十八史略の後漢末、三国志前夜1
荀淑(じゅんいくの祖父)や桓帝のお話です
十八史略 荀淑・陳寔
2011-08-23 09:26:23 | 十八史略
徳星あらわる。
前朗陵侯相潁川荀淑、少博學有高行。李固・李膺等、皆師宗之。相朗陵。治稱神君、子八人、時人稱爲八龍。其六曰爽。字慈明。人言、荀氏八龍、慈明無雙。縣令命其里、曰高陽里。爽嘗謁李膺。因爲之御。既還喜曰、今日乃得御李君矣。同郡陳寔與淑齊名。嘗詣淑。長子紀字元方、御車、次子字季方驂乗、孫羣字長文、尚幼。抱車中、至淑家。八龍更迭侍左右。淑孫字文若、尚幼。抱置膝上。太史奏、星見。五百里内有賢人聚。
寔嘗爲大丘長、修清浄。吏民追思之。紀・之子、問其父優劣於其祖。寔曰、元方難爲兄、季方難爲弟。
前(さき)の朗陵侯の相(しょう)潁川(えいせん)の荀淑(じゅんしゅく)、少(わか)くして博学、高行(こうこう)有り。李固・李膺(りよう)等、皆之を師宗(しそう)とす。朗陵に相たり。治、神君と称す。子八人、時人(じじん)称して八龍と為す。其の六を爽と曰(い)う。字(あざな)は慈明。人言(いわ)く、荀氏八龍、慈明無双なり、と。県令其の里に命じて、高陽里と曰(い)う。爽嘗て李膺に謁す。因って之が為に御す。既に還り、喜んで曰く、今日(こんにち)乃ち李君に御するを得たり、と。
同郡の陳寔(ちんしょく)、淑と名を斉(ひと)しうす。嘗て淑に詣(いた)る。長子紀、字は元方、車を御し、次子(しん)、字は季方、驂乗し、孫群、字は長文、尚幼なり。車中に抱かれて、淑が家に至る。八龍更(こも)ごも迭(たが)意に左右に侍す。淑の孫(いく)、字は文若、尚幼なり。膝上(しつじょう)に放置す。
太史奏す、徳星見(あら)わる。五百里の内、賢人の聚(あつ)まる有らん、と。
寔嘗て大丘の長と為り、徳を修めて清浄なり。吏民之を追思(ついし)す。紀・の子、其の父の優劣を其の祖に問う。寔曰く、元方は兄(けい)たり難く、季方は弟たり難し、と。
前の朗陵侯の宰相で潁川の荀淑は、ころから博学で高潔であった。李固や李膺たちは皆荀淑を師と仰いでいた。朗陵の宰相となると、その施政により神君と讃えれていた。荀淑には八人の男子がいて、八龍と呼んでいた。その六番目を爽といい、字を慈明といったが、人はまた八龍の中で並ぶ者なしと見做していた。県令はその里をいにしえの高陽氏にあやかって、高陽里と呼ぶように布令した。爽はあるとき李膺を訪ね、その折、李膺の御者をさせてもらったことがあり、喜んで家に還って「きょうは李君を御すことができた」と言った。
同じ郡の陳寔も荀淑と並んで名声が高かった。あるとき陳寔が荀淑を訪れた。長男の紀、字は元方が車を御し、次男の、字は季方が陪乗し、幼い孫の群、字は長文は、車の中で抱かれて荀淑の家に着いた。淑の家では八龍たちがかわるがわる出てきてもてなした。まだ幼い孫の、字は文若は、膝の上に抱かれていた。
この日、天文官が帝に奏上した「徳星があらわれました。五百里内に賢人が集まっているのでありましょう」と。
陳寔は嘗て大丘いうまちの長となってよく徳を修めて清廉であった。そのため部下も民も、後になつかしみ慕った。ある時、長男紀の子と次男の子が互いの父の優劣を祖父の寔に聞くと、「元方も季方もどちらが兄、どちらが弟とも言いかねるな」と答えた。
八龍 荀倹・荀緄・荀靖・荀壽・荀詵・荀爽・荀粛・荀剪。 高陽里 伝説上の帝王顓頊(せんぎょく)高陽氏に八人の賢人、八(がい)がいたことによる。 太史 天文、暦算をつかさどり、あわせて国史を記録する官。
十八史略 崔寔の政論
2011-08-25 13:06:18 | 十八史略
