見出し画像

資料編 墨子 巻七 天志中(原文・読み下し・現代語訳)「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《天志中》:現代語訳
子墨子が語って言われたことには、『今、天下の君子で仁と正義を行おうと願う者は、正義より生じることがらを考察しない訳にはいかない。』と。既に述べたように、正義より生じることがらを考察しない訳にはいかないことについて、その正義はどこから生じて来るのだろうか。子墨子の言われたことには、『正義は、愚鈍で心賤しき者からは生じず、必ず、貴く知性が有る者から生じる。』と。どのようなことで、正義が愚鈍で心賤しき者からは生じず、貴く知性が有る者から生じることを知るのか。言われたことには、『正義は正しく物事を正す。』と。どのような事で、正義は正しく物事を正すことを知ったのか。言われたことには、『天下に正義が有れば、きっと、統治が可能で、正義が無ければ、きっと、統治は乱れるだろう。このことにより、正義が正しく物事を正すことを行うと知ったのだ。』と。愚鈍で心賤しき者は、初め、政治を貴く知性が有る者が行う結果を得、その後、政治を愚鈍で心賤しき者が行う結果を得た。これが、私が、正義は愚鈍で心賤しき者からは生じず、必ず、貴く知性が有る者から生じることを知った理由なのだ。それでは、どのような者を貴いとし、そのような者を知性があるとするのか。言われたことには、『天を貴いとし、天を知性とし、それを究極とする。』と。そうすると、正義は、やはり、天から生じるのだろうか。今、天下のある人が言うには、『まことに天子は諸侯よりも貴く、諸侯は大夫よりも貴いというようなことは、迷うことなく明らかにこれを理解する。しかし、私は、未だに天は天子よりも貴く、そして、知性があることを知らない。』と。子墨子が言われたことには、『私は天が天子よりも貴く、そして、知性があることを知る根拠を持っている。』と。言われたことには、『天子が善を行えば、天はきっとこれを褒賞し、天子が暴力を行えば、天はきっとこれを罰し、天子に疾病、災い、祟りが有れば、必ず、斎戒沐浴して、清らかに御酒や倶物を造り、それにより天帝鬼神に祭祀を行い、すると、天は、きっと、天子の疾病、災い、祟りなどを取り去る。一方、私は天が幸福を求めて天子に祈ったことを知らない。これが、私が、天が天子より貴く、そして知性があることを知る根拠なのだ。このことを理解できないのなら、これ以上、語ることは無い。』と。また、先の時代の王の書に、『天は、人が為すことを明らかにすることを怠らないことを人に知らせている。』と。これにより私が説くところのことを知ったのだ。言われたことには、『聡明で物事の道理に通じているものは、それは天である、それ故に地上世界に臨み統治する。』と。このことは、天は天子よりも貴く、また、知性を持つことを語っている。では、貴く、知性を持つ者は天なのか。言われたことには、『天を貴くとし、天を知性あるものとして、究極とする。』と。それでは、正義はどうして天から生じたのであろうか。このことについて、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子が、誠実に統治の方法に従い人民に利を与え、仁と正義の根本に基づき、統治の方法を考察することを願うなら、天の意向を尊重しない訳にはいかない。』と。そうすると、天の意向により、それに従って己自身を慎まない訳にはいかないことになる。
それでは、天は何を求め、何を憎むのか。子墨子の言われたことには、『天の意向は、大国が小国を攻め、大家が小家の安寧を乱し、力の強き者が力の弱き者に暴力をふるい、詐者が愚者を謀り、身分の貴き者が身分の賤しき者に驕ることを求めない、これは天が希望しないことがらである。このことを理解しないなら、これ以上、語ることは無い。』と。人は、余力を持つ者は互いに生業を営み、良き方法を知る者は互いに教え合い、余財を持つ者は互いに分け合うことを願うものである。また、上の者は努めて統治の是非を聴くことを、下の者は努めて事業に従事することを願うものだ。上の者が勤めて統治の是非を聴けば、きっと、国家は治まり、下の者が仕事に従事すれば、きっと、財物や用役は足りる。もし、国家が治まり財物や用役が足りれば、きっと、国内ではそれを用いて清く御酒や倶物を造り、それにより天帝や鬼神を祭祀し、対外的には円形の碧玉や朱玉の財宝を造り、それにより四方近隣の諸侯を招聘することが出来るであろう。諸侯に恨みは生じず、周囲の国境では紛争は生じないだろう。国内では飢饉でも備蓄を食い、勤労の合間に休息を取り、その万民の営みを保持すれば、きっと、君臣上下の関係では上は恩恵を、下は忠義を為し、父子弟兄の関係では上は慈恵を、下は孝行を為すであろう。このために、ひたすら、天の意向に従うことを明らかにし、天の意向を奉じて、広く天の意向を天下に施せば、きっと、刑罰と行政は治まり、万民は和し、国家は富み、財用は足り、百姓は寒さに暖かい服を着、飢餓に十分に食えることを得て、利便安寧となり生活の憂いは無くなるであろう。このことにより、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子は、誠実に統治の道(方法)に従い人民に利を与え、仁と正義の根本に基づき、統治の方法を理解することを願うなら、天の意向を尊重しない訳にはいかない。』と。
