ヒンドゥー・仏陀・タントリズム
インフレーション
ビッグバンの前にインフレーションがあった。それは空間の発生と膨張。熱力学的爆発はその後。
空間は時間と連続。時空は意識のフォーマット。つまり先に意識が生まれ、後から光=現象が発生した。認識なくして世界はない。
無→時空→光 という事態は、
空→真我→現象 と同義。それはさらに、
真空→量子真空→物質 でもある。
無とは真空であり、意識は量子真空、現象は光=電磁波のスペクトルである。我々の脳は、量子真空にアクセスしている。
空=充溢する「力」の相転移によって生まれた単一意識=真我が自己を認識したとき、光=現象世界=マーヤーが誕生した。それは宇宙の内部表現。観測行為が現象を生む。
光のリミットである時速30万kmを突破した先には、意識空間が広がっている。それは想念の世界、霊界である。仏教の世界観では、この構造を9次元で考える。いわゆる「三界九地」である。
空
無色界:精神のみの世界=情報次元
色界:微細な物質=量子的世界
欲界:物質世界
それぞれの界は複数の層に分かれており、計9層の先は空である。これは超弦理論と一致する。
ブラフマンを超える
高次元からは低次元の全てが認識できる。ゴータマ・ブッダは梵我一如を突破した。そしてブラフマンの内在原理をつかみ出し、現象世界を解剖した。だが、それはブラフマンの否定ではない。ブラフマン概念の「アップデート」である。概念をアップデートした以上、同じ言葉は使えない。そこで「仏性」や「空」、「真如」などの言葉が取って代わった。それは量子真空の先に真の真空を見出したことに他ならない。浮かんでは消える量子のさざなみ、その一つ一つが宇宙である。三千世界とはこの事。
それまでのバラモン教=ウパニシャッド的悟りは、例えるならPCの画面の解像度や明るさに終始していた。ところがブッダは「システム領域」に切り込んだ。これが「内在原理のつかみ出し」である。それは知慧である。以後、宇宙=PCの構造やプログラム言語、さらにはマシン語=内在原理の研究が本格化する。それがタントリズム、「密教」である。ヴェーダ時代にも密教的アプローチはあったが単純だった。苦行である。ゴータマ・ブッダ以降、それは論理的・実践的に精緻化が加速、一方で仏教理論を取り込んだバラモン教はヒンドゥー教として再生、両者は表裏一体の関係となる。六派哲学の成立。
ヒンドゥー教は現象を、仏教はシステムを重視する。仏教では業が宇宙の原因であると考えるのに対し、ヒンドゥー教では神的な意志が世界を創造する、と説く。表現の違い。程度の差はあれ、ヒンドゥー教=上部構造、仏教=下部構造ととりあえず図式化が可能。現象世界を積極的に肯定するヒンドゥー教が現世利益を認めるのは当然である。
システムをさわれば画面の映像は変化する。画面を操作しても、データは変わる。顕と密は一体である。
空海・スピノザ・ヘーゲル
ヒンドゥー教と仏教は相互批判を経る中で融合し、8世紀にイスラーム勢力による圧迫を受けてチベットに流入、以後密教化が極限まで進む。それは中国へと伝わり、道教のみならずゾロアスター教やネストリウス派キリスト教などあらゆる思想と実践の体系を統合した。それを独り受け継いだのが、空海である。
空海の残したテクストを読むと、そこに通底しているのはブラフマニズムに他ならない。姿形なき宇宙の真実在である大日如来、それはブラフマンでなくて何だろうか。空海の思想は果てしなく『バガヴァッド・ギーター』に近似している。これを日本では「本覚思想」と呼び習わしてきた。より高い次元から見れば、世界の運行は1ミリの狂いもない。全ての現象は真我=大日如来の自己表現である。
密教とはブラフマニズムと同義である。全ては根本原理の顕れであるからこそ、一切の差異を包含できる。同じ構造の思想は世界中に見られる。古代ギリシャなら、アナクシマンドロスの「ト・アスペイロン=無限定なるもの」、プロティノスの「一者の流出」、アリストテレス-アヴェロエスの「単一知性説」、12世紀スペインのイブン・アラビーが説く「存在一性論」、16世紀のカバリスト、ルリアによる「神の収縮」、など枚挙にいとまが無い。近代哲学なら、スピノザの汎神論、ヘーゲルの「絶対精神」、そして西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」も、このカテゴリーに入れてよいだろう。あるいは、バタイユの「過剰」、クリステヴァの「セミオティック/サンボリック」。はじめに「EXCÈS」があった。それは「力」である。
結び
神秘思想を持ち出すまでもなく、我々の肉体および物質世界は単一のエネルギーから出来ている。ビッグバンの直後は一面の光熱しかなかった。我々は文字通り一体だった。物質が単一のエネルギーであるなら、精神も同じ。意識と物質は連続している。全ては「存在そのもの」が相転移したスペクトル体である。