詔擧獨行之士。涿郡崔寔至公車。不對策、退而著政論。略曰、聖人能與世推移、俗士苦不知變。以爲、結繩之約、可復治亂秦之緒、干之舞、可以解平城之圍。夫刑罰者、治亂之藥石也。教者、興平之粱肉也。以教除殘、是以粱肉治疾也。以刑罰治平、是以藥石供養也。自數世以來、政多恩貸。馭委其轡、馬駘其銜、四牡横犇、皇路險傾。方將拑勒鞬輈、以救之。豈暇鳴和鑾清節奏哉。昔文帝雖除肉刑、當斬右趾棄市、笞者往往至死。是文帝以嚴致平、非以寛致平也。仲長統見其書曰、凡爲人主、宜寫一通置之坐側。
詔(みことのり)して独行の士を挙げしむ。涿郡(たくぐん)の崔寔(さいしょく)公車に至る。対策せずして、退いて政論を著わす。略に曰く、聖人は能く世と推移し、俗士は変を知らざるに苦しむ。以為(おも)えらく、結縄(けつじょう)の約は復た乱秦の緒を治む可く、干(かんう)の舞は、以って平城の囲みを解く可し、と。夫れ刑罰は乱を治むるの薬石なり。徳教は、平を興すの粱肉なり。徳教を以って残を除くは、是れ粱肉を以って疾を治むるなり。刑罰を以って平を治むるは、是れ薬石を以って養に供うるなり。数世より以来、政(まつりごと)恩貸(おんたい)多し。馭(ぎょ)はその轡(たずな)を委(す)て、馬はその銜(くつわ)を駘(ぬ)ぎ、四牡(しぼ)横に犇(はし)り、皇路険傾(けんけい)す。方(まさ)に将(まさ)に勒(ろく)を拑(けん)し、輈(ちゅう)を鞬(けん)して、以って之を救わんとす。豈和鑾(からん)を鳴らし、節奏を清うするに暇(いとま)あらんや。昔、文帝、肉刑を除くと雖も、右趾(ゆうし)を斬るに当るは棄市(きし)し、笞者(ちしゃ)は往往死に至る。是れ文帝厳を以って平を致し、寛を以って平を致すに非ざるなり、と。仲長統(ちゅうちょうとう)其の書を見て曰く、凡そ人主(じんしゅ)たるものは、宜しく一通を写して之を坐側(ざそく)に置くべし、と。
独行の士 人におもねることなく、正義を行う人。 公車 役所の名。 対策 答案を書くこと。 結縄 文字の無かった時代、縄を結んで約束とした。 干 干は盾、舞の小道具、禹王が舞い蛮族が服従したという。 平城の囲みを解く 前漢の武帝が匈奴に包囲された際、陳平の奇計によって難を逃れた事。粱肉 よい穀物とうまい肉。 残を除く 賊を退ける。 恩貸 めぐみ、恩を限られた人に与えること。 四牡 四頭の牡馬。 皇路 皇帝の馬車。 勒を拑し おもがいを握る。 輈を鞬して ながえを繋いで。 和鑾 馬に付ける鈴。 節奏 調子をとる。 右趾 右足。 棄市 死者を市にさらす刑。 笞者 鞭打ちの刑に処された者。 人主 人の上に立つ者。
桓帝は詔勅を下して、独行の士を推薦させた。河北の涿郡から崔寔が役所まで来たが、試験には応じずに帰り、政論一編を著した。大略はこうである。
聖人はよく時勢に順応できるが、俗人は変化を知らないから苦しむのである。思うに、上古、縄を結んで約束の印としたそのやり方で、乱れた秦の政治を変革する糸口となり、また禹王が蛮族を帰服させた舞をもって、高祖が匈奴の囲みを解く事ができたと考えているのである。
そもそも刑罰というものは乱世を治める薬であり、徳教は太平を興す美食である。徳教によって賊を除こうとするのは、美食によって病気を治そうとするものであり、刑罰によって太平を招来するのは、薬を栄養にしようとするものです。この数世より、政治にはただ寛容さばかりが多く、例えて言えば、馭者は手綱を放し、馬はくつばみを外し、四頭立ての馬車は横ざまに走り、天子の御車は覆えらんばかりであります。今こそまさにおもがいを引きしめ、ながえを繋ぎ、これを救わなければなりません。どうして鈴を鳴らして、調子をとってなど言っている暇があるでしょうか。昔、文帝は身体を傷つける刑は廃止したというが、右足を切る刑に相当するも罪人を獄門にかけてさらし、鞭打ちの刑をもしばしば死に至らしめた。これは文帝が厳格さによって太平を招来したのであって、寛大さで招かれたのではない。
仲長統がこの書を見て「すべて人に君たる者は、この書一通を写して座右に置くべきであろう」と言った。