さらに、天子が天下を支配することとは、これを例えれば国君や諸侯がその国の四境の内の領土を支配していることに異なる所はない。今、国君や諸侯がその国の四境の内の領土を支配していて、その支配する臣下や国の万民に不利益をあたえることを希望するだろうか。今、もし、大国の立場に居たら小国を攻め、大家の立場に居たら小家の安寧を乱し、この行いにより褒賞と名誉を得ようと願っても、きっと、得られず、誅罰は、きっと、やって来る。天が天下を支配することは、このようなことと異なるところは無いのだ。今、大国の立場に居たら小国を攻め、大都の立場に居たら小都を討伐し、これにより幸福と俸禄を天に祈り得ることを願っても、幸福と俸禄はきっと得られず、逆に災いと祟りがきっとやって来るだろう。それなら、天が求めることがらを行わずに、天が求めないことがらを行えば、それならば、天もまた、人が願うことがらを行わず、逆に人が願わないことがらを行うであろう。人が願わないことがらとは何であろうか。言われたには、『病気・疾病・災い・祟りである。』と。もし、すでに天が求めることがらを行わないで、逆に天の求めないことがらを行えば、これは天下の万民を率いて災いや祟りの中で生業に従事することである。このために、古代の聖王は明確に天帝や鬼神の祝福することがらを理解し、そして、天帝や鬼神の嫌うことがらを避け、それにより、天下の利を興し、さらに天下の害を除くことを願った。このことにより、天が寒さや暑さを為すことに季節があり、四季は調和し、天候降雨は時節に適い、五穀は成熟し、家畜は繁殖生育し、疾病・災害・疫病・飢餓は来襲しない。これにより、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子、誠実に政治を治める道(方法)に従い民に利を与え、仁義の根本に基づき統治をおこなうことを理解しようと願うなら、天の意向を尊重しないわけにはいかないのだ。』と。
しかしながら、天下には不仁や不祥とされるものごとがあり、言うことには、『子は父に仕えず、弟は兄に仕えず、臣下は君に仕えないようなことが有る。』と。このため、天下の君子は、このようなことがらを挙げて、不祥なことがらと謂う。今、天は天下に互いに尊重することをさせ、互いに愛しみ、万物を成長成熟させてこれを利用する。百人の人智を超えるような英知の人のような人物の、このような人物は天が与えたことがらであって、民はこのような人物を得て、これを利用する。このような人物は君に仕えていない不仁の人と言うべきであろうか。しかしながら、その人物のことを天に知らせることをしなければ、その人物が不仁・不祥であることを知らないであろう。このようなこととは、私が説明する、所謂、君子は細部を理解するが、大きな全体を理解できないと謂うことだ。
また、私が、天が民を愛しむことは天下の隅々まで行き渡らせることを知る理由があって、言われたことには、『日月星の動きを見極め、それにより日月星の動きを明らかにして、春秋冬夏の四季を把握し、そこから四季それぞれの生業を規定し、四季での雷雨・降雪・降霜・降雨を計り、五穀や苧麻を成長させ、民にこれらの収穫を得させ、そしてこれらの収穫物を蓄え利用させ、山、川や渓谷の治山治水を行い、多くの事業を行い、さらにまた民の行いの善と否の判定に臨み、王公侯伯の区別を定め、この民を率いる王公侯伯により賢者を褒賞し、また暴者を処罰し、野生の鳥獣を駆除し、五穀や苧麻の生業に従事し、これにより、民の衣食での生産物として利用させた。古代から今に至るまで、未だこのようなことが無かったことは無い。』と。今、ここに人が居り、打ち解けてその子を愛しみ、努力を尽くし勤めに励みその子に利を与えた。その子が成長した後、その子が父の求めに応じることが無ければ、このことにより、天下の君子の皆はこの子の行いを不仁・不祥と言うだろう。今、天は天下に互いに尊重することをさせ、互いに愛しみ、万物を成長成熟させてこれを利用する。百人の人智を超えるような英知の人のような人物の、このような人物は天が与えたことがらであって、民はこのような人物を得て、これを利用する。このような人物を君に仕えていない不仁の人と言うべきであろうか。しかしながら、その人物のことを天に知らせることをしなければ、その人が不仁・不祥であることを知らないであろう。このようなこととは、私が説明する、所謂、君子は細部を理解するが、大きな全体を理解できないと謂うことだ。
