を求めるわけだ。そうでないと自分を位置付けることができない、目標が定まらないということになる。

でも本当は、相手と比べなくとも、相手の評価を考えなくとも、自分で自分の評価を高く保てば、自ずと他人の評価も高くなるはずなのである。

相手と比べようが、比べまいが、自分で認めた基準でしか、判断はできない。それは自分の基準でしかないから、本当かどうかはまゆつばものである。
例えば、自分の基準で、こいつは仕事が俺よりできないと考えたとする。
でもそれは、自分の基準であり、他の人の基準からすれば、自分の方が仕事ができないと思うかもしれない。そう思えば、優越感や劣等感はあるようでないものだ、或いは混在するものだと言える。

そう思えば、他人と比べることに意味はなくなる。その途端に、相手の良いところを尊び、取り入れて、相手の良くないことを慰み、そこから反省することができる。



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