科学と宗教は相克するのか
そもそも科学とはなんであろうか。生粋の文系が思うに、観測された結果と理論の2つの間で整合性が取れたときに進むことが出来る手法であり、またそれらを法則的かつ体系的にまとめられた知識の総体である。科学が求める究極目標は、世界をいかにシンプルに記述するかというものである。では他方、宗教とはどのようなものか。参考までに広辞苑の説明を読んでみる。
宗教:神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事・制度。また、それらの体系。帰依者は精神的共同社会を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの自然宗教、特定の民族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など。多くは経典・教義・典礼などを何らかの形で持つ。教祖がいる場合は創唱宗教と呼び、自然宗教と区別する。
なるほど、無神論者には意味としては分かるが、直感的に「あー、これのことか」と対応する経験がない。私は今無神論者と書いたが、よく言われるのは、日本人は実は無神論者じゃないという言説である。彼らの言い分は、クリスマスがあるし、お正月もある、加えていただきますも言う、日本人は実は宗教に対して寛容で、様々な宗教を曖昧に信仰しているというものである。どうであろうか、私が初めてこの言説を聞いた時はあまり納得できなかった。私に限ったことをいえば、私は基本的にいただきますもごちそうさまも言わないし、クリスマスやお正月を「私は無神論者なのでやりません」というわけではないが、別にただ習慣として過ごしているだけである。クリスマスを過ごすときに「嗚呼、基督様、降誕なさってくれてありがとう」などと思って過ごしているわけではない。宗教とは、習慣なのであろうか。私が見てきた帰依者は、それなりの理屈を説明できる者ばかりであったし、他の人もそうであると思う。日本人は、少なくとも私は、宗教に寛容なのではなくただ無関心なだけであろう。ただ都合の良い宗教の行事などを、かいつまんでいるだけである。例えばクリスマスがキリストの降誕に喜び、走り回る信徒を模して、フルマラソン走るという行事ならば、廃れていたのではないかと思う。(どこかの企業がビジネスチャンスとして、バレンタインのように記念日を利用しなければの話だが)
無神論者というと神を否定するという意味があるが、よくよく考えると私は否定すらしていないのである。眼中にないのである。信じる理由がないのだ。私が思うに、宗教とは弱い者が信じるものの"一部"であると思う。このようなことを言うとオマエは弱くないのか?と言われそうなのであえて明言するが、人間はみな弱く脆い。これは周知のことだろう。では私は宗教ではなく何を信じているのかというと、科学だ。私からすれば科学も何か信じるという点では、宗教である。宗教に見られる堅牢なルールは、主にものである。例えば神は絶対である、コーランは絶対である、のように"もの"が絶対になのに対して、科学は異なる。科学の絶対は手法、論理であった。さらに、論理学という学問から分かるように、その論理でさえも、自己言及さえ顧みずに、再考しようとしているのだ。つまり科学は全てにおいてフレキシブルでなければならない。権威的になってはいけないし、理論と異なる結果が出てきたらそれを吟味しなければならないのである。科学とは、フレキシブルであることに対してインフレキシブルなのである。
さて、話がさらに逸れそうな気がするので戻すと、元は宗教と科学は相克するのかという題であった。ガリレオ裁判のように、科学的知見と宗教の解釈が異なる場合は、相克することは歴史が示している。ではそれらを避けるために、宗教が少しでも科学に迎合したら、どうなるであろうか。すると、宗教の足場は消極的事実しかなくなる。つまり、隙間の神である。この神を信仰する宗教のみが科学と相克しないのである。隙間の神を信仰するくらいなら、無知に訴える論証に立ち向かった方がましだというのが科学を信仰するものとしての主張である。加えて、宗教さんとしても手洗い場くらいしかない場所で生活するくらいなら、最初から科学に迎合しない方がましなのではないか。