また、私が、天が民を愛しむことを天下の隅々まで行き渡らせることを知る理由のことがらは、ここで示したことがらだけではない。言われたことには、『無罪の人物を殺す者には、天は不祥を与える。』と。無罪の人物とは誰の事だろうか。言われたことには、『人である。』と。人を殺す者に不祥を与えるものは誰であろうか。言われたことには、『天である。』と。もし、天が民を愛しむことを天下の隅々まで行き渡らせることがないならば、どうして、どのような理由があって、人は無罪の人を殺し、それにより天はこの殺人をした人に不祥を与えるだろうか。このことにより私が、天が民を愛しむことを隅々まで行き渡らせることを知る理由なのだ。また、私が、天が民を愛しむことが隅々まで行き渡らせることを知る理由のことがらは、このようなことだけに留まらないのだ。言われたことには、『人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者がいる。人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者がまたいる。』と。人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者とは誰なのか。言われたことには、『昔の三代の聖王、堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王のような者、このような者である。』と。堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王は、どのような事業に従事したのだろうか。言われたことには、『互いに尊重することに従事し、互いを差別することに従事せず。』と。互いに尊重することとは、大国の立場に居て小国を攻めず、大家の立場に居て小家の安寧を乱さず、強き者は弱き者を脅かさず、大勢は少数に暴力を振るわず、詐者は愚者を騙さず、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕らないことである。このことを観れば、上には天帝に利を与え、中には鬼神に利を与え、下には人に利を与え、この三つの利の利を与えないところはなく、これを天の徳、公平な分配と言う。天下の善なる名を収集して、古代の聖王の列に加え、言われたことには、『これが仁である、正義である、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者である。』と。ただ、このような事だけでなく、竹簡や帛布に書き、金や石に彫り刻み、槃盂に刻み、後世の子孫に事績を伝え残した。言われたことには、『何ごとかによりそれを行おうとするのか。』と。それは、その、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者を人々に知らせようとするのだ。詩経の『皇矣』の書にこのことを語って言うことには、『帝が文王に言うには、吾は明徳を思う。声が良いことをもって良いこととはせず、夏朝の改革をもってお手本とはせず、特定のなにごとかを特別に意識せず、帝の決まりごとに従う。』と。帝は、その法則に従うことを良しとし、それで殷朝が定めた法則を挙げて、これを賞め、貴いことには天子となり、富は天下にあり、名誉は現在に至るまで賞賛されている。それで、その、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者は、既にこのように名誉を得て記録に留め、それにより傳遺に留まるべきである。その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者は誰なのか。言うことには、『昔の三代の暴王、桀王・紂王・幽王・厲王のような者がそうである。』と。桀王・紂王・幽王・厲王は、どのような事業に従事したのだろうか。言われたことには、『差別に従事し、互いの尊重することに従事をしなかった。』と。差別とは、大国の立場に居て小国を攻め、大家の立場に居て小家の安寧を乱し、強き者は弱き者を脅かし、大勢は少数に暴力を振い、詐者は愚者を騙し、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕ることである。このことを観れば、上には天帝に利を与えず、中には鬼神に利を与えず、下には人に利を与えない、三つの不利を与えないところはなく、これを天賊と謂う。天下の醜き名を収集して、その名を暴王の列に加え、言うことには、『これは仁では無く、正義では無い。人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者なのだ。』と。ただ、このような事だけでなく、また、その事績を竹簡や帛布に書き、金や石に彫り刻み、槃盂に刻み、後世の子孫に伝え残した。