十八史略 朱穆
2011-08-27 09:32:30 | 十八史略
朱穆爲冀州刺史。令長望風、解印去者數十人。及到奏劾貪汚。有宦者歸葬父用玉匣。穆案驗、剖其棺出之。上聞大怒、徴穆詣廷尉。太學生劉陶等數千人、上書訟穆。謂中官竊持國柄、手握王爵、口銜天憲。穆獨亢然不顧。竭心懐憂、爲上深計。臣願代穆罪。上赦之。陶又上疏、乞以穆及李膺輔王室。書奏不省。
梁冀凶恣日積。以外戚用事者二十年。威行内外、天子拱手而已。上與宦者單超等謀、勒兵収冀印綬。冀自殺。梁氏無少長皆棄市。超等五人皆侯。自冀誅、天下想望異政。黄璚首爲太尉。
朱穆(しゅぼく)、冀州(きしゅう)の刺史と為る。令長(れいちょう)、風(ふう)を望み、印を解いて去る者数十人。到るに及んで貪汚(たんお)を奏劾(そうがい)す。宦者父を帰葬(きそう)するに玉匣(ぎょっこう)を用うるもの有り。穆、案験(あんけん)して、その棺を剖(ひら)いて之を出す。上(しょう)聞いて大いに怒り、穆を徴(め)して廷尉に詣(いた)らしむ。太学生劉陶等数千人、上書して穆を訟(うった)う。謂(いわ)く中官国柄(こくへい)を竊持(せつじ)し、手に王爵を握り、口に天憲を銜(ふく)む。穆独り亢然として顧みず。心を竭(つく)し憂いを懐き、上の為に深く計る。臣、願わくは穆が罪に代らん、と。上之を赦す。陶、又上疏(じょうそ)して、穆及び李膺(りよう)を以って王室を輔(たす)けんと乞う。書、奏すれども省せず。
梁冀、凶恣(きょうし)日に積む。外戚を以って事を用うる者(こと)二十年。威内外に行われ、天子手を拱(きょう)するのみ。上、宦者單超(ぜんちょう)等と謀り、兵を勒(ろく)して冀が印綬を収む。冀自殺す。梁氏少長と無く皆棄市せらる。超等五人皆侯たり。冀の誅より天下、異政を想望す。黄璚(こうけい)首として太尉と為る。
令長 県令、邑長。 望風 評判を知る。 貪汚 欲深くきたないこと。 奏劾 罪状を奏上すること。 玉匣 玉片を綴り合わせて遺体を覆う葬服、王侯のみに許されたもの。 案験 取り調べ、吟味。 中官 宮中の宦官。 国柄 国家統治の権。 竊持 ぬすみ持つ。天憲 天子の法令。 亢然 昂然に同じ、意気さかんなさま。 上疏 事情を記して奉ること、上書。 省せず つまびらかにしない。 凶恣 凶悪な行いをほしいままにすること。 拱手 腕組みをする、何もしないこと。 勒 勒兵、軍隊を統御すること。 太尉 三公の一、軍事長官。
朱穆が冀州の刺史となった。それを聞くと県令や邑長で自ら辞めて逃げ去る者が数十人に及んだ。着任して直ちに汚職まみれの官吏どもを弾劾する上奏文を奉った。ある宦官が、その父を郷里に埋葬する際、天子の礼である、玉をちりばめた葬服を用いた者があった。朱穆はこれを取り調べ、墓をあばいて取り出させた。帝はそれを聞いて大いに怒り、朱穆を呼び戻して廷尉に引き渡した。太学生の劉陶等数千人が、帝に上書して穆の無実を訴えて「宦官が国家の権力を盗み取り、手には爵位与奪の権を握り、口には天子の法令を銜えている。朱穆だけは昂然としてわが身を顧みず、心底これを憂い、陛下の為に深く考えているのです。どうか私を代りに罰してください」と嘆願した。桓帝はそれで朱穆を赦した。劉陶はまた上書して朱穆と李膺の二人を王室の補佐役にされたいと願い出たが、何の音沙汰もなかった。
梁冀の凶悪専横は日ごとに増してきた。外戚であることを利用して政権を専らにすること二十年におよび、威は朝廷の内外に行われたが、桓帝はただ手をこまねいているだけであったが、たまりかねて宦官の單超と謀り、急遽兵を整えて、冀の大将軍の印綬を取り上げた。そこで冀は自殺し、梁一門は老若を問わず、すべて獄門にさらされた。單超ら五人が諸侯となった。冀が誅せられてから、人々は新しい政治を待望した、まず最初に黄璚が太尉となった。