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罪と愛

西方教会はかなり罪に重心を置いており、「罪深い私達」と一度自己を徹底的にサゲることで、それでも救ってくれたキリストの愛に感謝せよ、というメッセージが繰り返し語られる。まぁそれもいいんだけど。

でもこれじゃあ罪深さを身代わりになって救ってやったんだから、見返りに服従と信仰を寄越せ、という神になってしまい、アガペー(無償の愛)の尊さ・偉大さが伝わらなくなるように思う。
要するに封建時代の御恩と奉公に似ていて、かなり恩着せがましいところがある。

私が最近近くの教会に通い始めて感じたこの何とも言えない重苦しさ、息苦しさの正体はこれだと思う。
キリスト教といえば日本ではクリスマスとかのなんかキラキラしたものに思われるけれど、ここにもある種の無我思想と抑圧があるし、それは仏教や他の宗教ともあまり変わらないのかもしれないと思う。

しかしこの罪深さとは一体何か。
日本人にはなかなか理解が難しいと思う。私は性善説はあまり好きじゃないし、誰でも弱さと悪の部分を持っていると思うから、誰でも罪を抱えてるというのはまぁ理解できる。
でもその悪の部分は人によって濃淡があるし、極悪人と良い人の区別はつけられるべきだろうと思う。だから最後の審判が必要なのだ。それにここでの罪というのは必ずしも犯罪のことではないという。
では、罪とは何か。

結局のところ、ユダヤ教の膨大な数の律法を守れなかった、守ろうとせずにキリスト教に乗り換えてしまったという、原初的な罪悪感が受け継がれているのではないかと私は思う。
パウロも律法のほとんどを守れない自分に絶望し、信仰義認論に至ったらしい。だからその背景を受け継がない、性善説的な儒教を見てきた日本人にはイマイチ理解できないのだと思う。

でもキリストは、それをこそ突破したかったんだと私は思うけどなぁ。
十字架刑にあった後、復活の際のキリストのメッセージは「あなた方に平安あれ」だった。「お前らの罪深さを絶対に忘れるな!俺がそれを救ってやったんだからな!感謝しろ!」では決してなかった。

生前にも数ある律法の中で一番大切なものは何かと聞かれて、第一の戒めは「主を愛すること」そして「隣人を愛すること」だと答えている。「罪深さを絶対に忘れないこと」ではない。人類が宗教と迷信に囚われていた2千年も前から、近代世界を形づくる「自由・平等・愛」という価値を唱えていたとても先進的な思想家でもある。
だからこそ大好きだし尊敬してるんだけどなぁ。

東方教会は罪深さと磔刑よりも、愛と復活を重視しているらしいし、そちらの方が私には合っているかもしれない。
にしても、同じテキストを参照していても、これだけ違う視点、解釈が生まれうるのだから人間は本当に面白いと思う。

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