言われたことには、『何ごとかによりそれを行おうとするのか。』と。その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者を人々に知らせようとするのだ。『大誓』の書にこのことを語って言うことには、『紂王は越の国に勢力を張り、あえて、上帝に仕えなかった。上帝に対する先祖からの神祇を棄て、その上帝や鬼神を祀らなかった。』と。そこで言うことには、『私(武王)には天命が有る。私の長兄の伯廖が天命を受け継ぐことはない。天もまた紂王を見捨てて、そして、紂王は天下を保てなかった。』と。天が紂王を見捨て、そして、紂王が天下を保てなかったことを観察すると、それは天の意向に反したからである。このため、その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者は、既にこのように醜き名を得て記録に留め、それにより傳遺に留まるべきである。
このようなことで、子墨子は、天の天意があることは、人に例えると、車輪を造る職人に規(コンパス)があり、建築の匠には矩(定規)が有ることと異なることは無い。今、車輪を造る職人が規(コンパス)を操るのは、それにより世の中の円と不円とを測定・区別し、言うことには、『私の規に当たるものはこれを円と言い、私の規に当たらないものは不円と言う。』と。このことにより、円と不円について、皆は心得て、そして、その区別を理解すべきものとなる。この理解すべきものという根拠は何なのだろうか。それは円の定義が明らかであるからだ。建築の匠もまたその矩(定規)を操るのは、世の中の正方と不正方とを測定・区別しようとするからである。言うことには、『私の矩に当たるものはこれを正方と言い、私の矩に当たらないものはこれを不正方と言う。』と。このことにより、正方と不正方について、皆は心得て、そして、その区別を理解すべきものとなる。この理解すべきものという根拠は何なのだろうか。それは正方の定義が明らかであるからだ。このため、子墨子は、天の意向が有ることとは、上には天の意向により天下の王公大人の刑罰や行政を行うことを規定しようとし、下には天下の民に善となる学を授け、言談を行うことを図ろうとするのである。その行いを観察すると、天の意向に従うことを、これを、意向を適切に行うと言い、天の意向に反することを、これを、意向を適切に行わないと言い、その言談を観察すると、天の意向に従うことを、これを、言談を適切に行うと言い、天の意向に従わないことを、これを、言談を適切に行わないと言い、その刑罰や行政を行うことを観察すると、天の意向に従うことを、これを、刑罰や行政を行うことが適切に行われていると言い、天の意向に従わないことを、これを、刑罰や行政を行うことが適切に行われていないと言う。それで、これを定め置いて法律とし、これを献立して儀礼とし、これを用いて、天下の王公大人卿大夫が為す行いの、その仁と不仁とを量ることは、これを例えると、ちょうど黒と白とに分別するように明確にしようとするのである。このようなことで、子墨子が言われたことには、『今、天下の王公大人士君子が、誠実に政治を治める道に従い、民に利を与え、仁義の根本に基づき明察したいと願うならば、天の意向に従わない訳にはいかない。天の意向に従うものとは、正義の法なのだ。』と。
 
注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。

《天志中》:原文
子墨子言曰、今天下之君子之欲為仁義者、則不可不察義之所従出。既曰不可以不察義之所従出、然則義何従出。子墨子曰、義不従愚且賤者出、必自貴且知者出。何以知義之不従愚且賤者出、而必自貴且知者出也。曰、義者、善政也。何以知義之為善政也。曰、天下有義則治、無義則乱、是以知義之為善政也。夫愚且賤者、不得為政乎貴且知者、然後得為政乎愚且賤者、此吾所以知義之不従愚且賤者出、而必自貴且知者出也。然則孰為貴、孰為知。曰、天為貴、天為知而已矣。然則義果自天出矣。今天下之人曰、當若天子之貴於諸侯、諸侯之貴於大夫、傐明知之。然吾未知天之貴且知於天子也。子墨子曰、吾所以知天之貴且知於天子者有矣。曰、天子為善、天能賞之、天子為暴、天能罰之、天子有疾病禍祟、必齋戒沐浴、潔為酒醴粢盛、以祭祀天鬼、則天能除去之、然吾未知天之祈福於天子也。此吾所以知天之貴且知於天子者。不止此而已矣、又以先王之書馴天明不解之道也知之。曰、明哲維天、臨君下土。則此語天之貴且知於天子。不知亦有貴知夫天者乎。曰、天為貴、天為知而已矣。然則義果自天出矣。是故子墨子曰、今天下之君子、中實将欲遵道利民、本察仁義之本、天之意不可不慎也。既以天之意、以為不可不慎已。
