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性悪説と自由意志と救済と

プロテスタントの人間観には全的堕落という概念があり、これは人類が原罪を犯した時点で完全に罪に染まり、腐敗しきっているので、もはや救済を求めて手を差し伸べる自由意志さえ残っていない、というかなり強烈な性悪説だ。

それに対し東方教会の人間観は、人間が悪に傾きやすい性質を持っているものの、誰もがキリストの救いに手を差し伸べる自由意志を保持しているという。
それを東方教会では神の「像」と「肖」という言葉を用い、説明している。

「神の像」(ギリシア語: εἰκών)は「神に近づくための力や可能性や出発点」を、「神の肖」(ギリシア語: ὁμοίωσις)は「その実現や完成」を意味すると説明される。すなわち、人間は初めから完璧な者としてではなく、成長するものとして創られたとされる[1]。

Wikipediaより

人間は神の肖(神の100%の似姿)は失ったけれども、像(神に近づく意志や可能性)は破損しているだけで完全に失われてはいないというのだ。
自力だけでも他力だけでもなく、人間は神との「共働(シネルギア)」によって生活し成長し信仰し救われると正教会は教える。

普通にこの方がバランスが取れていて常識的で素敵な考え方じゃないかい?

あとこの、プロテスタントの完全他力救済かつ強烈な性悪説、浄土真宗だか浄土宗だかの世界観に非常によく似ているのだ。
この世は完全に堕落しきっていて穢れた穢土で、人間は悪人正機(全員例外なく悪人だから、自分を善人だと思ってる人より悪人だと思ってる人の方が正しい)、自力で助かるのは不可能だから、阿弥陀仏様に全てを委ねて救って頂く。超似てるでしょ?
洋の東西でこんなに離れているのに、宗教改革の結果、性悪説で他力本願的になっていくのが共通していて面白い。

要するにプロテスタントというのは、かなり救済のみに重点を置いているとも言える。行いとか見られて裁かれるのは怖い、信仰だけで無罪にしてとにかく救ってよ!て感じ。
救済の条件から行いを省くというのは、人間の自由意志や善行や成長、裁きや正義といった観念を捨てていると言える。いや、結構大事なもん捨ててるな、と思うんだけど…笑。

その代わり、行いを省くということは、信仰のみだから、行動の禁忌(婚前交渉・中絶・離婚禁止とかLGBT禁止とか)に緩くなる?
から、女性牧師やLGBTの牧師を受け入れられるわけだ。文化的マルクシズム、アイデンティティポリティクスって自由主義プロテスタントから来てるのかもね。

一方で、プロテスタントよりは行いを重視するカトリックは今中国と相当仲良しなようだ。
カトリックは行い重視な以上行動の禁忌を取り除けないが、聖書には元々金持ちは貧しき者に施せという社会主義的な教えがある。原始キリスト教団は私有財産を取り上げ配給を与える厳格な共産制だったようだし。
共産はともかく、貧しき者を救えという美徳があるから、私はキリスト教が好きなんだけどね。

今日プロテスタントは文化的リベラル、カトリックは経済的リベラルに舵を切っていると言えるのかもしれない。

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