タリシヒコの遣隋使が「日出る処の天子より、、」という上表文を隋帝に出して失敗したのは、その文面上の失敬もあるが、それ以上に当時軍事対立していた隋と高句麗の関係を考えれば推察できよう。 この東=天子=dergiということばが高句麗のセリフと同じだったから隋を刺激したのだろう。
満州語では天子をdele とかdergiという。 日本書紀に出てくる王命タリ(ラ)シヒコ。 タリシというのはdergiと同語ではなかったのか? 高句麗、百済語は謎だが満州語から類推はなし得る。 dergiには東という意味もある。 遣隋使が「日出る処の天子」としたのはその影響?
毎日がいつもMy日であり、メッセージ。 『10月4日』 ・104=テンシ ➡我が天使であり天子であることを思い出そう💗 #My日 #毎日 #インスピレーション
先日、どんな時でも空は美しいって書きました。今日、天使が降りてきそうな雲間の日射しと、悪魔が潜んでいそうな地獄のような雲を同時に見ました。 やっぱり、とても綺麗でした。
お前が見たくないもの 聴きたくないもの 感じたくないもの 触れたくないもの 嗅ぎたくないもの そこに、突っ込め! そここ先は、芳しき、 芳雅の世界✨ 奉加の世界 (神仏に捧げる世界) 忘我を超えた 宝雅 まれでかけがえのないみやびやかな天子 はじまり
エロトマニアという言葉があるけれど、妄想が一切ない恋愛は、成立しないと思う。
誰にも実践できない道徳など、ないも同然だ。それが持続可能になる条件は、浄土真宗よろしく、誰にでもできることだ。つまり、道徳は必然的に、何もしないことを最上とするように、なってしまう。