然則天之将何欲何憎。子墨子曰、天之意不欲大國之攻小國也、大家之乱小家也、強之暴寡、詐之謀愚、貴之傲賤、此天之所不欲也。不止此而已、欲人之有力相営、有道相教、有財相分也。又欲上之強聴治也、下之強従事也。上強聴治、則國家治矣、下強従事則財用足矣。若國家治財用足、則内有以潔為酒醴粢盛、以祭祀天鬼、外有以為環璧珠玉、以聘撓四隣。諸侯之冤不興矣、邊境兵甲不作矣。内有以食飢息労、持養其萬民、則君臣上下惠忠、父子弟兄慈孝。故唯毋明乎順天之意、奉而光施之天下、則刑政治、萬民和、國家富、財用足、百姓皆得煖衣飽食、便寧無憂。是故子墨子曰、今天下之君子、中實将欲遵道利民、本察仁義之本、天之意不可不慎也。
且夫天子之有天下也、辟之無以異乎國君諸侯之有四境之内也。今國君諸侯之有四境之内也、夫豈欲其臣國萬民之相為不利哉。今若處大國則攻小國、處大家則乱小家、欲以此求賞誉、終不可得、誅罰必至矣。夫天之有天下也、将無已異此。今若處大國則攻小國、處大都則伐小都、欲以此求福禄於天、福禄終不得、而禍祟必至矣。然有所不為天之所欲、而為天之所不欲、則夫天亦且不為人之所欲、而為人之所不欲矣。人之所不欲者何也。曰病疾禍祟也。若已不為天之所欲、而為天之所不欲、是率天下之萬民以従事乎禍祟之中也。故古者聖王明知天鬼之所福、而辟天鬼之所憎、以求興天下之利、而除天下之害。是以天之為寒熱也節、四時調、陰陽雨露也時、五穀孰、六畜遂、疾災戾疫凶饑則不至。是故子墨子曰、今天下之君子、中實将欲遵道利民、本察仁義之本、天意不可不慎也。
且夫天下蓋有不仁不祥者、曰當若子之不事父、弟之不事兄、臣之不事君也。故天下之君子、與謂之不祥者。今夫天兼天下而愛之、撽遂萬物以利之、若豪之末、非天之所為也、而民得而利之、則可謂否矣。然獨無報夫天、而不知其為不仁不祥也。此吾所謂君子明細而不明大也。
且吾所以知天之愛民之厚者有矣、曰以磨為日月星辰、以昭道之、制為四時春秋冬夏、以紀綱之、雷降雪霜雨露、以長遂五穀麻絲、使民得而財利之、列為山川谿谷、播賦百事、以臨司民之善否、為王公侯伯、使之賞賢而罰暴、賊金木鳥獣、従事乎五穀麻絲、以為民衣食之財。自古及今、未嘗不有此也。今有人於此、驩若愛其子、竭力單務以利之、其子長、而無報子求父、故天下之君子與謂之不仁不祥。今夫天兼天下而愛之、撽遂萬物以利之、若豪之末、非天之所為、而民得而利之、則可謂否矣、然獨無報夫天、而不知其為不仁不祥也。此吾所謂君子明細而不明大也。
且吾所以知天愛民之厚者、不止此而足矣。曰殺不辜者、天予不祥。不辜者誰也。曰人也。予之不祥者誰也。曰天也。若天不愛民之厚、夫胡説人殺不辜、而天予之不祥哉。此吾之所以知天之愛民之厚也。且吾所以知天之愛民之厚者、不止此而已矣。曰愛人利人、順天之意、得天之賞者有之、憎人賊人、反天之意、得天之罰者亦有矣。夫愛人利人、順天之意、得天之賞者誰也。曰若昔三代聖王、堯舜禹湯文武者是也。堯舜禹湯文武焉所従事。曰従事兼、不従事別。兼者、處大國不攻小國、處大家不乱小家、強不劫弱、衆不暴寡、詐不謀愚、貴不傲賤。観其事、上利乎天、中利乎鬼、下利乎人、三利無所不利、是謂天德。聚斂天下之美名而加之焉、曰、此仁也、義也、愛人利人、順天之意、得天之賞者也。不止此而已、書於竹帛、鏤之金石、琢之槃盂、傳遺後世子孫。曰将何以為。将以識夫愛人利人、順天之意、得天之賞者也。皇矣道之曰、帝謂文王、予懷明德、不大聲以色、不長夏以革、不識不知、順帝之則。帝善其順法則也、故挙殷以賞之、使貴為天子、富有天下、名誉至今不息。故夫愛人利人、順天之意、得天之賞者、既可得留而已。夫憎人賊人、反天之意、得天之罰者誰也。曰若昔者三代暴王桀紂幽厲者是也。桀紂幽厲焉所従事。曰従事別、不従事兼。別者、處大國則攻小國、處大家則乱小家、強劫弱、衆暴寡、詐謀愚、貴傲賤。観其事、上不利乎天、中不利乎鬼、下不利乎人、三不利無所利、是謂天賊。聚斂天下之醜名而加之焉、曰此非仁也、非義也。憎人賊人、反天之意、得天之罰者也。不止此而已、又書其事於竹帛、鏤之金石、琢之槃盂、傳遺後世子孫。曰将何以為。将以識夫憎人賊人、反天之意、得天之罰者也。大誓之道之曰、紂越厥夷居、不肯事上帝、棄厥先神祇不祀、乃曰吾有命、毋廖𠏿務。天亦縦棄紂而不葆。察天以縦棄紂而不葆者、反天之意也。故夫憎人賊人、反天之意、得天之罰者、既可得而知也。
是故子墨子之有天之、辟人無以異乎輪人之有規、匠人之有矩也。今夫輪人操其規、将以量度天下之圓與不圓也、曰、中吾規者謂之圓、不中吾規者謂之不圓。是以圓與不圓、皆可得而知也。此其故何。則圓法明也。匠人亦操其矩、将以量度天下之方與不方也。曰、中吾矩者謂之方、不中吾矩者謂之不方。是以方與不方、皆可得而知之。此其故何。則方法明也。故子墨子之有天之意也、上将以度天下之王公大人之為刑政也、下将以量天下之萬民為文学出言談也。観其行、順天之意、謂之善意行、反天之意、謂之不善意行、観其言談、順天之意、謂之善言談、反天之意、謂之不善言談、観其刑政、順天之意、謂之善刑政、反天之意、謂之不善刑政。故置此以為法、立此以為儀、将以量度天下之王公大人卿大夫之仁與不仁、譬之猶分黒白也。是故子墨子曰、今天下之王公大人士君子、中實将欲遵道利民、本察仁義之本、天之意不可不順也。順天之意者、義之法也。

