シャンカラ『ブラフマ・スートラの釈論』で「されど有〔すなわち梵(私注:ブラフマン)〕に〔他の物よりの〕生なし。不合理のゆえに」⇩ これはブラフマンは他の物から発生するものではないというのを説いている。ブラフマンは有を本性とするから ⇩ https://amzn.to/3CxDQRW
シャンカラ『ブラフマ・スートラの釈論』で「されど有〔すなわち梵(私注:ブラフマン)〕に〔他の物よりの〕生なし。不合理のゆえに」 ⇩ 前に20頁以上も議論しておいて、みたいな投稿したけれども、もっと短い議論で結論を出してる所もあった ⇩ https://amzn.to/3CxDQRW
本書では他説はあれども「仏教の「無我」が意味するのは「凡人の考えるような自我はない(中略)」」 ⇩ 他説はあれども無我は至福につながる。世の中には凡人もいるよね?そんな人の考えるような自我はないというのが無我でいいのかも? ⇩参考文献 https://amzn.to/42rgfNk
「涅槃を、サートヴィックな(純粋な)心と愛があふれる状態とも捉えることもできるよね?」とChatGPTにきいてみたら、「その通りです!」といわれた😛 涅槃=至福みたいなものだよね✨️ ⇩オススメ本。涅槃の定義は違えども、ヒントになった。 https://amzn.to/42tVTDe
モクシャ(悟り)によって個々の魂は完全な自由と至福を得る。モクシャはブラフマン(宇宙的真理)との一体感を意味する。つまり個々の存在が宇宙的真理と完全に一体化する☺️ ⇩参考文献。モクシャ(悟り)についての説明。参考文献をヒントに書いた✨️ https://amzn.to/3EgnyNZ
真我とは、福間巖さんのアートマンの訳である。 真我実現するには、➀真我探求と➁明け渡しがある。 ➁明け渡しとは、わかりやすくいえば、神(実は真我)に自我を明け渡すことで、自我をなくし、真我実現に至る、みたいな方法である。 ⇩参考文献 https://amzn.to/40tOMs0
ジーヴァ〔命我(注:=個人)〕は世界や肉体に執着するために、〔個人=真我の〕同一性が明らかではなくなっている。しかし、モクシャ(悟り)を得ることで、〔個人=真我の〕同一性を認識する😛 ⇩ジーヴァは普通個人と訳される。参考文献では命我。 https://amzn.to/3EgnyNZ
古代仏教、ヨーガスートラの起源さえ精霊信仰でありアニミズム。修験道より古い。布教上の都合によりどんどん教義が緩くなっていく新興宗教。現代仏教など邪教に過ぎず構造内の創作物、幻のについて学んだり信仰したりする必要はない。
本書では「仏教の「無我」が意味するのは、かならずしもアートマン(中略)を否定したものではない。」という説がある。 ⇩ だから、他説はあれどもアートマン(福間巖の訳では真我)があるので阿弥陀仏に➁明け渡しをしてもいいと思う。 ⇩参考文献 https://amzn.to/42rgfNk