字典を使用するときに注意すべき文字
政、正也。 ただす、の意あり。
馴、従也、善也。 したがはす、の意あり。
単、盡也。周也。 つくす、あまねく、の意あり。
文、美也、又善也 よし、ぜん、の意あり。
豪、智過百人者、謂之豪。 百人を過ぎる智恵者を豪と言う、の意あり。

《天志中》:読み下し
子墨子の言いて曰く、今、天下の君子の仁義を為さむと欲する者、則ち義の従りて出づる所を察せざる可からず。既に曰く以って義の従りて出づる所を察せざる可からず、然らば則ち義は何に従り出づるや。子墨子の曰く、義は愚(ぐ)且つ賤(せん)なる者従り出でず、必ず貴(き)且つ知(ち)なる者自り出づ。何を以って義の愚(ぐ)且つ賤(せん)なる者従り出でず、而(しかる)に必ず貴(き)且つ知(ち)なる者自り出づるを知るや。曰く、義は、善(よ)く政(ただ)すなり。何を以って義の善(よ)く政(ただ)すを為すを知るや。曰く、天下は義(ぎ)有れば則ち治まり、義無くば則ち乱る。是を以って義の善く政(ただ)すを為すことを知るなり。夫れ愚且つ賤なる者は、政(まつりごと)を貴(き)且つ知(ち)なるものが為すを得、然る後に政(まつりごと)を愚(ぐ)且つ賤(せん)なるものが為すを得る。此れ吾の義の愚且つ賤なるもの従り出でず、而して必ず貴且つ知なる者自り出づるを知る所以(ゆえん)なり。然らば則ち孰(いず)れを貴と為し、孰(いず)れを知と為す。曰く、天を貴と為し、天を知と為し而して已(や)む。然らば則ち義は果して天自り出づるや。今、天下の人の曰く、當(まこと)に天子は諸侯より貴く、諸侯は大夫より貴き若(ごと)きは、傐明(こうめい)に之を知る。然れども吾は未だ天は天子より貴且つ知なるを知らず。子墨子の曰く、吾の天は天子より貴且つ知なるを知る所以(ゆえん)のもの有り。曰く、天子が善を為せば、天は能く之を賞し、天子が暴を為せば、天は能く之を罰し、天子に疾病(しっぺい)禍祟(かすう)有れば、必ず齋戒(さいかい)沐浴(もくよく)し、潔く酒醴(しゅれい)粢盛(しせい)を為り、以って天鬼を祭祀すれば、則ち天は能く之を除去す。然れども吾は未だ天が福を天子に祈るを知らざるなり。此れ吾が天は天子より貴且つ知なるを知る所以なり。此を止(や)めずて而して已(や)むのみ、又た先王の書に、天明を解(おこた)らざるの道を馴(おし)ふる、こを以って之を知る。曰く、明哲なるは維(こ)れ天、下土(かど)に臨君(りんくん)す。則ち此れ天は天子より貴且つ知なるを語る。知らず亦た貴と知の有るは夫れ天なる者か。曰く、天を貴と為し、天を知と為し而して已む。然らば則ち義は果して天自り出づ。是の故に子墨子は曰く、今、天下の君子、中實(まこと)に将に道に遵(したが)ひ民を利し、仁義の本に本づき察せむと欲せば、天の意は慎まざる可からざるなり。既に天の意を以って、以って已を慎まざる可からざると為す。
然らば則ち天は将に何を欲し何を憎まむ。子墨子の曰く、天の意は大國が小國を攻め、大家が小家を乱し、強が寡を暴(ぼう)し、詐(さ)が愚(ぐ)を謀(はか)り、貴が賤に傲(おご)るを欲せず、此れ天の欲せざる所なり。此を止(や)めずて而(しかる)に已(や)むのみ。人の有力(ゆうりょく)相(あい)営(いとな)み、有道(ゆうどう)相(あい)教(おし)へ、有財(ゆうざい)相(あい)分(わか)つを欲するなり。又た上は強(つと)めて治を聴き、下は強(つと)めて事に従ふを欲す。上は強(つと)めて治を聴けば、則ち國家を治まり、下は強(つと)めて事に従へば則ち財用(ざいよう)は足る。若し國家は治まり財用(ざいよう)が足れば、則ち内には以って潔(いさぎよ)く酒醴(しゅれい)粢盛(しせい)を為り、以って天鬼を祭祀りは有り、外には以って環璧(かんへき)珠玉(しゅぎょく)を為り、以って四隣に聘撓(へいぎょう)する有り。諸侯に冤(うらみ)は興(おこ)らず、邊境(へんきょう)に兵甲(へいこう)は作らず。内には以って飢(き)を食(くら)ひ労(ろう)を息(やす)め、其の萬民を持養すれば、則ち君臣上下は惠忠に、父子弟兄は慈孝なり。故に唯毋(ただ)天の意に順(したが)ふことを明らにし、奉じて而して光(ひろ)く之を天下に施せば、則ち刑政は治まり、萬民は和し、國家は富み、財用は足り、百姓は皆煖衣(だんい)飽食(ほうしょく)することを得て、便寧(べんねい)にして憂(うれ)ひ無からむ。是の故に子墨子の曰く、今、天下の君子、中實(まこと)に将に道に遵(したが)ひ民を利し、仁義の本(もと)に本(もと)づき察せむと欲せば、天の意は慎まざる可からざるなり。
且つ夫れ天子の天下を有つや、之を辟(たと)ふるに以って國君諸侯の四境の内を有(ゆう)するに異なるは無し。今、國君諸侯の四境の内を有するや、夫れ豈に其の臣國萬民の不利を相為すを欲せむや。今、若し大國に處(お)れば則ち小國を攻め、大家に處れば則ち小家を乱し、此を以って賞誉(しょうよ)を求めむと欲するも、終(つい)に得(え)可(べ)からず、誅罰は必ず至らむ。夫れ天の天下を有するや、将に已(も)って此に異ること無からむとす。今、若し大國に處(お)れば則ち小國を攻め、大都に處れば則ち小都を伐ち、此を以って福禄を天に求めむと欲するも、福禄は終(つい)に得ず、而して禍祟(かすう)は必ず至らむ。然らば天の欲する所を為さずして、而して天の欲せざる所を為す所(ところ)有(あ)れば、則ち夫れ天も亦た且(まさ)に人の欲する所を為さずして、而して人の欲せざる所を為さむとす。人の欲せざる所のものは何ぞや。曰く、病疾(びょうしつ)禍祟(かすう)なり。若し已(すで)に天の欲する所を為さずして、而に天の欲せざる所を為せば、是は天下の萬民を率いて以って禍祟の中に従事するなり。故に古の聖王は明らに天鬼の福する所を知りて、而して天鬼の憎む所を辟(さ)け、以って天下の利を興して、而に天下の害を除かむことを求む。是を以って天の寒熱を為すことに節あり、四時は調(ととの)ひ、陰陽雨露は時にして、五穀は孰(じゅく)し、六畜は遂(と)げ、疾災(しつさい)戾疫(らいえき)凶饑(きょうき)は則ち至らず。是の故に子墨子の曰く、今、天下の君子、中實(もこと)に将に道に遵(したが)ひ民を利し、仁義の本に本づき察せむと欲せば、天の意は慎まざる可からずなり。
且(ま)た夫れ天下に蓋し不仁不祥の者有り、曰く、當に子は父に事(つか)へず、弟は兄に事(つか)へず、臣は君に事(つか)へざるが若(ごと)き。故に天下の君子は、與(あげ)て之を不祥の者と謂ふ。今、夫れ天は天下を兼(けん)し而して之を愛しみ、萬物を撽遂(げきつい)して以って之を利す。豪(ごう)の末の若(ごと)きは、非(か)の天の為す所にして、而して民は得て而して之を利す。則ち否と謂う可きや。然れども獨り夫(そ)の天に報ずること無くして、而して其の不仁不祥為(た)るを知らざるなり。此れ吾の所謂(いわゆる)君子は細(さい)に明かにして而して大(だい)に明かならざるなり。
且(ま)た吾の天が民を愛しむことの厚きを知る所以(ゆえん)のものは有りて、曰く、以って日月星辰を磨為(れきい)して、以って之を昭道(しょうどう)し、春秋冬夏の四時を制為(せいい)し、以って之を紀綱(きこう)し、雷降(らいこう)雪霜(せつそう)雨露(うろ)、以って五穀(ごこく)麻絲(まし)を長遂(ちょうすい)し、民をして得て而して之を財利せ使め、山川(さんせん)谿谷(けいこく)を列為(れつい)し、百事を播賦(はふ)し、以って民の善否を臨司(りんし)し、王公侯伯を為(さだ)め、之をして賢を賞し而(ま)た暴を罰し、金木鳥獣を賊し、五穀(ごこく)麻絲(まし)に従事し、以って民の衣食の財を為さ使めむ。古自り今に及ぶまで、未だ嘗(か)って此れ有らずんばあらずなり。今、此に人有り、驩若(かんじゃく)として其の子を愛しみ、力を竭(つく)し務(つとめ)を単(つく)して以って之を利す。其の子の長じて、而に子が父の求めに報じること無ければ、故に天下の君子は與(あげ)て之を不仁不祥と謂う。今、夫れ天は天下を兼(けん)し而して之を愛し、萬物を撽遂(げきつい)し、以って之を利す。豪(ごう)の末の若きは、非(か)の天の為す所にして、而に民は得て而して之を利す。則ち否と謂う可きや。然れども獨り夫の天に報ずること無くして、而に其の不仁不祥為(た)ることを知らざるなり。此れ吾の所謂(いわゆる)君子は細(さい)に明らにして而に大(だい)に明かならずなり。
且(ま)た吾の天が民を愛することの厚きを知る所以(ゆえん)のものは、止(ここ)に此のみにて而(しかる)に足らず。曰く、不辜(ふこ)を殺すものは、天は不祥(ふしょう)を予(あた)ふ。不辜のものは誰ぞや。曰、人なり。之に不祥を予(あた)ふるものは誰ぞや。曰く、天なり。若し天が民を愛しむことの厚からずんば、夫れ胡(なむ)の説ありて人は不辜を殺し、而して天は之に不祥を予(あた)へむや。此れ吾の天が民を愛しむことの厚きを知る所以(ゆえん)なり。
且(ま)た吾の天が民を愛することの厚きを知る所以(ゆえん)のものは、止(ここ)に此れ而して已(や)まず。曰く、人を愛しみ人を利し、天の意に順(したが)ひ、天の賞を得たる者有り。人を憎み人を賊(そこな)ひ、天の意に反し、天の罰を得たる者亦た有り。夫れ人を愛しみ人を利し、天の意に順(したが)ひ、天の賞を得たる者は誰ぞや。曰く、昔の三代聖王、堯舜禹湯文武の若き者、是なり。堯舜禹湯文武は焉(いずく)にか事に従ふ所ぞ。曰く、兼(けん)に従事し、別(べつ)に従事せず。兼は、大國に處(お)りて小國を攻めず、大家に處りて小家を乱さず、強は弱を劫(おびや)かさず、衆は寡を暴(ぼう)せず、詐(さ)は愚を謀(はか)らず、貴は賤に傲(おご)らず。其の事を観るに、上には天を利し、中には鬼を利し、下には人を利し、三利の利せざる所無し、是を天德と謂う。天下の美名を聚斂(しゅうれん)し而して之に加へて、曰く、此れ仁なり、義なり、人を愛しみ人を利し、天の意に順(したが)ひ、天の賞を得る者なり。止(た)だ此れ而已(のみ)ならず、竹帛(ちくはく)に書し、金石に鏤(ろう)し、槃盂(ばんう)に琢(たく)し、後世子孫に傳遺(でんい)す。曰く、将に何を以って為さむとするか。将に以って夫(そ)の人を愛しみ人を利し、天の意に順(したが)ひ、天の賞を得るものを識(しる)さむなり。皇矣(こうい)に之を道(い)ひて曰く、帝が文王に謂ふに、予(われ)は明德を懷(おも)ふ、聲の色を以って大(だい)とせず、夏(か)の革(かく)を以って長とせず、識(し)らず知(し)らず、帝の則(のり)に順(したが)ふ。帝は其の法則に順ふを善(よ)しとし、故に殷(いん)を挙げて以って之を賞し、貴きことは天子と為(な)り、富は天下を有ら使め、名誉は今に至るまで息(や)まず。故に夫(そ)の人を愛しみ人を利し、天の意に順ひ、天の賞を得たる者は、既に得て留(とど)め而して已(や)む可き。夫(そ)の人を憎み人を賊(そこな)ひ、天の意に反し、天の罰を得たる者は誰ぞや。曰く、昔の三代の暴王桀紂幽厲の若(ごと)き者是なり。桀紂幽厲の焉(いずく)にか事に従ふ所ぞ。曰く、別(べつ)に従事し、兼(けん)に従事せず。別(べつ)は、大國に處(お)れば則ち小國を攻め、大家に處れば則ち小家を乱し、強は弱を劫(おびやか)し、衆は寡を暴(ぼう)し、詐(さ)は愚を謀(はか)り、貴は賤に傲(おご)る。其の事を観れば、上には天を利せず、中には鬼を利せず、下には人を利せず、三不利の利する所は無く、是を天賊と謂う。天下の醜名を聚斂(しゅうれん)し而して之を加へて、曰く、此れ仁に非ざるなり、義に非ざるなり。人を憎み人を賊(そこな)ひ、天の意に反し、天の罰を得たる者なり。止(ここ)に此れ而已(のみ)ならず、又た其の事を竹帛(ちくはく)に書し、金石に鏤(ろう)し、槃盂(ばんう)に琢(たく)し、後世子孫に傳遺(でんい)す。曰く、将に何を以って為さむとするか。将に以って夫(そ)の人を憎み人を賊(そこな)ひ、天の意に反し、天の罰を得たる者を識(しら)さむとするなり。大誓(だいせい)に之を道(い)ひて曰く、紂越に厥(そ)れ夷居(いきょ)して、肯(あへ)て上帝に事(つか)へず、厥(そ)の先(せん)神祇(じんぎ)を棄(す)てて祀(まつ)らず。乃ち曰く、吾に命有り、廖𠏿(りくそれ)務(つと)むは毋(な)し。天も亦た紂を縦棄(じゅうき)して而して葆(たも)たず。天の以って紂を縦棄(じゅうき)して而して葆(たも)たず者を察するに、天の意に反するなり。故に夫の人を憎み人を賊(そこな)ひ、天の意に反し、天の罰を得たる者は、既に得て而して知る可きなり。
是の故に子墨子の天の之れ有るは、人に辟(たと)ふるに以って輪人(りんじん)に規(き)有り、匠人(しょうじん)に矩(く)有るに異なること無しなり。今、夫(そ)れ輪人(りんじん)の其の規(き)を操(と)るは、将に以って天下の圓(えん)と不圓(ふえん)とを量度(りょうたく)し、曰く、吾が規(き)に中(あた)たるものは之を圓(えん)と謂ひ、吾が規に中(あた)たらずものは之を不圓(ふえん)と謂ふ。是を以って圓と不圓は、皆は得て而して知る可きなり。此れ其の故は何ぞや。則ち圓法(えんほう)は明かなればなり。匠人(しょうじん)も亦た其の矩(く)を操(と)るは、将に以って天下の方(ほう)と不方(ふほう)とを量度(りょうたく)せむとするなり。曰く、吾が矩(く)に中(あた)るものは之を方(ほう)と謂ひ、吾が矩に中らざるものは之を不方(ふほう)と謂ふ。是を以って方と不方とは、皆は得て而して之を知る可し。此れ其の故は何ぞや。則ち方法(ほうほう)は明かなればなり。故に子墨子の天の意有るや、上には将に以って天下の王公大人の刑政を為すを度(はか)らむとし、下には将に以って天下の萬民の文(ぜん)なる学を為し言談(げんだん)を出だすを量(はか)らむとするなり。其の行を観るに、天の意に順(したが)ふを、之を意行(いこう)を善(よ)くすと謂ひ、天の意に反するを、之を意行を善くせずと謂ひ、其の言談(げんだん)を観るに、天の意に順(したが)ふを、之を言談を善くすと謂ひ、天の意に反するを、之を言談を善くせずと謂ひ、其の刑政を観るに、天の意に順(したが)ふを、之を刑政を善くすと謂ひ、天の意に反し、之を刑政を善くせずと謂ふ。故に此を置(お)き以って法(のり)と為し、此れを立てて以って儀(ぎ)と為し、将に以って天下の王公大人卿大夫の仁と不仁とを量度(りょうたく)すること、之を譬(たとえ)ふるに猶ほ黒白を分つがごとくせむとするなり。是の故に子墨子の曰く、今、天下の王公大人士君子、中實(まこと)に将に道(みち)に遵(したが)ひ民を利し、仁義の本(もと)に本づき察せむと欲せば、天の意は順(したが)はざる可からざるなり。天の意に順(したが)ふ者は、義の法(のり)なり。

いいなと思ったら応援しよう!